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建仁寺~本能寺~白山宮~戻橋放浪

 3月28日午後、知恩院から円山公園を通り、高台寺や霊山観音がある高台へ。満開の桜と、大勢の観光客。南東に八坂の塔(法観寺)を拝みました。


平安時代中期の天台僧で修験者でもあった浄蔵法師は、天暦4年(950)夏に八坂寺(法観寺)に住しており、天暦6年(952)3月に貴族らが花見に来た際、塔が北西の方、即ち御所の方へ傾いていると指摘され、亥の刻(21~23時)に露地に坐して宝塔を加持すると、子の刻(23~1時)に北西から微風が吹いて塔がまっすぐになったとのことです(「大法師浄蔵伝」)。浄蔵法師は康保元年(964)、東山の雲居寺で西面安坐し、正念に念仏しつつ遷化されました。雲居寺は、現在の高台寺の辺りにあったそうです。
 浄蔵法師は12歳の時に宇多法皇の弟子となって得度受戒され、比叡山で玄照阿闍梨等に学び、二十代の頃は大峰、葛城山、那智山などで修行しています。49歳の天慶2年(939)夏、浄蔵法師は白山に安居していますが、その際に故老から、昔、神融という名の苦行人が景雲(慶雲、704~708か)年中に白山を始めて開いたこと、法華経の功力で毒龍悪鬼を御厨(みくりや)という名の池に籠めたこと、修行者がその池に近づけば、天地震吼し四方は暗闇となる、と聞き、真偽を確かめようと竹筒を持ってその池に行き、水を酌んで護身結界して宿に戻ろうとすると、毒龍が出現したのでした。ほうほうの体で神呪を誦しつつ逃げ戻った浄蔵法師は、酌んだ霊水を京に持ち帰り、後日、庶民の病を治すのに使ったそうです(「大法師浄蔵伝」)。この「御厨池」については、翠ヶ池と混同されていることが多いようですが、翠ヶ池と御厨池を別々に記している白山絵図や文書も存在し、また、御厨池と思われる無名の池が現実に存在していることは、当ブログで再三紹介してきた通りです。


(2017年11月登拝時)(2017.11.4「白水滝~白山登拝」参照)
この池のことを、学者先生たちはご存知ないでありましょうが、古の白山の行者たちが知らなかったはずはありません。浄蔵法師の如く、真偽を自分の身をもって確かめ、山の神仏の清浄の気を受け修して、自他の煩悩・黒業・苦しみを少しでも清めてまいりたい、と願います。
 八坂の塔から安井金比羅宮へ下り、建仁寺に参拝。栄西禅師の御廟(開山堂)の楼門南に「道元禅師修行の遺蹟」の碑があり、その奥に楽神廟があります。


栄西禅師の母が出産の折、備中・吉備津神社の末社・楽の社にお参りし、夢に明星を見て懐妊されたことから祀られているそうで、楽大明神(らくだいみょうじん)の本地仏は虚空蔵菩薩。肥前・平戸の白山信仰の山、安満岳(やすまんだけ)に伝わる「安満嶽縁起」には、千光院葉上僧正(栄西禅師)が宋に渡った際、香合の中に白山妙理菩薩(権現)を勧請して首に懸けていたこと、禅宗を嗣法して建久2年(1191)に平戸経由で帰国後、建久6年(1195)に博多に創建した「扶桑最初禅窟」聖福寺に、報恩の為、白山権現を勧請したこと、京都・建仁寺、鎌倉・寿福寺にも白山権現を「良久大明神」として勧請したことが記されています。


(平戸・冨春庵跡、2017年7月)
白山権現の本地は十一面観音菩薩であり、楽大明神が白山権現なのかは分かりませんが、聖福寺には現実に白山権現が祀られており、聖福寺に伝わる「安山規」によれば、かつては毎月5日に楽神廟回向が行われていたそうです(宮脇隆平「栄西 千光祖師の生涯」)。


(聖福寺、2017年7月)
虚空蔵菩薩は、白山に於いても美濃禅定道の別山平・加宝社、神鳩宿、石徹白の中居神社・大宮殿(現在は大師堂に鎮座)、加賀禅定道の加宝宮、越前馬場・平泉寺の白山三所権現の社の脇の加宝宮等に祀られていました。楽神廟にて般若心経と虚空蔵菩薩ご真言・白山権現ご宝号をお唱えしました。
 鴨川に下って松原橋(かつての五条大橋)より比叡山遥拝。


坂本龍馬・中岡慎太郎遭難之地にて念仏をお称えし、アーケードの商店街を通って誠心院に参拝。平安時代中期の歌人・和泉式部が初代住職であったと伝わり、和泉式部のお墓である宝篋印塔が建っています。



