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出雲巡礼/大社・下

(承前)
 2月1日朝、出雲大社~稲佐の浜を順拝した後、奉納山に登ってゆき於国塔に参拝。


歌舞伎の祖・出雲阿国(いづものおくに)は出雲大社の巫女で、大社修理の勧進のために京都に出て念仏踊りを演じ、慶長8年(1603)頃に歌舞伎踊りを始めたようです。8時半に奉納山登頂。山上は雪が舞っていました。西側は稲佐の浜と日本海。


東側にはうっすら雪化粧の弥山(みせん)。


大社の背後に連なるこの山並は、「出雲国風土記」に「御崎山(みさきやま)」と記されています。加賀藩の儒学者・金子有斐の「白嶽図解」に、白山頂の大御前(おおごぜん、御前峰 )について

「御前とはみさきの真字也。故に御前(みさき)と呼べきを後世の習にて音によへり。書紀等に岬崎の字ともを書て山にても水辺にても突出たる所を古より真先(みさき)と云う。」

と記されていますが、「御崎」や「御前」は神の依りつく処でもあったでしょう。
 奉納山を下り、大社に戻って古代出雲歴史博物館へ向かう途中、樹の枝に光る無数の水滴。


博物館では、出雲で出土した大量の銅剣や銅鐸に圧倒されました。古代(六世紀)の琴もあり、大国主神が須勢理毘賣を背負って黄泉比良坂(よもつひらさか)から脱出したとき、大刀と弓矢と共に盗んだという「天の詔琴(のりごと)」に想いを馳せました。「隠岐の祭礼と芸能」の展示では、祭礼で使われる神楽面の中の建御雷神(タケミカヅチノカミ)の面が、赤鬼そのものの顔であるのが印象に残りました。大国主神に国譲りを迫る建御雷神は、たしかにこんな顔をしていたのかもしれません。建御雷神は、伊弉冊尊(イザナミノミコト)が火之迦具土神(ヒノカグツチノカミ、火の神)を産んだときの火傷が元で亡くなってしまい、夫の伊弉諾尊(イザナギノミコト)が悲しみ怒って迦具土神の頸を斬った際、刀についた血が飛び散って生まれた神さまです。
 歴史博物館から、東へ。前日(1月31日)同様、東風が冷たいですが、雨風は昨日より穏やか。出雲井社(いづもいのやしろ)に参拝して弥山の南麓を梅の花見つつ東へ。


博物館から歩くこと三十分強、阿式谷の阿須伎神社(あずきのかみのやしろ)に着きました。北西に聳える、弥山。


祭神は、大国主神の長男・阿遅志貴高日子根神(アヂシキタカヒコネノカミ)。前日は阿遅志貴高日子根神が育った神門郡(かむどぐん)高岸の郷や、阿遅志貴高日子根神の御子・塩冶毘古能命(ヤムヤビコノミコト)を祀る塩冶の郷を巡拝しました。天若日子(アメノワカヒコ)の喪屋をほぼ真東に美濃まで蹴飛ばしたという、光り輝く王子・阿遅志貴高日子根神。怒って喪屋を切り伏せ、何百キロも先まで蹴り飛ばしたり、子供の頃は昼夜泣いてばかりいた等、祖先の須佐之男命を彷彿とさせる神さまです。「出雲国風土記」には、出雲郡に「阿受枳の社」が三十九社も記されており、大国主神の真の後継者として深く拝まれていたようですが、現在は阿須伎社は此処のみとのこと。美濃ともゆかりのある神さまに四拍手して勤行を修し、伊弉冊尊~須佐之男命~大国主神~阿遅志貴高日子根神と連なる出雲の神々を供養すると共に、世界の天神地祇の融和をお祈りしました。


 阿須伎神社からさらに東へ足を進め、荘厳寺に参拝。


お寺の裏から湯屋谷川を少し遡ると、蔵王権現が祀られていました。


般若心経と蔵王権現ご真言、役行者ご宝号をお唱えし、さらに上流へ。堰の先は斜面が崩れているのか、滑りやすく危険です。谷に降りると、滝がありました。御崎山の山並から流れ下る、水。


正午に荘厳寺から南へ下り、弥山と大社を遥拝。


神話の故郷・出雲は、日本人の意識の底の故郷でもあります。

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松樸裏

Author:松樸裏
自由と孤独を愛するアウトサイダーと、万物の母たる大自然との一対一の対話
2006~奥美濃の藪山を登り始める
2009~白山三禅定道を毎年登拝
2016~19白山美濃馬場の古の山伏の行場「白山鳩居峯」のうち五宿を毎月巡拝、以後随時巡拝