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知多・豪潮律師順礼2

 12月7日の午後は、三河の深溝から西尾まで歩いたのでしたが、午前中は知多の常滑から半田へ放浪していました。また、12月12日には、常滑から武豊へと放浪。今年(2017年)8月、乙川(半田)から南知多へ、知多半島を縦断して豪潮律師ゆかりのお寺を順礼しましたが、今回は知多半島を横断しての順礼です。
 7日朝、常滑の天沢院に参拝。


文明5年(1473)開創の禅寺です。墓地に宝篋印塔があり、塔前にて宝篋印陀羅尼を誦して礼拝。


高さ二mくらいの小塔で、年代が分からず豪潮律師が起てたものかは分かりませんが、豪潮式の宝塔です。他に大きな宝篋印塔が見当たらなかったので(実はあったのですが)、天沢院から東に下って白山町へ。丘に登ると御嶽社があり、傍らには覚明行者の像。展望台から西にセントレア、南に知多半島を望みました。


白山町から、竹藪の丘陵地帯に続く小道を東へ。やがて車道に下り、県道をてくてくと東へ。半田市の白山町に入り、御嶽社から二時間で半田の白山神社に到着。


7月にお参りした時は気づきませんでしたが、境内には摂社がいくつもあります。聳え立つ「三鈷の松」に、白山三所権現を拝みました。


赤レンガ建物の前を通り、乙川へ。海蔵寺(曹洞宗)に参拝し、豪潮律師の壮麗な宝篋印塔を見上げて宝篋印陀羅尼をお唱えしました。


この宝塔は、碑文によれば文政3年(1820)に豪潮律師が勧発し、文政11年(1828)に落成しています。勧発から完成まで八年がかりで起てられたことになります。美濃・郡上の白山中宮長瀧寺の豪潮律師宝篋印塔も、長瀧寺竹本坊による建立願が郡上藩に出されたのが文政13年(1830)、完成したのは天保4年(1833)(「白鳥町史」)。三年かかっています。豪潮律師が九州や東海各地に起てた「八卍四千塔」の一つ一つは、豪潮律師が独りで起てたものではなく、律師の行願に結縁した多くの人々と共に起てた宝塔なのでした。
 12月12日朝、再び常滑の天沢院へ。7日にお参りした墓地よりも下に、巨大な宝篋印塔が聳え立っていました。


まぎれもなく、豪潮律師の八萬四千塔です。塔の前は草ボウボウでしたが、宝塔を拝めるうれしさに、ズボンをひっつき虫だらけにして参拝。文政12年(1829)建立の塔です。宝篋印陀羅尼を誦して世界の平和と人々の現当二世安楽を祈り、投地礼しました。天台僧である豪潮律師の宝篋印塔は、天台宗の寺院に起てられていることが多いのですが、尾張では曹洞宗の寺院にも多く起てられているのは、律師と同じ肥後出身の法友・珍牛禅師とのご縁によるものでしょう。瑞岡珍牛禅師は文化14年(1817)、尾張藩主・徳川斉朝に招かれて名古屋の萬松寺(開基は織田信長の父・信秀)に入り、斉朝に勧めて、斉朝の病の加持を肥後の豪潮律師にさせたのでした。斉朝は豪潮律師も尾張に招き、律師は萬松寺に掛錫しています(「豪潮律師畧伝」)。(「瑞岡珍牛禅師小伝」には、逆に、斉朝に豪潮律師が、珍牛禅師を萬松寺住持として勧めた、と書かれています。)
 中国の呉越国王・銭弘俶は、宝篋印塔八万四千造塔を発願し、顕徳2年(955)より、銅製や鉄製の小塔(金塗塔)を鋳造して中に摺本の宝篋印陀羅尼経を納めました。銭弘俶の宝篋印塔は日本にもいくつか伝来しています。「寶篋印経記」によれば、銭弘俶の宝篋印塔八万四千造塔は、戦争で多くの人々を殺してきた罪悪感から精神的に重い病となり、ある僧侶に、塔を造り宝篋印経を書写して中に安んじ、香花を供養することを発願しなさい、と勧められて病が癒え、インドの阿育王(アショーカ王)が同様の苦しみから、高僧・耶舎の助けを借りて八万四千の舎利塔を起てたことを思い、始められたのでした。

「若し有情有りて 能く此の塔に於て 一香一華もて 礼拝供養せば 八十億劫の 生死重罪 一時に消滅し 生には災殃を免れ 死しては仏家に生まれん。 若し此の塔に於て 或いは一たび礼拝し 或いは一たび右遶せば 地獄の門は塞がれ 菩提の路は開かれん。」(「宝篋印陀羅尼経」)

豪潮律師の宝篋印塔八万四千造立の行願は、アショーカ王や銭弘俶に倣ったものというより、アショーカ王の造塔を助けた耶舎や、銭弘俶に造塔を勧めた僧に倣ったものでありましょう。
 天沢院から御嶽社を経て、車道を東へと行道。背後から冷たい風、正面にはやわらかな日差し。池の向こうに本宮山。


本宮神社に参拝し、西にセントレアや、歩いてきた道を一望。


藪をかき分け本宮山頂に登り、陽光に掌を合わせました。


本宮山から南へと歩を進め、桧原公園の展望台から本宮山を振り返りました。


10時、桧原の白山社に参拝。


境内には、昭和3年(1928)建立の戦役記念碑。


日清・日露戦争出征者、西比利亜(シベリア)出征者、山東出征者の名が記されてあります。宝篋印陀羅尼を誦し、戦争にまき込まれたすべての人々に、菩提の道が開かれんことを祈りました。
 県道に出、東へゆるやかに登ってゆくと池があり、池から先は下りとなって武豊町に入りました。


