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出雲巡礼/大社・上

 2月1日晨朝。みぞれ交じりの小雨の中、出雲大社に参拝。


大国主神(大己貴命)が、高天の原の天つ神たちに葦原の中つ国(日本)を譲る条件として造営させた、大社。

「この葦原中国は、命の随(まま)に既に獻(たてまつ)らむ。ただ僕(あ)が住所(すみか)をば、天つ神の御子の天津日継知らしめす、とだる天の御巣(みす)如(な)して、底つ石根(いはね)に宮柱ふとしり、高天の原に氷木(ひぎ)たかしりて治めたまはば、僕は百(もも)足らず八十クマ(土偏に冂に口)手(やそくまで)に隠りて侍(さもら)ひなむ。」(「古事記」)

四拍手して大国主神と王子眷属を拝み、すべての天神地祇の融和をお祈りしました。薄明の中、巨大な本殿を見上げつつ瑞垣の周りを行道。本殿の背後に鎮座する、素鵞社(そがのやしろ)。


大国主神の祖先であり、義父であり、師でもある須佐之男命(素戔嗚尊)が祀られています。大社の造営は、かつて大国主神が須佐之男命の娘・須勢理毘賣(スセリビメ)を連れて黄泉比良坂(よもつひらさか)から脱出した際、須佐之男命から託された課題でもありました。

「おれ大国主神となり、また宇都志国玉神となりて、その我が女(むすめ)須世理毘賣を嫡妻(むかひめ)として、宇迦の山の山本に、底つ石根に宮柱ふとしり、高天の原に氷椽(ひぎ)たかしりて居れ、この奴(やつこ)。」(「古事記」)

本殿の背後に須佐之男命を祀るのは、能登の氣多大社にも受け継がれています。元々、「大社(おほやしろ)」といえば出雲大社のことであったようで、「本朝諸社一覧」(貞享2年(1685))にも当社のみが「大社」と記されています。瑞垣の中の、大きな神殿。


大国主神を祀る本殿の隣には、正妻で須佐之男命の娘・須勢理毘賣命や、妻で阿遅志貴高日子根神(アヂシキタカヒコネノカミ)や下照比賣命(シタテルヒメノミコト)の母である多紀理毘賣命(タキリビメノミコト、宗像・沖津宮の祭神)が祀られています。蚶貝比賣命(キサガヒヒメノミコト)と蛤貝比賣命(ウムガヒヒメノミコト)は、かつて大己貴命(大国主神)が兄弟神たちの荷物を持たされて因幡の国へ行き、氣多の前(けたのさき)で素兎(しろうさぎ)を助けて八上比賣から夫に選ばれたため、兄弟神たちの嫉妬を受けて伯耆の国で殺されてしまった際、高天の原の神産巣日神(カミムスヒノカミ)から遣わされ大己貴命をよみがえらせた女神。「出雲国風土記」によれば、この二神は神魂命(カムムスヒノミコト)の娘。枳佐加比賣命(キサカヒメノミコト)は、秋鹿郡(あいかぐん)の佐太大神を島根郡の加賀の神埼で産んでいます。大己貴命は兄弟の八十神たちに二度も殺され、黄泉の国で須佐之男命の試煉に鍛えられて地上に蘇り、八十神たちを追い伏せ追い払って大国の主の神となったのでした。
 広大な境内には、大国主神の像もあります。


参道を下って中の鳥居から西へ歩を進めると、土俵と野見宿禰を祀る社がありました。


「日本書紀」に、垂仁天皇の7年、大和・葛城の当麻に当摩蹶速(タギマノクエハヤ)という天下の力士(ちからびと)がいるのを天皇が聞こしめし、
「此に比ぶ人有らむや」
と問われました。臣下の者が
「出雲の国に勇士(いさみびと)有り。野見宿禰(ノミノスクネ)と曰ふ。」
と答え、野見宿禰は大和に喚ばれて当麻蹶速と「すまひ(手偏に角、相撲)」をとらされます。生死をかけた格闘に野見宿禰は勝ち、当麻の地を与えられて留まり仕えることとなったのでした。同28年に天皇の弟・倭彦命(ヤマトヒコノミコト)が亡くなられ、御陵には倭彦命の近習たちが生きながらに埋められました。彼らのうめき声は昼夜に続き、やがて息絶え腐ると
犬や烏に喰われました。天皇は

「其れ古の風(のり)と雖も、良からずは何ぞ従はむ。今より以後、議(はか)りて殉はしむることを止めよ」

と、殉死の風習を止める決意をしたのでした。同32年に皇后が崩御され、葬礼をどう行うか臣下に問うたところ、野見宿禰が出雲国の土部(はじべ)たちを喚び、人や馬など様々なものの形をした埴輪を作らせて献上し、

