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聖護院~金戒光明寺~知恩院順拝

 3月28日、桜が満開の京都へ。聖護院門跡の塔頭・積善院に参拝。


ご本尊の準提観音さまは、光格天皇の勅により肥後出身の天台僧・豪潮律師が造立されました。「豪潮律師小伝」(柴田六五郎著)によれば、豪潮律師は寛政11年(1799)2月9日より聖護院に出入し、8月1日に準提観音造立開眼供養、翌12年(1800)4月18日、準提観音堂が完成して入仏開眼供養の後、4月26日に京を発って肥後に帰郷しています。豪潮律師はその後、享和2年(1802)の肥後小松・大興善寺の宝篋印塔を皮切りに「八万四千塔」造立を開始され、九州各地に起塔した後、文化14年(1817)に尾張藩主・徳川斉朝に招かれ尾張に移り、尾張や三河にも起塔、最晩年の天保4年(1833)には白山美濃馬場・白山中宮長瀧寺にも造立しています。


(長瀧寺大講堂と宝篋印塔、2017年12月)
律師の宝篋印塔を灯籠と混同されている方もおられるようですが、神仏に奉納する灯籠と違い、宝篋印塔はそれ自体が礼拝の対象です。宝篋印塔は「一切如来心秘密全身舎利宝篋印陀羅尼」を納めた宝塔で、この陀羅尼の中には、過去のすべての仏さまの舎利(ご遺骨)、現在・未来のすべての仏さまの分身のお姿があります。この宝塔を礼拝することは、三世の一切の仏さまを礼拝することなのです。

もし有情(衆生)あって
よくこの塔において
一香・一華をたむけて
礼拝供養すれば
八十億劫にわたる
生死の重罪は
一時に消滅し
生あるうちは災殃を免れ
死ののちは仏の家に生まれるであろう。
(「宝篋印陀羅尼経」)

 準提観音菩薩の行者であった豪潮律師は、泰澄大師開創で尾張・諸輪にあった長栄寺を文政6年(1823)、名古屋・柳原に再興し、準提観音さまをご本尊としています。


(2017年6月参拝時)
また、文政8年(1825)、白山中宮長瀧寺・大講堂の再建上棟式供養で導師を勤めた翌日からの本尊遷座式供養では、

八月六日 法華三昧 大日供
  七日 法華読誦 釈迦供
  八日 常行三昧 弥陀供
(「長瀧寺真鑑正編」)

と、長瀧寺大講堂の三尊の法要の後、

  九日 準提懺法 準提供
  十日 大般若転読 十一面供

を厳修されています。十一面観音さまは白山権現の本地仏ですが、準提観音さまは豪潮律師ならではの法要であったことでしょう。積善院の準提観音さまに観音経とご真言、律師ご宝号をお唱えし、新年度からの精進を誓いました。
 聖護院にて修験の祖・役行者に参拝。


豪潮律師が聖護院に出入し始めた寛政11年(1799)は役行者の一千百年御遠忌に当たり、律師出入の半月前の1月25日、光格天皇は聖護院に勅使を遣わし、役行者に「神変大菩薩」の諡号を贈りました。長栄寺第九世・圓随和尚の「豪潮律師畧伝」によれば、光格天皇は豪潮律師に「寛海大師」の号を贈ろうとされましたが、律師は伝教大師(最澄上人)に対して恐れ多いと固辞し、寛海の二字のみをいただいたそうです。
 聖護院から東に歩を進め、金戒光明寺に参拝。


承安5年(1175)、法然上人が比叡山を下りて開かれた、浄土宗最初の念仏道場です。山門には「浄土真宗最初門」の額。


御影堂にお参りすると、壁に山越阿弥陀図の大きな複製があり、念仏をお称えしました。阿弥陀堂には、比叡山横川の恵心僧都最終作の阿弥陀さま。「のみのおさめの如来」と呼ばれているそうです。熊谷直実が法然上人の元で出家した際、兜を置いて弓の弦を切り、弓を池に架けた形を模したという極楽橋を渡り、法然上人の御廟に参拝。



三重の塔へ登ってゆくと、西に京都の街が望めました。


 幕末の会津藩殉難者の墓地へ向かう途中、亀の上に建つ碑がありました。


亀には大きな耳がついています。碑文には、松倉重政の家臣であった山本義安という人の事蹟が記されています。大坂冬の陣・夏の陣で武功を立て、後に伊予・松山藩主の松平定行に召し抱えられています。大和・五条藩主であった松倉重政は、大坂夏の陣の翌・元和2年(1616)に肥前・日野江藩(島原藩)に移り、島原城を築きました。


(島原城、2015年7月)
重政と、後を継いだ勝家の苛政によって、寛永14年(1637)に島原の乱が勃発しています。山本義安の最初の妻は松倉重政の姪であったらしく、その子・義辰が寛文元年(1661)の父の死後、この碑を建てたもののようです。実は、同じような形の碑を昨年、三河・深溝(ふこうず)の本光寺で拝みました。深溝松平家六代・忠房公が建てた、「願掛け亀」。


(2017年12月参拝時)
大きな耳は、参拝者の願いを聞きかなえる為だそうです。島原の乱後、松倉家は改易となり勝家は斬首、次の高力家も二代で改易となり、寛文9年(1669)、松平忠房公が丹波・福知山藩から島原藩に移りました。「願掛け亀」は、福知山にいた頃から十年がかりで作られたそうです。忠房公は、金戒光明寺のこの碑を見たことがあったのでしょうか。亀の大きな耳は、領民の声に耳を傾ける為でもあったことでしょう。
 金戒光明寺から街中へ下り、親鸞聖人が得度された青蓮院門跡の前を通って知恩院に参拝。


称名の声が途絶えぬ堂内は、さすがです。

「ただ往生極楽のためには、南無阿弥陀仏と申して、うたがいなく往生するぞと思い取りて申す外には別の仔細候わず。」(法然上人「一枚起請文」)

諸堂を順拝し、南無阿弥陀仏の名号をお称えしました。


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松樸裏

Author:松樸裏
自由と孤独を愛するアウトサイダーと、万物の母たる大自然との一対一の対話
2006~奥美濃の藪山を登り始める
2009~白山三禅定道を毎年登拝
2016~19白山美濃馬場の古の山伏の行場「白山鳩居峯」のうち五宿を毎月巡拝、以後随時巡拝