河北・氷見古代巡礼
- 2023/11/02
- 20:26
令和五年(2023)十月二十九日朝 越中・小矢部から峠道を車で走り
加賀・津幡の七野墳墓群へ 道の駅から南へと歩を進め
倶利伽羅不動寺鳳凰殿に参拝 境内南の高台に登れば
弥生時代終末期(三世紀前半)の墳墓群 二号墓は四隅突出型墳丘墓だ
四隅突出型墳丘墓は弥生時代中期・紀元前後から 出雲など山陰地方で造られた墳丘墓だ
弥生時代後期・二世紀後半には 出雲の西谷に巨大な四隅突出型墳丘墓が造られた
(西谷三号墓、2019/2/21)
(西谷二号墓、2019/2/21)
また二世紀初頭には越前に伝わって 小羽山三十号墓が造られた
(2019/3/8)
出雲で弥生時代終末期(三世紀前半)に造られた 西谷九号墓は最大の四隅突出型墳丘墓だ
だがその後四隅突出型墳丘墓は出雲から姿を消した 一方四隅突出型墳丘墓は広まった越(こし)にも
三世紀前半の加賀のこの七野二号墓や 越中・婦負(ねい)の富崎三号墓
(2023/7/22)
六治古塚墳墓(ろくじこづかふんぼ)や杉谷四号墳など 越前から越中まで分布している
(六治小塚墳墓、2023/7/22)
(杉谷四号墳、2023/7/22)
「出雲国風土記」には大穴持命(大国主神)が 越の八口を平定しに行ったと書かれている
八口(やつくち)や八ツ口という地名は越前にも越中にも越後にもあり 越後・西頸城の早川谷に伝わる「往古早川谷之絵図」によれば
焼山の東の火打山はその昔 八口山と呼ばれ山中にいた
八口という者を大穴持命が討ったという また「古事記」で八千矛神(大国主神)より
求婚された高志(こし)の国の沼河比賣(ヌナカワヒメ)も 思われている越後の西頸城にいたように
(焼山と火打山、2023/8/8登拝時)
さらに北東の越後・出雲崎の 石井神社(いわいじんじゃ)には伝わる大国主神がこの地の
井戸水を撒くと茂った霊樹で船を造り 佐渡を平定しに行ったと
石井神社の神職は名主・橘屋山本家が兼ねていた 橘屋山本家は江戸時代後期の僧・良寛和尚の生家
(石井神社より望む日本海と佐渡、2023/9/27)
大国主神の越遠征の伝説は 越前から越後まで広がっているが
出雲からの入植の証拠と思われる 四隅突出型墳丘墓は今のところ
越後からは見つかっていない 弥生時代後期の山陰に分布する台付装飾壺も
分布の東限は越中のよう(富山市考古資料館「特別展 とやまの弥生王権」) 大己貴命(オホナムチノミコト、大国主神)は後に加賀の白山・大汝峰に祀られた
また越中・立山の最高峰も大汝山だ だが弥生時代に出雲の勢力は越後までは及ばなかったのか?
(白山・大汝峰、2023/10/17登拝時)
七野墳墓群から北西へ車を進め 訪れたかほく市の上山田貝塚(かみやまだかいづか)
縄文時代中期中葉 紀元前三十世紀前後頃の遺跡だ
南貝塚より丘の上へ登ってゆくと 東斜面に北貝塚があり
丘の上には弥生時代の竪穴住居跡 縄文時代の住居跡は開墾等で消滅したらしい
丘の上におじいさんが一人いて トイレの掃除をしておられた
挨拶すると一日に一人来るか来ないか だ~れもこんなトイレ使わんと言っておられた
誰も来なくても一人でトイレを 掃除しておられるおじいさんは有難い
此処は昔は畑だったそうだが この貝塚から出土したものはものすごい
魚や貝や鳥や獣の骨 貝輪やヒスイの大珠(たいしゅ)や石錘(せきすい、魚を獲る網のおもり)
渦巻き紋様のある土器は越中・魚津の天神山遺跡の土器と共に 縄文時代中期中葉の標識土器
(海と渚の博物館、2023/10/29)
そして貝塚から出土した幼児をおんぶした 女性と思われる円筒形の土偶
(レプリカ、石川県立歴史博物館、2023/10/23)
祭祀に使われたのだろうか 幼くして逝った子をあの世へ送る
稚(わか)ければ道行き知らじ幣(まひ)はせむ黄泉(したへ)の使い負(を)ひて通らせ (山上憶良)
上山田貝塚から西へ車を進め 七塚の海岸を散策
砂浜に打ち上げられた大木 浜辺をカモメさんも散策
七塚より日本海見つつ北東へ進み 能登・羽咋から峠越え越中・氷見(ひみ)へ
昼前に誓度寺境内にある 縄文時代の朝日貝塚へ
縄文時代前期中葉から中期中葉を主とする遺跡 貝塚の下層から竪穴住居跡が出土し
貝塚からは大きな縄文中期のヒスイの大珠や 中期中葉のバスケット型土器
