長者ケ原
- 2023/10/26
- 20:22
またしても訪れた、越後の海。
山の庵から分水嶺を越え、越中から越後の海岸をドライブすると、いつも心に浮かぶのはU2の「No Line On The Horizon」。
「俺の知ってる海のような乙女
彼女は毎日変わってゆく俺のため」
「俺の知ってる心に穴ある乙女
彼女は言った無限大は偉大な出発点ね」
(拙訳)
山の庵に棲んでいるとはいえ、野人が生まれ育ったのは東京湾岸の海辺の町。トンネルだらけの山道を車で走るのは疲れるが、広大な海を見ながらドライブするのは爽快だ。
石ころだらけの海岸から、水平線に浮かぶ船を望む。
浜辺にはイソヒヨドリがいる。
打ち寄せる波の音に、心が洗われる。
振り向けば南から見下ろしている、黒姫山。
南東には、朝日の下に焼山が頭を覗かせている。
逆光でよく見えないが、焼山はすでに冠雪している。
浜辺に立っている奴奈川姫(沼河比賣、ヌナカワヒメ)の像。
出雲の大国主神に求婚され、正妻の須勢理毘賣(スセリビメ、須佐之男命の娘)が嫉妬したという高志(こし、越)の女性だ(「古事記」)。姫川~越後越中国境のこの地域でしか採れぬヒスイ製の、ネックレス。出雲の命主社(いのちのぬしのやしろ)の裏の大石の下から江戸時代に出土したヒスイの勾玉は、大国主神が奴奈川姫から贈られたのを、須勢理毘賣に見つからぬように隠しておいたのかもしれない。
姫川を渡って向かうのは、縄文時代中期初頭から後期前葉、紀元前三十六世紀頃から約千数百年続いた大集落の跡、長者ケ原遺跡。
環状の集落の外側斜面は土器捨て場だったようで、土器だけでなく土偶や磨性石斧、ヒスイ製の敲石(たたきいし)なども捨てられていた(「斧と玉作りの長者ケ原むら」)。集落東側の土器捨て場からは土偶の豊満な胴体が出土し、集落西側の土器捨て場からは、石皿の上に頭を東にして仰向けに埋納された、大型の河童形土偶が出土した。
(集落東側の土器捨て場、2023/10/24)
(写真はレプリカ)
この、頭が漏斗状に大きく開き、乳首の見えるシースルーの服を着たかのようなスレンダーな土偶は、まるでフランスの新進気鋭のデザイナー、ヴィクトール・ヴァインサント(Victor Weinsanto)のエキセントリックなウエディングドレスのよう。大国主神に嫁いだ奴奈川姫も、きっとこんな花嫁衣裳を着ていたことだろう。
縄文人にとって捨て場とは、大量生産・大量消費の二十一世紀の我々が考えているようなゴミ捨て場ではなかったようだ。捨て場と呼ぶより、物のお墓とでも呼んだ方がよさそう。江坂輝彌(えさかてるや)氏は「日本の土偶」で、この土偶が置かれた石の下に乳児の骨を埋納するような墓壙が存在した可能性を指摘している。
このような土器捨て場は、中世の加賀にも存在していた。白山加賀馬場・白山本宮(白山比咩神社(しらやまひめじんじゃ))は文明十二年(1480)の大火で現在地に遷ったが、それ以前の手取川沿いの旧境内地の南側から、大量のかわらけ(祭祀や祭で使った小皿)が出土した。
(2023/10/23参拝時)
此処も、かわらけのお墓だったのだろう。ある人がその物を如何に大切に扱っていたかは、その捨て方を見れば分かるのかもしれない。
東の土器捨て場に近い竪穴住居の周囲には、オニグルミの実がたくさん落ちている。
遺跡の捨て場や建物内の炉跡からは、炭化したオニグルミや山栗、トチノキ、コナラの殻や粒が出土しており、彼らにとって大切な食べ物であった。野人の山の庵のオニグルミは、今年は不作だ。今年は東北でも北陸でも熊が人里まで降りてきて、毎日のようにケガ人が出ている。縄文人たちも不作や不猟、不漁の時には遠くまで狩猟採集に出かけ、他の集落と縄張り争いになることもあったろうか?熊が山から降りてくるのは、かえって彼らにとっては好都合であったかもしれぬが。
