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初詣

 正月2日早朝、郡上白鳥の正法寺で参禅。西澤英達管主は、今年は明治維新から百五十年、明治から昭和20年の終戦までに、日清・日露・日中・太平洋と大きな戦争が四回もあり、その反省に立って、その後今のところ日本は戦争をしていないが、これからの時代を担っていく若者たちに対して、我々には大きな責任がある、と説いておられました。思うに、あと五十年もすれば、先の大戦を経験した人は世の中に一人もいなくなってしまいます。今、生きている私たちがしなければならないことは、過去を切り捨てることではなく、過去と未来をつなぐことではないでしょうか。正法寺管主のテレホン法話 0575-82-4321 お聞きください。
 坐禅会後、白山美濃馬場・中宮長瀧寺に初詣。雪は半月前より少ないです。白山神社拝殿にお参りし、大講堂へ向かうと、豪潮律師の宝篋印塔(八卍四千塔)の背後から朝日が照らしていました。


塔の下で宝篋印陀羅尼を誦し、大講堂にて般若心経読誦。長瀧寺の宝篋印塔は天保4年(1833)建立。豪潮律師は天保6年(1835)に名古屋で遷化されており、律師の生前に起てられた大塔としては、最後のものでしょう。肥後出身の豪潮律師は、宝篋印塔八万四千造立を発願され、九州や東海の各地に壮麗な宝篋印塔を造塔されました。「八万四千塔」を起てた先人には、インドのアショーカ王(阿育王)と、中国の呉越国王・銭弘俶がいます。
 紀元前三世紀、インド・マウリヤ朝のアショーカ王は、インド南東部のカリンガ征服の際、「十五万人移送し、十万人を殺害し、何倍かの人を死なしめた」(定方晟「アショーカ王伝」解説)と磨崖の十四章法勅に記しており、悲惨な戦争を反省して起てたのが八万四千の舎利塔でした。それまで八ヶ所の塔に分骨されていたお釈迦さまの舎利(ご遺骨)を細分し、八万四千の容器に納めて八万四千の舎利塔を各地に起てたのです。
 十世紀、杭州を中心とする呉越国の王・銭弘俶は、顕徳元年(954)、戦争で敵を川に追いつめ、「追って溺るるを捕らえ殺すこと、其の数、幾億万なるかを知らず。」と「寶篋印経記」にあります。銭弘俶はその後、大勢の人を殺した罪悪感に苦しみ、「刀釼胸を刺し、猛火、身に纏われり、展転反側して手を挙げて罪を謝す」と狂語するほどでした。ある僧から、塔を造り宝篋印経(「宝篋印陀羅尼経」)を書写して其の中に納め、香花を供養することを発願するよう勧められ、発願すると病苦が癒え、アショーカ王の行願を思い、八万四千の宝篋印塔造塔を始めたのでした。
 「宝篋印陀羅尼経」には、

もし有情(衆生)あって
よくこの塔において
一香・一華をたむけて
礼拝し供養すれば
八十億劫にわたる
生死の重罪は
一時に消滅し
生あるうちは災殃を免れ
死ののちは仏の家に生まれるであろう。
もし阿鼻地獄に
堕ちるようなことがあっても
もしこの塔において
あるいは一たび礼拝し
あるいは一たび右遶すれば
地獄の門は塞がれて
菩提への路が開かれるであろう。

とあります。
 江戸時代後期、十九世紀初頭に始められた豪潮律師の「八卍四千」宝篋印塔造塔の頃、日本に大きな戦争はありませんでした。しかし、アショーカ王・銭弘俶の先例からすれば、豪潮律師にも戦争の苦しみへの思いはあったことでしょう。律師の巨大で壮麗な宝篋印塔は、当時の人たちの為だけに起てられたものではなく、過去から未来まで、私たちを含め、すべての生きとし生けるものの為に起てられた宝塔でありましょう。今も各地に残る豪潮律師の宝篋印塔は、後世の私たちへの置土産ともいえます。
 宝篋印塔に納められている「宝篋印陀羅尼」とは、現在・未来のすべての仏さまの分身であり、過去のすべての仏さまの全身舎利(ご遺骨)であり、過去・現在・未来の三世の諸仏の法身・報身・応身、即ち、過去から未来までの全宇宙の仏さまに他なりません。宝篋印塔を礼拝供養することは、三世の全宇宙の仏さまを、一念に礼拝供養することなのです。
 豪潮律師に、ある時、頼山陽と浄土真宗の学僧・大含講師(雲華上人)が、孔子と釈尊が相撲して釈尊が土俵の外に投げ出されている絵を画き、賛を求めました。律師は、「孔子は一世を説き、釈迦は三世を説く、笑いて絶倒す」と書したそうです(「豪潮律師畧伝」)。仏教は、過去・現在・未来の三世にわたる教えです。豪潮律師の宝篋印塔の塔身に記されている「シッチリヤ」の梵字は、「宝篋印陀羅尼」(サンスクリット文)の冒頭、漢訳すれば「南無三世一切如来」の「三」にあたる語に、前後の音がくっついたものです。思うに、過去・未来と切り離された「今」はありませんし、過去・今と切り離された「未来」、今・未来と切り離された「過去」もありません。過去に学び未来へつないでいくことの大事が、この一字に込められているのを感じます。


 長瀧寺から長良川を渡り、御坊主ヶ洞へ。


かんじきなしで、長靴で登ってゆきました。処々、膝まで雪にはまります。急登して、長瀧寺の敬愚比丘が大永・享禄の頃(1521~31)に焼身供養を行じられた「見附ノ大岩」の下に至り、地元の方からお預りしたおもちをお供えして、法華経薬王菩薩本事品と念仏をお唱えしました。


さらに登って尾根に出ると、一足ごとに膝までの積雪。


粉雪の中、鉄塔から北に仏岩と真っ白な大日ヶ岳を拝みました。


来た道を戻り、右手に長瀧寺から二ノ宿・三ノ宿・西山・毘沙門岳と続く鳩居峯を遥拝。


毎月二回巡拝している、古の長瀧寺・鳩居行者の行場です。鳩居十宿と白山三所権現の本地仏ご真言をお唱えし、今年もご加護くださいますようお願いしました。この苦行も、自分だけの為ではなく、過去の行者と未来の行者をつなぐ為に、白山の諸仏諸尊の為に、行じてまいりたいものです。
 自分の足跡を辿って見附ノ大岩を下り、敬愚比丘に、今年も鳩居峯巡拝行を見守ってくださいますようお願いしました。
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松樸裏

Author:松樸裏
自由と孤独を愛するアウトサイダーと、万物の母たる大自然との一対一の対話
2006~奥美濃の藪山を登り始める
2009~白山三禅定道を毎年登拝
2016~19白山美濃馬場の古の山伏の行場「白山鳩居峯」のうち五宿を毎月巡拝、以後随時巡拝