二十一世紀と縄文時代の温暖化
- 2023/11/12
- 14:38
令和五年(2023)十一月十一日、午後おそく長良川畔のねぐらから裏山へ登り、北の樹間に拝んだ白山三所権現。
御前峰(本地・十一面観音菩薩)と別山(本地・聖観音菩薩)の中央奥に大汝峰(本地・阿弥陀如来)が頭を覗かせる、この山越来迎阿弥陀三尊を拝めるのは、白山の南側からだけだ。温暖化の続く近年には珍しく、今年は十月初旬に初冠雪した白山。だがその後一ヶ月経っても、雪は積もっては融けてを繰り返している。
(2023/10/22、山の庵より)
長良川から望む御嶽山の雪も、すっかり融けている。
急に強い寒波が来ることはあるが、やはり温暖化は進行中のようだ。
此処、長良川中流はまだ葉が色づいていないが、上流の山の庵ではすでに見頃。庵のヤマザグラやミズナラの葉はすっかり落ちたが、先日早朝、周辺の紅葉の下でカモシカ母子に出会った。
(2023/11/6)
カモシカのお母さんは、いつも子を先に逃がす。子供も勝手には逃げず、お母さんの合図を待って逃げる。カモシカの子は警戒心が薄い。先月は野人の庵にもやって来た。
(2023/10/18)
野生動物はペットや家畜ではない。お母さんカモシカは経験から、やさしそうに見える人間の恐ろしさに勘づいているのだろう。
二十一世紀の科学者たちは、直面している地球温暖化のネガティブな面ばかり強調しているが、何故か紀元前四十六~三十六世紀頃ピークを迎えた縄文時代前期後半の温暖化は、ポジティブに捉えられている。今よりもはるかに暑く、海水面も高くなった温暖化によって、植物も動物も魚も増え、縄文人たちは食料を求めて移動を繰り返さず定住できるようになったらしい。その後、紀元前三十六~二十五世紀頃の縄文時代中期には、集落も人口も一気に増加したようなのだ。
(加賀・手取川岸の舟岡山遺跡、2023/10/23)
(美濃・長良川岸の塚原遺跡、2023/11/2)
(美濃・武儀川岸の岩井戸岩陰遺跡、2023/11/2)
(飛騨・小鳥川岸の門端縄文遺跡、2023/11/5)
(越中の不動堂遺跡と朝日岳、2023/11/6)
そして縄文時代後期の冷涼化により、集落は減ったという。
縄文人たちが温暖化によって繁栄したのなら、現代人にとっても温暖化にメリットはあるはずだ。特に、狩猟や漁や採集を主とする人たちには絶好のチャンスなのかもしれない。日本の沿岸で出没が増えているイルカやクジラは、餌を追っているはず。クマの出没が増加しているのも、単純に木の実の不作だけが原因なのだろうか?木の実を食べるのはクマだけではない、シカなどが増えれば木の実も減るだろう。そもそも、今年は木の実が成る秋よりも前からクマの出没が増えているではないか。クマは夏にはアリなどを食べるらしいが、今年の夏は山の庵に入ってくるアリが異常に少なかった。いずれにしても、現代人を脅かすこともあるイルカやクマの出現は、縄文人にとっては有難いことだったろう。縄文時代の貝塚からは魚貝やシカやイノシシだけでなく、イルカやクジラ、アシカ、クマなどの骨も出土している。
(越中・氷見の朝日貝塚出土の骨、氷見市立博物館、2023/10/29)
だが、先進国を自称する人たちは現在の地位と環境にしがみついていたいのだろう。彼らにとって本当の問題は温暖化ではなく、変化そのものを恐れているのだ。と同時に、縄文時代後期の冷涼化をネガティブに捉える一部の学者たちも、都市部の環境に固執しているのかもしれない。飛騨の宮川村発刊の「宮川のあけぼのーよみがえる縄文人のくらしー」に、こうある。
「冷涼・寒冷な気候は、狩猟・採集の生活にとって、かならずしもマイナスには働かない。北海道や東北の縄文人や、近世のアイヌ社会が豊かな文化をもっていたことは有名である。「寒さ」「雪の多さ」をマイナスにとらえる見方は、現代的な発想であって、ときとして偏見につながることさえある。」
大切なことは、温暖化にせよ冷涼化にせよ、環境の変化を安易に善悪と決めつけず、どうすればその変化に適応してゆけるかを真剣に考えることではなかろうか?温暖化が当面続くことは分かっているのに、何故それを受け容れようとしないのか?現代人は高度な頭脳や精密なテクノロジーを誇りにしているくせに、海水面も気温も上下するものだという縄文人には当たり前の現実を、まるで知らない(知りたくない)かのようではないか。
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