(レプリカ、氷見市立博物館、2023/10/29)
イルカやシカやクマやハクチョウの骨 首飾りのある人骨や縄文犬の骨も出土している
縄文時代前期末葉の土器の把手は まるでカナヘビの頭のよう
(氷見市立博物館、2023/10/29)
(越後の米山にて、2023/4/25)
撫でたくなるような見事な鱗だ 縄文時代前期は今よりもっと暑かった
海に面した丘の朝日貝塚の南西一帯には 広大な入江が広がっていた
中期も二十一世紀の今と変わらぬ暑さだった 縄文人は海進・海退や
気候の変動に合わせ時には移動しつつ 柔軟にしたたかに生きていたようだ
朝日貝塚から南へ車を進め 柳田布尾山古墳(やないだぬのおやまこふん)へ
古墳時代前期・四世紀中葉頃の 巨大な前方後方墳で
越中最大の古墳であり 前方後方墳としては日本海側最大だ
「日本書紀」によれば崇神天皇十年(四世紀初頭) 大彦命(おおびこのみこと)が北陸に遠征した
景行天皇二十五~二十七年(四世紀中葉)には 武内宿禰(たけしうちのすくね)が北陸~東国を視察
景行天皇四十二年頃には日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の東征の副将 吉備武彦命(きびのたけひこのみこと)が越に遠征している
大和王権によるこれらの遠征の際 各地に入植した人たちもいたはずだ
「国造本紀」によればこの地・伊弥頭国造(いみずのくにのみやつこ)は 景行天皇の次の成務天皇の代に設置されたが
初代国造は建内足尼(たけしうちのすくね)の孫の大河音足尼(おおかわとのすくね) また「古事記」によれば建内宿禰の子
若子宿禰(わくごのすくね)は加賀南部の江野財臣の祖だ 加賀南部には四世紀前期~中葉頃
河田山(こうだやま)や末寺山(まつじやま)に前方後方墳が造られた あるいは若子宿禰の一族の墓だろうか
(河田山一号墳、2023/10/23)
越中側では婦負(ねい)に勅使使古墳(ちょくしづかこふん) 王塚古墳と大きめの前方後方墳が造られた
(勅使塚古墳、2023/7/22)
(王塚古墳、2023/7/22)
柳田布尾山古墳の調査報告(2001年3月)によれば 三世紀末頃に造られた
勅使塚古墳と能登の雨の宮一号墳(四世紀後半)の 間頃に柳田布尾山古墳は造られたようだ
海を見渡せるこの巨大な古墳は あるいは若子宿禰その人の墓だろうか?
柳田布尾山古墳から北へ車を進め 参拝した大境の海岸に建つ白山社
本殿が鎮座する洞窟は縄文時代前期の 海進による浸食でできた洞窟だ
その後の落盤による六つの層から 縄文時代中期~中世の遺跡が出土した
縄文時代中期中葉の海退で 海水面より高くなった洞窟を縄文人が使い始めた
土器や石器と共に大きな石棒も出土しており 朝日貝塚等の集団が利用していたようだ
以後もこの洞窟を縄文人が弥生人が 古墳時代・奈良~平安時代・室町~戦国時代の人々が
利用し白山権現を祀ったのだ 白山を泰澄大師が開いたのは奈良時代・八世紀前葉だが
古墳時代・四世紀には加賀の舟岡山に白山比咩神が祀られ 越前・美濃境の石徹白に吉備武彦命が伊弉諾命(イザナギノミコト)を祀った
だがそれらは縄文時代中期・五千年前からの人々の生活と信仰の上に 積み重ねられていることをこの霊窟は如実に示していた
表層の白山の社の深層に幽(かく)る縄文・弥生の祈り
大境洞窟から九殿浜遊歩道を登る 富山湾の向こうには富山の街
さらに滑川や魚津の街が見える 立山は雲に隠れて見えない
昼下がりの空を舞うトンビ 沖には見える小さな島が
みかん畑のある丘の上に 登ればうっすらと見えた山並が
かつて縄文人たちはこの海で 丸木舟に乗り漁に出た
イルカや時にはアシカも追い込み 捕獲し解体して食べていた
彼らはイルカ形の土製品も作っていた 海の幸を祈り恵みに感謝し
弥生時代にはこの海に出雲から やって来た人々が神通川流域に住みつき
古墳時代には大和王権から派遣された 人たちがこの海を制圧した
そして巨大な古墳を築いた 海も山も昔と変わらぬように見えるが
棲む動物も住む人も少し変わったようだ 五千年後には生き残った生きものの子孫や
今とは異なる人間たちが 五千年前のことを想像するのだろうか
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