上ゲ駅の踏み切りを渡って大日寺に参拝。境内に徳本行者の名号碑があり、念仏をお称えしました。


文政12年(1829)、即ち、天沢院の豪潮律師宝篋印塔と同年の建立。紀伊・日高出身の念仏行者・徳本上人は、豪潮律師と同時代の方ですが、文政元年(1818)に亡くなっており、大日寺の名号碑は上人の没後に建てられたもののようです。大日寺から蓮花院を経て武雄神社に参拝。


境内には白山社も合祀されていました。
 武豊駅の南へと足を進め、徳正寺(曹洞宗)へ。境内に宝篋印塔があり、元治元年(1864)、法華経一石一字塔として建てられたもののようです。


塔身には宝篋印陀羅尼の「シッチリヤ」の梵字があり、形は豪潮律師の宝篋印塔に倣ったものでしょう。徳正寺のご本尊は、法華経の過去仏である大通智勝仏。宝篋印陀羅尼(一切如来心秘密全身舎利宝篋印陀羅尼)の中には、過去諸仏の全身舎利(ご遺骨)、現在・未来の諸仏の分身のお姿、三世のすべてのみ仏の法身・報身・応身、全部があります。宝篋印陀羅尼を誦して十方三世の一切諸仏を拝み、武豊駅へと向かいました。
 お昼からは、大高まで電車に乗り、大高城から有松まで歩くつもりでおりましたが、東海道線が車両故障の為、不通。これもみ仏の思し召し、と、武豊線終点の大府で降り、桶狭間経由で有松まで歩くことにしました。大府も桶狭間も有松も大高も、かつての知多郡です。電車は三十分遅れて13時すぎに大府着。駅から北へ車道を一時間ほど歩き、桶狭間に入って慈雲寺(西山浄土宗)に寄ってみると、門前に見事な宝篋印塔。


明治24年(1891)造立の宝塔です。尾張知多郡には、豪潮律師の行願が宗派を超えて受け継がれているのを感じます。宝篋印陀羅尼を誦しました。
 さらに北上して、桶狭間古戦場へ。長福寺は、永禄3年(1560)の桶狭間の合戦後、今川義元に仕えていた林阿弥が織田方に捕らえられ、今川方の武将の首検証をさせられた処だそうです。


宝篋印陀羅尼と念仏をお唱えし、今川義元、および双方の戦死者の菩提を弔いました。今川義元というと、ドラマなどでは白塗りの顔にお歯黒をし、「オホホホホ」などとお公家さんじみたイメージがありますが、今川家は足利家の一族・三河の吉良家の分家で、れっきとした武家です。五男に生まれた義元は幼少時から仏門に入り、京の建仁寺や妙心寺でも修行したようです。天文5年(1536)18歳の時に兄が相次いで亡くなり、還俗して内乱に勝利し当主となりました。駿河・遠江を領する義元は、天文18年(1549)には三河の松平氏の所領を領有、今川の本家にあたる吉良氏も配下としています。天文22年(1553)には足利幕府との関係を断ち、翌年、甲斐の武田晴信(信玄)・相模の北条氏康と三国同盟を締結。海道一の弓取りと呼ばれ、おそらく当時、天下取りの最前列にいたであろう今川義元は、永禄3年(1560)、大軍を率い、満を持して尾張へと侵攻したのでありました。
 桶狭間には、合戦の伝承地がいくつかあります。桶狭間古戦場公園にある、今川義元公の墓。


義元の本隊が休息したという「おけはざま山」(現在は住宅地)を越えて北東に下った処にも、桶狭間古戦場伝説地。こちらにも義元公の墓があります。伝説地の向かいの高台にある高徳院には、今川義元本陣跡。いずれにしても、今川義元はこの辺り一帯で休息中に信長に急襲され、討ち取られたのでした。義元は、松平元康(後の徳川家康)に命じてすでに大高城に兵糧を入れさせており、桶狭間で止まらずに大高城に入っていれば、このような最期を遂げずに済んだかもしれません。しかし、私が今日、大高に行こうとして行けずに桶狭間に来たように、義元公にも何らかの事情があったのでしょう。桶狭間古戦場伝説地と高徳院に間に、徳本行者の名号碑があります。念仏をお称えし、双方の戦没者の菩提を弔いました。


 桶狭間古戦場伝説地から旧東海道を歩き、有松宿へ。


祇園寺(曹洞宗)に参拝するつもりでおりましたが、出入口が閉まっていました。此処は観光寺ではなく、境内は幼稚園でもあります。お願いして中に入れていただき、お寺の方にお尋ねして参拝したのは、仏足跡と、豪潮律師が書かれた仏足跡歌碑。


奈良・薬師寺の仏足跡を模刻し、薬師寺の仏足跡歌二十一首の第一首を豪潮律師が書かれたもので、文政11年(1828)の建立。乙川・海蔵寺、岡崎・西居院の宝篋印塔と、同じ年です。

みあとつくる いしのひびきは あめにいたり つちさえゆすれ ちちははがために もろひとのために

父母が為に、諸人の為に・・・。この歌の心は、仏足跡のみならず、宝篋印塔造立にも通じるものでありましょう。仏足跡も宝篋印塔も、特定の神仏・尊体に執着することなく、時間も空間も超越したものを礼拝供養できるという点で、これからの時代に相応しく感じられるのです。
 み仏のおみ足に投地礼をし、過去・現在・未来に渡る行願に、感謝しました。
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松樸裏

Author:松樸裏
自由と孤独を愛するアウトサイダーと、万物の母たる大自然との一対一の対話
2006~奥美濃の藪山を登り始める
2009~白山三禅定道を毎年登拝
2016~19白山美濃馬場の古の山伏の行場「白山鳩居峯」のうち五宿を毎月巡拝、以後随時巡拝