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鎌倉~白山道~金沢文庫順礼

 12月27日夜明け前、鎌倉五山の一つ・寿福寺に参拝。


正治2年(1200)、北条政子が栄西禅師を開山として建てた禅寺です。仏殿の裏山に穿たれた「やぐら」には北条政子や鎌倉三代将軍・源実朝の墓塔があり、念仏をお称えしました。


 肥前・平戸の白山信仰の山・安満岳(やすまんだけ)に伝わる「安満嶽縁起」によれば、千光院葉上僧正(栄西禅師)が二度目の入宋をして日本に初めて禅の教えを伝えた際、香合の中に白山妙理大菩薩(権現)を勧請して常に首に懸けていたそうです。建久2年(1191)平戸を経て帰国後、建久6年(1195)に源頼朝から博多に寺地を与えられて聖福寺を開山。そして正治2年(1200)鎌倉に寿福寺開山、建仁2年(1202)には二代将軍・源頼家の寄進により京都東山に建仁寺を開山しています。「安満岳嶽縁起」には、栄西禅師がこの三ヶ寺に白山権現を勧請し、聖福寺では毎月初八日に白山諷経が勤行され、寿福寺と建仁寺では白山権現が「良久大明神」(楽大明神)として祀られたことが記されています。
 実際、聖福寺には今も白山権現が祀られています。


(2017年7月参拝時)
また、聖福寺に残る「安山規」によれば、毎月五日には楽神廟回向が行われていたそうです(宮脇隆平「栄西」)。栄西禅師が第二次入宋前に活動拠点としていた筑前・今津の誓願寺にも、白山権現堂があります。京都・建仁寺には、開山堂(栄西禅師御廟所)の近くに楽神廟が現存しています。


(建仁寺開山堂楼門、2016年10月参拝時)
楽大明神とは、栄西禅師の母が子を授かるようにと祈った神で、本地は虚空蔵菩薩。備中の吉備津神社の末社であったようです。鎌倉の寿福寺に白山権現や楽大明神が祀られているのかは確認できませんでしたが、おそらく祀られていたのでしょう。いずれにしても、楽大明神と白山権現は栄西禅師とご縁浅からぬ神仏のようです。
 寿福寺から線路を渡って扇川沿いに歩を進め、7時前に相馬師常の墓に参拝。やぐらの中には宝篋印塔。


相馬師常は、源頼朝から「師父」と呼ばれた千葉常胤の、次男。奥州相馬氏の祖です。父の死後、出家して法然上人の弟子となりました。千葉常胤の六男・東胤頼(美濃・郡上の東氏の祖)も、元久元年(1204)に法然上人の弟子となっています。宝篋印陀羅尼と念仏をお唱えし、千葉氏一族の菩提を弔いました。
 鶴岡八幡宮に参拝して東へ。


杉本寺はまだ本堂が開いていませんでしたが、十一面観音さまに般若心経読誦。境内の白山権現・熊野権現社に掌を合わせ、西に富士山を遥拝しながら念仏をお称えしました。


さらに歩を進めて光触寺・十二所神社と順拝、朝夷奈切通の古道を登ってゆきました。


鎌倉と六浦津を結ぶ古道です。峠には磨崖仏。


薬師如来のようです。峠を下り、熊野神社に登拝してから切通を下って車道にでました。


 9時、「鼻欠地蔵」に参拝。


相模国鎌倉郡と武蔵国久良岐(くらき)郡の国境であるこの崖に、高さ四mほどの磨崖仏が彫られていたそうです。今は風化して、お姿はよく分かりません。崖下で合掌して地蔵菩薩ご真言をお唱えしていたら、近くでバスを待っていた年配の方が、三十年ほど前まではお姿がうっすら残っていたことを教えてくださいました。私は武蔵・下総境の下総国葛飾郡育ちですが、生まれてから幼年時代をすごしたのは、相模・武蔵境の武蔵国久良岐郡。私の幼年時代には、まだこのお地蔵さまのお姿は残っていたことになります。崖から尾根上に続く道を登ってゆき、南東に房総の山並を遠望しました。