東の土器捨て場の外の林にいた、クロツグミ。
縄文人たちは鳥も捕ったろうか。長者ケ原遺跡からは鹿、イノシシ、サケ、タイ、サメなどの骨、さらにアシカやイルカの骨も出土しているが、鳥は食べなかったのだろうか?石錘(せきすい、漁に使う網の錘(おもり))はたくさん出土しており、秋にはサケやマスを獲っていただろう。サメやアシカは、浅瀬に追い込んで獣のように狩ったのだろうか。
河童形土偶が東向きに寝かされ埋納された捨て場の、すぐ東にある竪穴建物内の入口(東側)には、子供用の棺と思われる深鉢が埋められていた。建物内の奥(西側)には木柱を立てた祭壇もあったらしい。そしてこの建物の廃絶後、立柱は抜かれて建物全体が焼かれ、立柱の跡にコップ型の異形土器、その側にはイノシシの上頭骨が置かれていたという(「斧と玉作りの長者ケ原むら」)。アイヌ人の家送りの習俗と同様、彼らは神聖な建物を焼いてあの世へと送ったようだ。
竪穴住居の中に入ると、なぜこんなにも心が落ち着くのだろう?縄文時代前期は今よりもはるかに暑く、中期も温暖化が騒がれるこの二十一世紀と変わらぬ暑さだった。竪穴住居の中は、真夏でもひんやりと涼しい。半地下式で天井が高く、外から見た感じよりも中は広々としている。野人はいつか、縄文式の竪穴住居で寝泊まりしたいものだと夢見る。
長者ケ原遺跡の集落からは、ヒスイの大珠(たいしゅ)の他、大量のヒスイ製垂玉の未製品・欠損品が出土しており、海岸や姫川で採集したヒスイを整形し、穴を開けて大珠などを作っていたようだ。美しく、極めて堅いヒスイに、彼らは竹と砂を使って穴を開けていたらしい。そこまでして貫通した穴は、この世からあの世への、見える世界から見えない世界への出入口だったのかもしれない。
長者ケ原遺跡からは、他にも河童形土偶の頭などが出土している。また、信濃川中~上流域を中心に作られた火炎土器も出土している。縄文時代中期中葉、約五千年前に越後で作られた火炎土器、越後や越中で作られた河童形土偶そしてヒスイ大珠は、世界に誇れる稀有の文化。越中を経て白山周辺の集落にも影響を及ぼしたろう(越中・八尾の長山遺跡からは、縄文時代中期前葉の河童形土偶がたくさん出土している)。
(越中魚津・大光寺遺跡出土の火炎土器)
(越中砺波・徳万頼成遺跡出土の河童形土偶)
(越中五箇山・東中江遺跡出土の大珠)
仏教徒が「草木国土悉皆成仏」と高尚なことを説くはるか以前から、それを自然に実践していた縄文人たち。老子は「小国寡民」の理想郷を説く中で
「住民に文字でなく縄目使わせる、太古のように。」(第八十章、拙訳)
と述べているが、文字のなかった縄文人たちにとって、縄文土器の紋様は単なる飾りではなかっただろう。だが、縄文人たちは隣国と行き来しようとも思わぬような人たちでは、けっしてなかった。
縄文人が残したエキセントリックかつエコロジカルな文化は、細分化された宗教宗派に何ら救いを見出だせない二十一世紀のこの野人の心を刺激してやまない。立派に作られ祀られた見事な仏像神像よりも、埋納され送られた(捨てられた)縄文の土偶、大地の女神こそ野人の心に語りかけてくる。人間離れしたエキセントリックな姿のあなたに、大地の母でありフォッサマグナの女神であるあなたに、野人は恋をしているのかもしれない。
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