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饗庭白山~見影山~三ヶ根山順礼

 1月30日、三河の吉良吉田から深溝まで信仰の山々を順拝してきました。
 朝7時半、吉良吉田の宝珠院に参拝。


宝徳2年(1450)、比叡山の栄俊上人が当地に十一面千手観音菩薩像を祀り、富士山吉田口で修行の後、寛正4年(1463)に当地に戻って大日如来像を安置し、開山されたそうです(宮田登編「七福神信仰事典」)。当地が「吉田」と呼ばれるようになったのも、栄俊上人に由来するようです。境内に入ると、見事な宝篋印塔が現われました。


豪潮式の宝篋印塔です。豪潮律師の生前に起てられたものかは分かりませんが、律師は尾張の知多郡を中心に、三河の岡崎にも造塔しており、当地に起てたとしてもおかしくはありません。投地礼をし、宝篋印陀羅尼をお唱えしました。
 宝珠院から矢崎川を北上。


行く手に饗庭(あいば)の白山が近づいてきます。


麓の金蓮寺に参拝、国宝・阿弥陀堂にて阿弥陀さまの白毫に照らされつつ、礼拝念仏しました。


脇侍の観音さま・勢至さまも尊いお姿です。本堂のご本尊は、不動明王。裏山に登ってゆくと、登り口に多度明神と、役行者。


三河出身の江戸時代前期の禅僧・鈴木正三和尚は、吉野で大峯奥駈の山伏を見て「扨(さて)も役の行者はでかい修行者で在(あつ)たよ」(「驢鞍橋」)と、仁王・不動の大堅固の機の大切さに気づき、初心の者はまず仁王や不動明王の姿を手本にして修行すべきことを説かれました。これは、白山美濃馬場・長瀧寺の古の修験の行場「鳩居十宿」の一宿目「一ノ宿」の本地が不動明王であることからも、うなずけます。役行者ご真言をお唱えして上へ。饗庭神社は暦応2年(1339)、足利尊氏が祇園社(八坂神社)の牛頭天王を勧請して創建。本地・薬師如来ご真言をお唱えしてさらに登ってゆくと、小ピークに八幡社。傍らに、先の大戦末期、旧日本軍が本土決戦に備えて建設した「陣地壕」の跡がありました。


 8時半、山頂の白山宮に参拝。


永徳3年(1383)、足利尊氏から饗庭七郷を賜った加賀の妙鶴丸(みょうかくまる)が、白山権現を勧請して建てたそうです。般若心経と白山三所権現ご宝号をお唱えして神社の裏手に出ると、北側の展望が得られました。遠方の山々は雪雲に隠れていましたが、一心に念仏をお称えしていると、周囲の雲よりも一際白いものがしばらく見えました。


雲なのか白山の雪なのか定かではありませんでしたが、方角は合っています。冷たい北風の中、一心に念仏を続けました。此処は、豪潮律師の弟子・慈本豪英尼が出家する前の文政10年(1827)、21歳の時に「白山ノ森」に籠って一心に念仏していると、亡き母が「汝シ願クハ出家シテ一心ニ念仏シテ西国四国ヲ順拝シテ呉レラレヨ」(「念仏貞本日記」)と言うのを聞き、発心された処です。慈本尼は、生後まもなく他家にもらわれて育ったそうです。饗庭村白山での体験の後、出家して西国三十三所・四国八十八ヵ所順拝を行じ、翌文政11年(1829)には三ヶ根山の観音堂で七日間の断食を行じています。文政13年(1830)に晩年の豪潮律師に弟子入りした慈本尼は、翌年から則定の羅漢山にて千日念仏行。豪潮律師の遷化後、駮馬(まだらめ)の真珠院で二度目の千日念仏を行じ、弘化4年(1847)に信心念仏の生涯を終えました。弟子が書き留めた慈本尼の法話に、
「兎角(とかく)おれがおれがの我が悪くござりまする 此娑婆でもおれがでに成事はひとつもござりませぬ」
「御念仏を申にもおれがではおれが力で申とおもふと一日でも役に立ちませぬ おねん仏は如来さまのお名南無阿弥陀仏とは如来さまの御本願一口南無阿弥陀仏と唱うれば八十億劫の罪が滅する一口名号を唱と云と神も拝んだが仏もおがんだとおつしやります」(「念仏行者御法儀噺集」)
 饗庭の白山を下って東側へ山沿いに歩を進め、峠を越えて小山田の勝楽寺へ。


