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三河深溝~西尾放浪・慈本豪英尼

 12月7日14時頃、深溝断層から三ヶ根山を望みつつ南下。


拾石川沿いに西へと歩を進め、逆川の羽梨神社に参拝。


知多半島最南端の羽豆神社を勧請した社です。交通量の多い県道に出て西へ進むと西尾市(旧・吉良町)に入り、正面に碧南火力発電所の煙突を遠望しつつ、緩やかな坂を下ってゆきました。右手の山には採石場が続き、道を大型ダンプが行き交います。矢崎川沿いの県道に入り、宮迫の神明神社、元禄15年12月15日未明(1703)の赤穂浪士討ち入りで、吉良上野介のお供をして討ち死にした清水一学の墓がある円融寺と巡拝。左手に広がる茶畑、右手に聳え立つ急峻な崖。



大型車が通る車道の、あるかなきかの歩道を歩き続けるのは、山行に劣らず危険です。15時半、ようやく駮馬(まだらめ)に着きました。豪潮律師のお弟子・慈本豪英尼の故郷です。
 肥後・玉名郡出身の天台僧・豪潮律師は、宝篋印塔八万四千造立の大願を発し、享和2年(1802)肥前小松の大興善寺の塔を皮切りに、壮麗な宝篋印塔を九州各地に起てました。


(阿蘇・西巌殿寺、2016.10参拝時)


(長崎・本河内、2017.5参拝時)


(平戸・最教寺、2017.9参拝時)


(筑前芦屋・海雲寺、2017.9参拝時)
文化14年(1817)、尾張藩主・徳川斉朝の帰依を受けて尾張に移り、肥後出身の法友・珍牛禅師が住していた曹洞宗・萬松寺に三年掛錫の後、知多の岩窟寺(岩屋寺)を中興、文政6年(1823)には名古屋城の北東・柳原に長栄寺を再興されています。尾張に来てからも、萬松寺、岩屋寺をはじめ東海各地に宝篋印塔を造立されたのでした。


(知多・岩屋寺、2017.8参拝時)


(乙川・海蔵寺、この日の午前中参拝)


(郡上・白山中宮長瀧寺、2017.6参拝時)


(岡崎・真福寺、2017.11参拝時)
 慈本豪英尼が豪潮律師に弟子入りしたのは、律師の最晩年、80歳をすぎた頃でした。その後、慈本尼は則定(豊田市)の羅漢山にて天保2~4年(1831~33)に千日念仏行を修され、豪潮律師が87歳で遷化された天保6年(1835)に駮馬の真珠院に住し、再び千日念仏行をされたのでした。天台宗の僧である豪潮律師は、円(法華)・密(密教)・禅・戒の四宗相承の行者でありますが、知多の岩屋寺に住してからは「顕密二教は更なり、且つ念仏門を弘宣せられた」(「豪潮律師畧伝」)そうで、各地に念仏講を作っていたようです。慈本尼の念仏行も、律師の行願に触発された行であったのでしょう。
 真珠院への登り口がよく分からず、しばらく行きつ戻りつしていましたが、観音堂から奥へ急坂を登ると、茶畑のある高台に出ました。ようやく、西日を受けた真珠院に参拝。


本堂脇の藪中に大きな塔があり、藪を登ってみると、「浄土三部経塔」と書かれてありました。


昭和6年(1931)、中国浄土教を大成された善導大師の千二百五十年大遠忌を記念して起てられたようですが、その形は、豪潮律師の宝篋印塔に似ています。塔前にて念仏をお称えしました。
 浄土三部経塔からさらに奥へ藪中の踏み跡を登ってゆくと、「行場」がありました。


慈本豪英尼が千日念仏を行じた処です。行場はさほど広くなく、白山・大汝峰頂の白山会小屋くらいの広さ。慈本尼は、この行場内でさらに小さな「千日箱」に籠り、千日間、一心に念仏されたそうです。凄まじい苦行にも思えますが、慈本尼は闇の中で、阿弥陀さまの光明と一つになったのでしょうか。
 行場のさらに奥に、慈本尼のお墓がありました。


慈本尼が遷化されたのは、弘化4年(1847)41歳の時でした。豪潮律師の最晩年に弟子となった慈本尼と律師との出会いは、同時代の越後の良寛和尚と、貞心尼との出会いを思わせます。慈本尼の墓前にて念仏をお称えし、律師と慈本尼の行願を念い、み仏のお導きの尊さ・有難さに、光明に、掌を合わせました。



南無阿弥陀仏なむあみだぶと生れ来て南無阿弥陀仏と共に往生
(豪潮律師 辞世の歌)
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松樸裏

Author:松樸裏
自由と孤独を愛するアウトサイダーと、万物の母たる大自然との一対一の対話
2006~奥美濃の藪山を登り始める
2009~白山三禅定道を毎年登拝
2016~19白山美濃馬場の古の山伏の行場「白山鳩居峯」のうち五宿を毎月巡拝、以後随時巡拝