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総持寺・宝篋印塔礼拝

 12月28日夕方、横浜市鶴見の総持寺に参拝。越前の永平寺と並ぶ、曹洞宗の大本山です。昔、総持寺の参禅会で准胝観音さまがおられる坐禅堂に正身端坐していたことがありますが、当時は総持寺に起っている宝篋印塔(ほうきょういんとう)については何も知りませんでした。
 大祖堂にて高祖承陽大師(道元禅師)と太祖常済大師(瑩山禅師)にお参りし、大雄宝殿に参拝。総持寺は元亨元年(1321)、能登に瑩山(けいざん)禅師が開山。瑩山禅師は自らを「白山之氏子」と呼んでおり、白山を深く信仰しておられたようです。明治31年(1898)の大火で能登・総持寺の伽藍は大部分が焼失してしまい、明治44年(1911)、総持寺は鶴見に移転したのでした。
 放光堂の手前に起つ、巨大な宝篋印塔。


総持寺の移転に合わせ、放光堂は出羽・鶴岡の総穏寺から、宝篋印塔は名古屋の萬松寺から献納されました。壮麗な宝塔の塔身には、金剛界曼荼羅の四智如来(阿シュク・宝生・阿弥陀・不空成就)の種字と、「宝篋印陀羅尼」の「シッチリヤ」の梵字。「シッチリヤ」とは、漢訳すれば「南無三世一切如来」となる呪文(サンスクリット語)の「三」に、前後の音がくっついたものです。そして、基礎には「八卍四千之中」の文字。


まぎれもなく、豪潮律師の八万四千塔です。ご宝前で宝篋印陀羅尼を誦して十方三世の一切諸仏を供養し、豪潮律師と法友・珍牛禅師の行持に思いを馳せました。
 名古屋大須の萬松寺は、天文9年(1540)に織田信秀(信長の父)が建てた寺院で、信秀の葬儀にうつけ姿で現われた信長が、位牌に抹香を投げつけた処です。


(2017年6月参拝時)
総持寺が能登から鶴見に移った翌大正元年(1912)、萬松寺三十七世・大円覚典和尚は寺域の大部分を開放し、大須商店街がつくられたのでした。宝篋印塔の寄贈もこの頃のことでありましょう。
 肥後・玉名郡出身の天台僧・豪潮律師は、宝篋印塔八万四千造立の大願を発し、享和2年(1802)の肥前小松・大興善寺の塔を皮切りに、九州各地に宝篋印塔を建立してゆきました。


(筑前芦屋・海雲寺、2017年9月参拝時)


(阿蘇・西巌殿寺、2016年10月参拝時)


(長崎・本河内、2017年5月参拝時)
文化14年(1817)、尾張藩主・徳川斉朝は萬松寺・珍牛禅師の勧めで病の加持の為に豪潮律師を招き、豪潮律師は萬松寺に掛錫しています(「豪潮律師畧伝」)。翌文政元年(1818)に萬松寺に起てられた宝篋印塔が、現在総持寺に起っているこの宝塔なのです。
 瑞岡珍牛禅師は肥後国天草郡の出身、8歳の時に天草の東向寺(曹洞宗)で得度、14歳の頃から諸国に遊方し、太宰府の観世音寺に遊学中に豪潮律師と法友になったそうです(「瑞岡珍牛禅師小傳」)。珍牛禅師は後に天草・東向寺、信州松本・全久院、美濃・龍泰寺、大阪・法華寺に住持され、江戸優遊の後、文化14年(1817)に萬松寺に住山されています。


(龍泰寺、2017年7月参拝時)
「瑞岡珍牛禅師小傳」によれば、徳川斉朝に萬松寺住持として珍牛禅師を勧めたのは、豪潮律師であった、とも伝わるそうです。当時、豪潮律師69歳、珍牛禅師75歳。
「これより同道唱和して、大に仏法を挙揚せられ、二師の名、今猶ほ尾濃の地に信敬せらる。」(「瑞岡珍牛禅師小傳」)
 豪潮律師はその後、知多の岩窟寺(岩屋寺)を中興、名古屋・柳原に泰澄大師開山の長栄寺を再興し、知多郡を中心に東海各地にも宝篋印塔を造立してゆきました。


(常滑・天沢院、2017年12月参拝時)


(岡崎・真福寺、2017年11月参拝時)


(郡上・白山中宮長瀧寺、2017年12月参拝時)
私は、白山に美濃側から登拝する際は必ず長瀧寺に参拝していますが、豪潮律師の宝篋印塔の尊さに気づかされたのは、熊本地震の半年後(2016年10月)に阿蘇の西巌殿寺に参拝した時でした。地震で塔身がずれ、相輪が崩れていたものの、長瀧寺にあるのとそっくりな宝塔を拝み、豪潮律師がこのような壮麗な宝塔を八万四千も造立しようとされたことを知って、律師の行願の尊さに気づかされたのでした。
 豪潮律師の宝篋印塔の中には、律師が書写された「一切如来心秘密全身舎利宝篋印陀羅尼」が納められています。天台宗では「三陀羅尼」の一つとして誦されているこの陀羅尼の中には、「宝篋印陀羅尼経」によれば、現在・未来の一切如来の分身のお姿、過去諸仏の全身舎利(ご遺骨)、過去・現在・未来の三世の諸仏の法身・報身・応身すべてがある、と説かれています。つまり、「宝篋印陀羅尼」を納めた宝篋印塔を礼拝供養することは、お釈迦さまも大日如来も、薬師如来も阿弥陀さまも、過去七仏も未来の弥勒仏も含め、十方三世のすべての仏さまとその教えを礼拝供養することなのです。「宝篋印陀羅尼経」はお釈迦さまがマガダ国で、あるバラモンの供養を受けに行く道中、「豊財園」の中にあった古朽した宝塔を礼拝右遶して説かれたお経です。この「宝篋印陀羅尼経」を漢訳したのは、唐の都・長安の大興善寺にいたインド僧、不空三蔵でした。豪潮律師が「八万四千塔」の最初の塔を肥前の大興善寺に起てたのも、不空三蔵を敬ってのことでありましょう。
 紀元前三世紀のインド・マウリヤ朝の王、アショーカ王(阿育王)は、八ヶ所の舎利塔に分骨されていたお釈迦さまの舎利(ご遺骨)をさらに細分し、八万四千の舎利塔を起てた、と伝えられています。アショーカ王が広大な領土内に起てた法勅には、王がインド中東部・カリンガを征服した際に大量の人々の命を奪ったことが記されており、八万四千の舎利塔造立は、悲惨な戦争への反省から発願された事業であったようです。
 アショーカ王の八万四千舎利塔は、王の舎利塔造立を助けた鶏園寺の上座・耶舎によってインド各地だけでなく中国にも贈られた、と伝えられ、その一つが寧波・阿育王寺の舎利塔です。十世紀、杭州を中心とする呉越国の王・銭弘俶は、阿育王に倣って八万四千の宝篋印塔を造立し、いくつかは日本にも贈られています。その銅製や鉄製の小塔の形(四角い塔身、隅飾突起のある笠、高い相輪)は、阿育王寺の舎利塔に倣ったものでしょう。