延元3年(1338)足利尊氏の創建です。奥之院まで登ると、南に三河湾が望めました。


さらに東へ足を進め、鳥羽神明社、鳥羽城跡と巡拝。国道に出ると、幡豆(はず)の見影山が遥拝できました。10時半に麓に着き、平和塔に参拝。


幡豆町出身の戦没者448名の慰霊塔です。念仏をお称えしました。弘法堂の隣には白山社があり、役行者も祀られています。


参拝し、八十八体の「穴弘法」が祀られている順拝路を念仏行道。山上からは、南に三河湾と渥美半島。


南西には知多半島も望めました。
 見影山を下り、「小野ヶ谷コース」と書かれた道を北へ。静かな小道が山裾に続いています。前方右には三ヶ根の山並。


20分ほどで龍蔵院着。


境内には役行者もおられます。ご本尊の聖観音さま、脇侍の不動明王・毘沙門天に般若心経読誦。長寿尼寺に参拝して三ヶ根山への山道を登ってゆきました。山かげは風が冷たいです。12時半に殉国七士廟着。東條英機他、A級戦犯七名のお墓があり、周りには戦没者の慰霊碑がたくさんあります。


少し離れた処に、ひっそりと、阿弥陀さまと観音さまの年月を経た石像が並んでいました。
 殉国七士廟から、山腹の山道を下り登り。水たまりが凍っている処もありました。13時半に山頂の三ヶ根観音に参拝。雪が舞っていました。フィリピンでの戦没者51万8千人の供養の為に造立された「比島観音」の足元で、投地礼をして般若心経と念仏百八遍お唱えしました。


境内には、約八十基の戦没者慰霊碑。南に三河湾、渥美半島、そして太平洋。


南方で亡くなった多くの戦没者を思い、念仏をお称えしました。三ヶ根山に、かくも多くの戦没者慰霊碑があるとは知りませんでした。フィリピンだけでも、50万人以上の尊い命が戦争で失われたのです。フィリピン人戦争犠牲者の碑も一基ありました。子供を抱く母親の像です。先の大戦で犠牲になったフィリピン人は、111万人だそうです。観音さま、阿弥陀さまとは、人間のさかしらを超えて、怨親平等に救いの手を差し伸べてくださるお方。敵味方も、民族も宗教も超えて、一切の戦没者を供養してこそ、平和への道、仏の道といえるのではないでしょうか。
 14時に下山。処々凍った山道を下ってゆき、一ノ瀬登山口から三ヶ根山を振り返りました。


深溝(三ヶ根駅)に45分ほどで着き、駅西の高台に鎮座する御祖(みおや)神社に参拝。


石段を下って境内を出ようとすると、入口の二つの灯籠の裏に、「旧白山宮氏子中」と記されているのが目に入りました。


大正元年(1912)八月寄附、とあります。此処は元々、白山宮だったのか?とも思いましたが、明治の神仏分離で「御祖神社」に改称されたのは、妙見宮だった処が多いようです。ふと、昨年(2017)12月に深溝から西尾まで放浪行脚した際、深溝断層の手前で「村社白山宮」と記された石碑が地面に埋もれていたのを思い出しました。


何らかの事情で、白山宮が当地に合祀されたのでしょうか。再び石段を上がり、白山三所権現ご真言・ご宝号をお唱えして、白山三所権現、即ち観音さまと阿弥陀さまのお導きに感謝したのでした。


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松樸裏

Author:松樸裏
自由と孤独を愛するアウトサイダーと、万物の母たる大自然との一対一の対話
2006~奥美濃の藪山を登り始める
2009~白山三禅定道を毎年登拝
2016~19白山美濃馬場の古の山伏の行場「白山鳩居峯」のうち五宿を毎月巡拝、以後随時巡拝