もみぢ葉も真白に霜の置ける朝は越の白峰ぞ思ひやらるる(和泉式部)

和泉式部の墓前で宝篋印陀羅尼と念仏をお唱えしました。誠心院の境内には役行者も祀られており、お参りさせていただきました。


 誠心院からアーケードを北へ進み、本能寺へ。天正10年(1582)、織田信長が明智光秀に襲撃され自刃した寺ですが、天正17年(1589)に現在地に移転再建されたそうです。本堂前の塀は、信長が桶狭間合戦の後に熱田神宮に奉納した「信長塀」を思わせます。



(熱田神宮、2017年8月)
信長公廟にて題目をお唱えしました。本能寺の北側には、白山神社。


社伝によれば、治承元年(8月改元、1177)に加賀白山社の僧徒たちが神輿を担いで強訴に及んだが、聞き入れられず、神輿を路上に放り出して帰山したが、その一基を祀ったのが当社とのこと。「平家物語」には、安元2年(1176)に白山加賀馬場の中宮三社(笥笠中宮・佐羅宮・別宮)と加賀守・藤原師高の目代・師経が対立し、師経が中宮八院の一つ・涌泉寺を焼き払った為、中宮三社八院の衆徒が師経の館に押し寄せましたが、師経は京に逃げ帰った後でした。中宮三社八院の衆徒は本寺である比叡山延暦寺に訴えんと、佐羅宮の末社である早松社の御輿を振り上げて比叡山へ向かい、日吉山王七社の一つで白山権現が勧請されている客人宮に入れました。延暦寺衆徒は加賀守師高の流罪と目代師経の禁獄を後白河法皇に要求したものの、なかなか裁許が下りず、安元3年(1177)4月13日に十禅師・客人・八王子の三社の御輿を振り上げて比叡山から内裏へ向かって入洛、警固に当たった武士たちが御輿を射てしまい、衆徒たちは御輿を振り捨て放置、結局、加賀守師高は尾張・井戸田に流罪、目代師経は禁獄されています。また、御輿を射た武士六人も入獄となっています。この白山宮は元々、白山加賀馬場の本宮四社でなく、中宮三社ゆかりの社ということになりましょう。笥笠中宮の神宮寺に阿弥陀如来像を祀り、保安2年(1121)に発願して昼夜不断の念仏三昧を行じられた西因上人の願文と、白山権現ご宝号をお唱えしました。

若シ白山ノ名ヲ聞ク善悪諸衆生、生死ニ流転セバ、我レ即チ成仏セジ。・・・
(藤原敦光「白山上人縁記」、西因上人願文)


(笥笠(けがさ)の集落・かつての笥笠中宮境内、2017年9月)
 夕方、六角堂に参拝。


建仁元年(1201)、親鸞上人は比叡山から毎夜此処に下り、百日参籠されたそうです。ご本尊の如意輪観音さまにお参りしました。西側へ歩を進め、本能寺址に参拝。


かつての本能寺の跡地は、今は高齢者の施設となっています。平安時代中期、京の市中で念仏を称えながら利他行を実践された空也上人が、天慶2年(939)に開創した「空也堂」に掌を合わせ、二条城から堀川沿いの遊歩道を北上。



やがて、一条戻橋に着きました。


延喜18年(918)、熊野参詣中の浄蔵法師が父の三善清行公(善相公)の死を暗に知り、急ぎ帰京すると、死後五日目の父の葬列に此の橋で出合ったのでした。嘆き悲しんだ法師が加持をすると、父は蘇生して我が子を礼拝したそうです。そして七日の後、善相公は手を洗い口を嗽ぎ、西面して念仏を称えつつ亡くなられたのでした(「拾遺往生伝」、「大法師浄蔵伝」)。浄蔵法師は加持祈祷の霊験譚が様々に伝えられていますが、超絶的で荒唐無稽なものではなく、生老病死の苦しみ・悲しみの現実、人間の限界、因果の理というものを決して忘れていないところに、先達として人間としての魅力が感じられます。

いづくにも帰るさまのみ渡ればやもどり橋とは人の言ふらん(和泉式部)

善相公が念仏往生された後の葬列は、戻り橋を通らず、浄蔵法師も父を浄土へと見送ったことでありましょう。醍醐天皇に提出した「意見封事十二箇条」で知られる善相公は、荼毘に付した後も、舌が焼けずに残ったそうです。南無阿弥陀仏。
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松樸裏

Author:松樸裏
自由と孤独を愛するアウトサイダーと、万物の母たる大自然との一対一の対話
2006~奥美濃の藪山を登り始める
2009~白山三禅定道を毎年登拝
2016~19白山美濃馬場の古の山伏の行場「白山鳩居峯」のうち五宿を毎月巡拝、以後随時巡拝