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三河深溝~西尾放浪・吉良上野介

 12月7日16時、駮馬の真珠院を下って向かいの丘へ。丘の上には東条吉良氏の居城・東条城の跡がありました。


永禄3年(1560)、桶狭間の合戦で今川義元が織田信長に討たれると、松平元康(後の徳川家康)は今川氏からの独立を目指しました。翌永禄4年(1561)、元康は東条城を攻め吉良義昭は降伏、東条吉良家は滅びましたが、後に義昭のおい・義定が徳川の旗本に取り立てられ、高家吉良家として存続したのでありました。
 東条城から西へ歩を進め、藤波畷古戦場へ。


松平元康と吉良義昭の合戦地です。西日に念仏をお称えしました。北西へと道を急ぎ、高家吉良家の菩提寺・華蔵寺に参拝。


境内には、元禄15年12月15日未明(西暦1703年1月)に赤穂浪士に討たれた吉良上野介義央(よしひさ)公など、吉良家六代のお墓があります。


宝篋印陀羅尼と念仏をお唱えし、吉良家、および赤穂事件で亡くなられた双方の方々の菩提を弔いました。墓所の奥には、上野介義央公が元禄13年(1700)、鉄眼禅師の一切経を納める為に寄進した経堂が建っています。


肥後・益城郡出身の黄檗宗の僧・鉄眼禅師が一切経の版木を十七年かけて開版したのは、延宝6年(1678)。経堂を建立して黄檗版一切経を納めた義央公は、その翌元禄14年(1701)3月、江戸城松の廊下にて浅野内匠頭長矩(ながのり)に切りつけられたのでした。夕暮れの堂前で、般若心経をお唱えしました。
 17時前、東条吉良家の菩提寺・花岳寺に参拝。


此処も、義央公が諸堂を修復しています。「忠臣蔵」では意地悪な悪役にされている義央公ですが、地元では名君として慕われてきたのでした。高家吉良家の館があった岡山陣屋跡を経て、北へ。


夕闇の中、黄金堤(こがねづつみ)を歩きました。


吉良上野介義央公が貞享3年(1686)に築いたこの堤によって、下流八千石の田園が水害から救われたそうです。何事も、一方的な見方ばかりしていては、真相は掴めないことを実感しました。
 天和3年(1683)より、公儀の儀式典礼を司る「高家肝煎(こうけきもいり)」を勤めていた吉良義央公は、立場上、若い諸大名に厳しいことを言わねばならぬこともあったでしょう。元禄14年(1701)、おそらく怨みに駆られて時も場所もわきまえず、浅野内匠頭が襲ってきた時、義央公は刀を抜きませんでした。天皇の勅使を迎えての儀式直前の乱行に将軍・徳川綱吉は怒り、浅野内匠頭は即日切腹、赤穂浅野家は取り潰しとなりました。赤穂浪士の無念さはよく分かりますが、吉良義央公に仇討ちするというのは、どうも筋が違うように思われてなりません。しかし、幕府に対して仇討ちなどできるはずもなく、義央公は鬱憤を晴らすのに格好の標的であったのかもしれません。「忠臣蔵」の偏った見方は、ミャンマーのロヒンギャ問題や、韓国の少女像などにも通じるものがあると思います。
 夜の車道を西へ歩いてゆき、高河原の白山神社と向かいの薬師堂に参拝。


自他も苦楽も善悪も超えた白山妙理権現、即ち中道実相の妙理のお導きに感謝し、西尾駅まで歩いて帰路につきました。
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松樸裏

Author:松樸裏
自由と孤独を愛するアウトサイダーと、万物の母たる大自然との一対一の対話
2006~奥美濃の藪山を登り始める
2009~白山三禅定道を毎年登拝
2016~19白山美濃馬場の古の山伏の行場「白山鳩居峯」のうち五宿を毎月巡拝、以後随時巡拝