(筑前今津・誓願寺、2017年9月参拝時)
阿育王寺の舎利塔は、銭弘俶の祖父・銭鏐(せんりゅう、呉越国初代国王)よって阿育王寺から杭州の南塔寺に移されていたそうで(吉河功「石造宝篋印塔の成立」)、銭弘俶の八万四千塔造塔に大きな影響を与えていたはずです。
 「寶篋印経記」によれば、銭弘俶が八万四千の宝篋印塔造塔を発願したのは、顕徳元年(954)、戦争で大量の人々の命を奪ったことから精神的に重い病となり、ある僧から「塔を造り、宝篋印経を書写してその中に安置し、香花を供養することを発願しなさい。」と勧められ、発願すると病が癒えたことから始められたのでした。銭弘俶は釈尊の舎利の代わりに、一切の仏さまの全身舎利とされる「宝篋印陀羅尼」とその功徳が説かれた「宝篋印陀羅尼経」を、印刷して納めたのです。
 アショーカ王も銭弘俶も、悲惨な戦争を繰り返してはならない、という強い思いから八万四千塔を造塔しています。「宝篋印陀羅尼経」には、官位栄耀、寿命富饒、怨家盗賊退散等の現世利益だけでなく、

「若し有情有りて 能く此の塔に於いて 一香一華もて 礼拝供養せば 八十億劫の 生死重罪 一時に消滅し 生には災殃を免れ 死しては仏の家に生まれん。 若し応に阿鼻地獄に堕すべきこと有らんに 若し此の塔に於いて 或いは一たび礼拝し 或いは一たび右遶せば 地獄の門は塞がれ 菩提の路は開かれん。」

等、自分や他人が為してきた悪業の懺悔滅罪の、過去・現在・未来三世にわたる功徳も説かれています。宝篋印塔を礼拝供養すること、それは、二十一世紀のわれわれ日本人にとっても、またすべての人類にとっても、かつての悲惨な戦争を繰り返してはならない、という意味を持つはずです。
 昭和20年(1945)3月12日の名古屋大空襲で、萬松寺も焼失してしまいました。幸い、明治末・大正初にすでに宝篋印塔は鶴見の総持寺に移されていた為、今もこの宝塔を礼拝供養できることの有難さ。中国天台宗の祖・天台智者大師の「摩訶止観」に、

「一一の塵労門を翻ずれば即ちこれ八万四千の諸の三昧門なり、またこれ八万四千の陀羅尼門なり、またこれ八万四千の諸の対治門なり、また八万四千の波羅蜜を成ず。無明は転ずればすなわち変じて明となる、氷を融かして水となすがごとし。さらに遠きものにあらず、余処より来たらず、ただ一念の心に普ねくみな具足せり。」

とあります。私たちの苦しみの元である、八万四千あるともいわれる無尽の煩悩。貪り、怒り、恨み、妬み、愚痴、慢心、猜疑心、狂信、虚無感・・・それらをもし転じることができるなら、八万四千の無量の法門、救いの道への門となる、と説かれています。氷を融かせば水となるように、車のフロントガラスの厚い霜に日が当たれば、たちまち融けて水となるように。苦しみも悲しみも、すべては「仏法にあらざることなし(「摩訶止観」)」です。
 自ら「八万四千煩悩主人」と称した豪潮律師の八万四千塔には、煩悩を菩提に、業障を解脱に、生死の苦しみを涅槃の楽に転じる功力がある、と私は信じます。たとえ、今すぐには結果が出ないとしても。それは、過去・現在・未来の三世にわたる全宇宙の仏さまと、その教えの功力です。

「若し我れ滅後の 四部の弟子 是の塔の前に於いて 苦界を済わんが故に 香華を供養し 至心に発願して 神呪を誦念せば 文文句句に 大光明を放ちて 三塗を照觸し 苦具皆碎けて 衆生の苦を脱し 仏種の牙萌え 随意に十方の浄土に往生せん。」
(「宝篋印陀羅尼経」)
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松樸裏

Author:松樸裏
自由と孤独を愛するアウトサイダーと、万物の母たる大自然との一対一の対話
2006~奥美濃の藪山を登り始める
2009~白山三禅定道を毎年登拝
2016~19白山美濃馬場の古の山伏の行場「白山鳩居峯」のうち五宿を毎月巡拝、以後随時巡拝