 白山道奥公園からは、鎌倉と六浦を結ぶ古道の一つ「白山道(はくさんどう)」が残っており、急斜面を降下。


下った処にも磨崖仏があり、お姿はよく分かりませんでしたが掌を合わせました。さらに歩を進めて9時半、高台のやぐらに鎮座する白山妙理大権現に参拝。


般若心経と白山三所権現ご真言・ご宝号をお唱えし、投地礼しました。この白山堂は、南北朝~室町時代には称名寺の末寺であったそうです。
 白山道を歩いて白山東光禅寺に参拝、さらに金沢の称名寺を目指して車道を一心に歩いてゆきました。この日はお昼から大切な用事があり、時間も押してきたので、釜利谷市民菜園バス停でちょうど来たバスに乗り、金沢文庫駅へ。駅から称名寺へと一心に行道。称名寺境内の金沢文庫に入り、資料を閲覧しました。拝読させていただいたのは、金沢文庫本「泰澄和尚伝記」。正中2年(1325)に称名寺第二世・劒阿上人が書写した、現存最古の「泰澄和尚伝記」写本です。
 「泰澄和尚伝記」には、泰澄和尚が大師号を授けられたとか、和銅5年(712)に越知山から、弟子の小沙弥(臥行者)が出羽の船頭(浄定行者)の運ぶ官米を神通力で奪ったとか(出羽国の成立は和銅5年9月、奈良時代の官米(庸米)は運脚が陸路で運ばされていた)、浄蔵貴所が語った内容を門人の神興らが記したとされていながら、浄蔵法師が白山夏安居の際に故老から聞いた白山開山伝承(「大法師浄蔵伝」)とは全く違う等、歴史的事実とは見なし難い記述が多々あります。しかしながら、「泰澄和尚伝記」金沢文庫本の奥書の最後に、劒阿上人はこう記しています。
「今方(まさ)に知りぬ、泰澄和尚は、妙理権現本地十一面観音の普門示現の声聞形なるのみと。」
泰澄和尚は、単に歴史的次元の存在であったのではなく、白山本地・十一面観音さまが僧形で現われたお姿なのであり、時空を超越した信仰的次元の存在なのです。これは「安満嶽縁起」についても同様で、同書には
「泰澄は阿弥陀の応化、行基は文殊の化身、忝(かたじけな)くも白山妙理大菩薩は十一面観自在の垂迹也。」とあります。泰澄和尚を単なる歴史的人物と見なすのではなく、泰澄和尚を通して仏さまとその教えに帰依することこそ、泰澄大師伝承の眼目といえましょう。
 金沢文庫を出、称名寺に参拝。釈迦堂の前に大きめの宝篋印塔が起っており、宝篋印陀羅尼を誦しました。


豪潮律師の宝篋印塔に似ていますが、笠の形や塔身の「シッチリヤ」の梵字の書体は、一見して異なります。基礎に「石橋氏」と書かれてあり、この塔の側にある鐘楼を寛政11年(1799)に再建した江戸の米問屋・石橋弥兵衛が起てたもののようです。豪潮律師が「八万四千塔」として最初に起てたのは、享和2年(1802)肥前小松の大興善寺の宝篋印塔。発願・着工はそれ以前であったはずなので、ほぼ同時期ということになりましょう。思いがけず出会った宝塔に十方三世の諸仏を拝み、この一年のお導きを感謝したのでした。
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松樸裏

Author:松樸裏
自由と孤独を愛するアウトサイダーと、万物の母たる大自然との一対一の対話
2006~奥美濃の藪山を登り始める
2009~白山三禅定道を毎年登拝
2016~19白山美濃馬場の古の山伏の行場「白山鳩居峯」のうち五宿を毎月巡拝、以後随時巡拝