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立山・白山の地獄

 江戸時代前期の禅僧・鈴木正三和尚の言行録「驢鞍橋」に、立山・白山の地獄についての会話があります。

「一日尾州の人来り語て曰、此比(このごろ)智多郡の者共、七八人越中の立山に参りけるに、去者(さるもの)我女房立山の地獄に走り込を見て驚き、走り懸り引留んとするに、不叶(かなわず)して女房終に落入けり。彼者(かのもの)不思議に乍思(おもいながら)家に帰るに、女房替る事なしと語る。師聞曰、さあるべし。古今ともに立山・白山にて地獄に落たると見られし人共、一月二月して死するも有、二年三年して死するも有、亦七八十迄活るもあり、乍活(いきながら)地獄に入たる者数を知ず・・・(中略)・・・誠に大病抔(など)受て、大寒大熱して前後も知ず、わ~わ~と叫ぶやうの苦患を受る抔は、乍生(いきながら)我性の地獄の業を感ずる時なるべし。さあればこそ、病人後世を願へば必ず無病に成也。」

尾張・知多郡の人たちが七、八人で越中の立山に登拝した際、その中の一人が、自分の女房が立山の地獄に走り込む姿を見て驚いたが、家に帰ると、女房は何ら変わることなく無事であった、と、尾張の人が語りました。それに対し正三和尚は、昔も今も、立山や白山で地獄に落ちたと見られた人が、数ヵ月後に亡くなることもあれば数年して亡くなることもあり、七十、八十まで生きることもある、生きながら地獄に落ちている者は数え切れないほどだ、と答えています。
 「驢鞍橋」は、鈴木正三和尚が三河の石平山恩真寺から慶安元年(1648)に江戸に出て以降、明暦元年(1655)に77歳で遷化されるまでの言行を、弟子の恵中和尚が集めたものです。当時、立山禅定や白山禅定道を遠方から登拝していた人々には、多かれ少なかれ、己れの煩悩や業障を懺悔滅罪し、現世安穏・後生極楽を願う心があったはずです。立山には立山地獄や立山浄土があり、立山和光大権現の本地は阿弥陀如来。立山地獄には、百姓地獄・鍛冶屋地獄・紺屋地獄など職業別の地獄や、女性が落ちるとされた血の池地獄などがあります。立山地獄(地獄谷)は、天保7年(1836)に噴火しました。


(立山(富士ノ折立、大汝山、雄山、浄土山)と地獄谷、2016年7月登拝時)
「本地」とは、日本に神々として示現(垂迹)された仏さまのことです。正三和尚の「念仏草紙」にも、

「わが朝に神とあらはれ給ふ事は、人のこころおろかにして菩提心もなき故に、まづ現在のりしゃう(利生)をほどこして人のこころをやはらげ、信心をおこさしめて、後ぼだいの道にいれ給はんための、御はうべん(方便)なり、神をさへしんじ奉らぬ、程の無道心の人ならんは、仏の道に入事、かなふべからず、去程に、神といひ、仏といふは、水と波との、かはりなり、本地一躰にて、おはします、まづ日本の御あるじ、天照太神を、はじめたてまつり、熊野の権現も、本地阿弥陀にておはします、・・・(中略)・・・弓矢神とあがめ申、八幡大菩薩も、本地は阿弥陀にてまします」

とあります。
 白山頂部にも、「血の池」「百姓池」「紺屋ヶ池」など、立山地獄と同様の名の火口池があり、石徹白に伝わる「白山絵図」には、剣ヶ峰の麓の池に「みどりの池 こうやぢごくとも云」と書かれてあります。白山最大の火口・翠ヶ池の南にある紺屋ヶ池は、万治2年(1659)に噴火しました。


(白山頂御前峰から望む紺屋ヶ池、剣ヶ峰、大汝峰。2017年11月登拝時)
また、翠ヶ池は天文23年(1554)に噴火し、火砕流が流下しました。


(大汝峰より望む翠ヶ池、剣ヶ峰、紺屋ヶ池、御前峰。2017年11月登拝時)
白山三所権現の本地仏は、御前峰(白山妙理大権現)が十一面観音菩薩、別山(別山大行事権現)が聖観音菩薩、大汝峰(大己貴権現)が阿弥陀如来。中世の人々は元より、江戸時代に立山や白山に登拝した人々も、噴煙を上げる火口に地獄の有り様を想像し、其処に誰かが落ちる幻影(夢)を見ることがあったのでしょう。
 このような幻影を、当時の立山岩峅寺や芦峅寺の衆徒、白山の平泉寺・白山寺・長瀧寺衆徒、石徹白の御師などがどう解釈していたのかは存じませんが、鈴木正三和尚の解釈は、実に振るっています。地獄に落ちた、と見られた人が平気で生きているのは、生きながら地獄に落ちているのだ、と言うのです。正三和尚は、地獄などの六道についてこう説いています。

「地獄えも天道えも、只今の念が引て往也。瞋恚は地獄、慾は餓鬼、愚癡は畜生、是を三悪道と云也。此の上に修羅人間天上の三善道を加へて、六道と云也。皆是一心の内に有六道也。此間を離れず、上に登り下にくだり、廻り休ざるを六道輪廻と云也。是は只今、其方の心の輪廻するを以て知べし。」(「驢鞍橋」)