「今より以後、是の土物(はに)を以て生人に更易(か)へて、陵墓(みささぎ)に樹(た)てて、後葉(のちのよ)の法則(のり)とせむ」

と申し上げると、天皇は喜ばれて採用したのでした。野見宿禰は相撲の祖であり、埴輪の考案者であり、菅原氏や大江氏の祖・土師(はじ)氏の祖でもあります。後世、日本では主君に殉じて追い腹を切る殉死が復活しますが、江戸時代初期の禅僧・鈴木正三和尚は

「それつれのばかを云か、道理であほばらを切る也。(中略)死しては自由に一處に往くと思ふや。主は主、下人は下人、親は親、子は子、己れ己が業次第に、善所えも悪趣えも往く也。」(「驢鞍橋」)

と、追い腹を切ることの愚かさを説いています。野見宿禰の時代は、垂仁天皇の25年に天皇の娘・倭姫命(ヤマトヒメノミコト)が天照大御神を祀る場所を求めて大和~近江~美濃と廻り、伊勢の内宮(伊勢神宮)を建てたのと同時期。日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が活躍する少し前であり、まだまだ仏教は伝わっていなかったでしょう。大和政権樹立後も、出雲には優れた技能・技術の伝統が存続していたようです。
 大社から西へ歩を進め、大歳社(おおとしのやしろ)に参拝。


大年神は須佐之男命の子であり、宇迦之御魂神(ウカノミタマノカミ、稲荷神)の兄。大年神の子の大山咋神(オホヤマクヒノカミ)は、
「近つ淡海国の日枝の山に坐(いま)し、また葛野の松尾に坐して、鳴鏑(なりかぶら)用つ神ぞ。」(「古事記」)
即ち、小比叡神であり松尾明神です。さらに西へ進み、稲佐の浜へ。


旧暦十月に亡くなられたという伊弉冊尊(イザナミノミコト)を偲び、毎年十月(神無月)、この浜に全国の神々が参集されるとのこと。神々は大社をはじめ出雲の各社で神議(かみはかり)をされ、神在祭(かみありさい)が行われます。浜から北側へ歩を進め、屏風岩へ。


葦原の中つ国(日本)の統治権をめぐって、高天の原から遣わされた建御雷神(タケミカヅチノカミ) と大国主神が交渉した処です。

「出雲国の伊那佐の小濱に降り到りて、十掬劔(とつかつるぎ)を抜きて、逆(さかしま)に浪の穂に刺し立て、その劔の前(さき)に趺(あぐ)み坐して、その大国主神に問ひて言ひたまひしく、「天照大御神、高木神(高御産巣日神)の命もちて、問ひに使はせり。汝がうしはける葦原中国は、我が御子(天忍穂耳尊)の知らす国ぞと言依さしたまひき。故、汝が心は奈何(いか)に。」(「古事記」)

大国主神は、息子たちに聞いてくれ、と、建御雷神の脅しを老練にかわします。島根郡の美保の埼で釣りをしていた八重事代主神(ヤエコトシロヌシノカミ) は建御雷神に戦わずして降参し、建御名方神(タケミナカタノカミ)は
「然らば力競べせむ」
と戦いますが、信濃の国の諏訪まで敗走して降参し、諏訪の神として祀られます。二人の王子の降参を受け、大国主神は当地に神殿を建てることを条件に、国譲りを承諾したのでした。「出雲国風土記」には、「越の八口」を平定して出雲国に戻った大国主神が、

「我が造り坐して命(し)らす国は、皇孫子(すめみま)の命(みこと)、平(たひら)けく世(みよ)所知(し)らせと依せ奉(まつ)る。但(ただ)、八雲立つ出雲の国は、我が静まり坐す国と、青垣山廻らし賜ひて、玉珍(たま)置き賜ひて守りたまふ」

と述べており、大国主神はけっして無条件に降伏をしたのではなく、かつて黄泉比良坂で須佐之男命に託された課題を実現すべく、「顕露の事」は皇孫に統治を委ね、「幽事」を治めるべく大社を築かせたのでした。その課題とは、天神地祇の融和、日本の父母である伊弉諾尊と伊弉冊尊の融和、陰陽の融和に他なりません。
 屏風岩から、建御雷神を祀る因佐社(いなさのやしろ)に参拝。


さらに奥には、十一面観音さまを祀る長谷寺。


般若心経をお唱えし、すべての天神地祇、並びに生きとし生けるものの融和をお祈りしました。大社方面へ少し戻り、天照大御神を祀る下宮(しものみや) に参拝。


その向かいには、天照大御神の弟で高天の原から追放された須佐之男命を祀る、上宮(かみのみや)。


神無月に全国から稲佐の浜に参集した神々は、此処で神議をされるとのこと。大国主神が議長を務め、その背後には須佐之男命もおられるのでしょう。日本のみならず、世界の神々にも出席していただきたいものです。(続く)
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松樸裏

Author:松樸裏
自由と孤独を愛するアウトサイダーと、万物の母たる大自然との一対一の対話
2006~奥美濃の藪山を登り始める
2009~白山三禅定道を毎年登拝
2016~19白山美濃馬場の古の山伏の行場「白山鳩居峯」のうち五宿を毎月巡拝、以後随時巡拝