地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上という六つの世界は、皆、この一心の内にある、と。怒り狂って生きながら地獄に落ち、惜しい欲しいと生きながら餓鬼になり、自讃毀他して生きながら畜生になる・・・まったく他人事ではありません。生きながら苦しみの世界をグルグルと廻っているのは、私に他なりません。そして、
「此念を離れて不生不滅なるを成仏と云也。」
その為には、

「強く眼を著(つけ)、南無阿彌陀仏南無阿彌陀仏と、命を限にひた責に責て、念根を切盡すべし。」
「萬事を放下して、南無阿彌陀仏南無阿彌陀仏と息を引切引切、常に死習ひて安楽に死する外なし。只強く念仏すべし。沈み念仏申すべからず。総じて強ひ機には、病が付ぬ物也。」(「驢鞍橋」)

勇猛の心で念仏すべし、と説いておられます。また、正三和尚の「念仏草紙」には、

「此世をすてて、後世をねがへと、をしへ給ふことは、このよをよくして、この世界を則浄土に、なし給はんためなり、けっく、このよをかんよう(肝要)と、する人こそ、此世をば、すつるなれ」

とあります。「厭離穢土 欣求浄土」です。
 正三和尚は、勇猛の機、「只ぬんとしたる機」を用いれば、禅の古則公案も真言陀羅尼も念仏も同じことだ、と説き、百姓には
「農業を以て業障を盡すべしと、大願力を起し、一鍬一鍬に南無阿彌陀仏南無阿彌陀仏と耕作せば、必ず仏果に至るべし」
と教え、武士には「果し眼坐禅(はたしまなこざぜん)」や「飛籠念仏(とびこみねんぶつ)」を勧め、観世某には
「只謡(うたい)を以て坐禅を仕習ひめされよ」
と説き、西国巡礼をする者には
「只念仏申て行脚すべし。亦は油断無、呪陀羅尼をくり、何千返何萬返と巡礼札に書付、處處に打巡て業障を盡すべし。」
と説いています。現代の私たちが立山禅定や白山禅定道を登拝巡礼する際にも応用実践できる、素晴らしい教えです。

 「菩提を求める有心は、有を離るる事有、本来空と心得居無心は、有を離るる事無。法然抔の念仏も有心也。然れども実有の浄土を造り立て、念仏する中に、無念の徳備る道理有。」(「驢鞍橋」)

始めから無念無心になろうとすれば虚無の見に落ち込むおそれがあり、一心に念仏してゆく中に、かえって無念無心の自在な徳が備わってゆく、と。念仏も禅も、一つです。万徳円満のお釈迦さまが説かれた八万四千の法門は、一つです。どの宗派にも属さなかった正三和尚は、仏教のそれぞれの教えの優劣ではなく、それらの教えの適切な用い方を万民に合わせて説かれたのでした。いかに優れた薬でも、用い方を誤れば毒となるものです。
 「驢鞍橋」の立山・白山の地獄の話に続けて、正三和尚はこう語っています。

「就中、今時出家衆は、乍生(いきながら)地獄に落べし。無道心にして信施をきられば、さなくとも死後あめうしにはならるべし。御坊主達大事也。」

道心なくして人々からお布施を受けるような御坊主は、生きながら地獄に落ちるか、死後に黄牛のような畜生になるはずだ、と。肝に銘ずべきお諭しです。
 平安時代後期・保安2年(1121)、白山加賀馬場・笥笠中宮(けがさちゅうぐう)の神宮寺に阿弥陀如来の像を祀り、昼夜不断の念仏三昧を行じられた西因上人の願文に、

「弥陀之白毫一タビ照サバ、煩悩之黒業悉ク除カレン。」(藤原敦光「白山上人縁記」、原漢文)

白山美濃馬場・長瀧寺から古の行場が残る鳩居峯に登ると、樹間に遥拝する白山のお姿は、別山(聖観音菩薩)と御前峰(十一面観音菩薩)の中央に大汝峰(阿弥陀如来)が頭を覗かせる、阿弥陀三尊。息と歩に合わせて一心に弥陀の名号を念じ、藪をかき分け雪を踏み、各宿(行場)で礼拝読経する中で、ふと白山のこのお姿を遥拝するとき、古の行者たちも、弥陀の白毫から差す光明を感じたはずです。


(西山から拝む白山、2010年4月登拝時)

「念仏を申し仏に成んと思ふは、輪廻の業也。実には、念仏を以て一切の煩悩を申し消を正理とす。其故は、総じて今仏に成物にあらず。煩悩をさえ申し消ば、本自ら仏也。」(「驢鞍橋」)

勇猛精進してまいります。
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松樸裏

Author:松樸裏
自由と孤独を愛するアウトサイダーと、万物の母たる大自然との一対一の対話
2006~奥美濃の藪山を登り始める
2009~白山三禅定道を毎年登拝
2016~19白山美濃馬場の古の山伏の行場「白山鳩居峯」のうち五宿を毎月巡拝、以後随時巡拝