平泉寺~三室山~比島観音放浪
- 2023/10/15
- 02:52
令和五年(2023)十月十二日 越前の勝山を放浪
朝七時半に歩き始めた白山越前馬場 平泉寺(へいせんじ)の石畳の参道
延々と続く苔むす石畳 平泉寺の僧らが運んだという九頭竜川から
やがて霊応山平泉寺に参拝 明治の神仏分離で中宮平泉寺は
白山神社となり明治五年(1872)に 廃寺にされたが明治三十九年(1906)再興された此処に
歴史探訪館の前を通って泰澄大師廟へ 掌を合わす白山を開かれた泰澄大師に
精進坂を上り左手の顕海寺に参詣 天正二年(1574)平泉寺は一向一揆との戦いに
破れて全山焼失したが 天正十一年(1583)に再興された顕海僧正により
その後僧正はこの寺を建て隠居した ご本尊の阿弥陀さまは藤原秀衡の寄進と伝わる
一の鳥居をくぐって参道進み 左手の御手洗池(みたらしのいけ)へと降りる
この池こそは白山妙理大権現が 泰澄大師に垂迹和光の霊質を示しつつ
応迹の本縁を宣(の)べたもうた処 南無白山妙理大権現王子眷属
「泰澄和尚伝記」によれば 越前の越知山(おちさん)で修行していた越大徳(こしのだいとこ、後の泰澄大師)は
夢に現われた貴女に導かれ 養老元年(717)この池に来た
そして日夜大声で礼拝念誦していると かの貴女が現われてこう告げたという
「我レ天嶺ニアリト雖(いえど)モ恒ニ此ノ林中ニ遊ブ 此処ヲ以テ中居ト為シ上ハ上皇ヲ護リ下ハ下民ヲ撫(な)ヅ」
「吾ガ身ハ乃(すなわ)チ伊弉諾尊(イザナギノミコト)是也今ハ妙理大菩薩ト号ス」「吾ハ乃チ日域男女ノ元神也天照大神ハ吾レ伊弉諾尊ノ子也」
「抑(そもそも)吾ガ本地ノ真身ハ天嶺ニ在リ往キテ礼スベシ」(「泰澄和尚伝記」、原漢文) 貴女が男神・伊弉諾尊と名乗っていることの不思議
伊弉諾尊はすでに景行天皇十二年(四世紀中葉)吉備武彦命(きびのたけひこのみこと)が 白山南麓・越前美濃境の石徹白に祀っている
「皇御祖(すめみおや)伊邪那岐命たけひこに語詔たまはく 吾が皇御孫(すめみま)にまつろはぬこころあしき賊四方にをこる
吾今此舟岡へあまくだりて皇御孫を守護す いまし吾を長くまつるべし」(「石徹白伝記」、原万葉仮名)
(「日本書紀」によれば、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)東征の副将・吉備武彦命が別遣隊を率いて越(こし)に遠征したのは、景行天皇四十二年頃。武彦命はその三十年前の若かりし日、美濃から石徹白に進軍し、越侵攻の成功を祈って皇御祖(すめみおや)・伊弉諾尊を祀ったのであろう。)
また白山北麓の加賀・舟岡山には 白山比咩神(しらやまひめのかみ)が祀られた崇神天皇七年(四世紀初頭)に
「日本書紀」によるとこの年は疫病退散のため 三輪の大物主神(大国主神の幸魂奇魂(さきみたまくしみたま))が祀られ別に八十万の群神が祀られた年
(この年は四道将軍出兵の三年前であり、疫病だけでなく戦勝祈願のためでもあったろう。この崇神天皇七年には加賀の白山比咩神社の他、大和の石上神宮、宇太水分神社、倭恩智神社、岐多志多神社、摂津の新屋坐天照御魂神社、楯原神社、近江の日吉大社、尾張の尾張大国霊神社、武蔵の御嶽神社、周防の仁壁神社、越前の大虫神社なども創祀されている。)
泰澄大師の夢に現われた貴女は白山比咩神で 貴女に伊弉諾尊が憑依したのだろう巫女のように
泰澄大師は約四百年前から白山の南北麓に あった皇御祖・伊弉諾尊と比咩神の信仰を
融合しさらに神と仏を習合して 大成したのだ白山三所権現の本地垂迹を
御手洗池から東に進み拝殿を望む 左手にかつては大講堂(中堂)があり薬師如来が祀られていた(「和漢三才図会」)
拝殿の後ろの三所権現に参拝 白山妙理大権現は伊弉諾尊・伊弉冊尊(イザナミノミコト)で十一面観音さま
南の別山大行事権現は天忍穂耳尊(アメノオシホミミノミコト)で聖観音菩薩 北の越南知権現は大己貴命(オホナムチノミコト、大国主神)で阿弥陀仏
山頂から南は伊弉諾尊~天照大御神~天忍穂耳尊と続く顕世(うつしよ)の神々の系譜 北側は伊弉冊尊~素戔嗚尊(スサノヲノミコト)~大国主神と続く幽世(かくりよ)の神々の系譜
白山三所権現とは陰陽・幽顕・夢と現実の 見えない世界と見える世界の対立と融和の象徴
三所権現を拝み向かって右から三之宮へ上る 其処から奥は古の白山本道即ち白山越前禅定道
長大な尾根をゆく加賀禅定道・美濃禅定道と異なり 古の越前禅定道は山越え谷越えの難コースだ
今日は三之宮で引き返し 南谷の坊院跡へと足を進めた
まだ咲いているツリフネソウ 発掘された往時の石畳や石垣
約四百五十年前の一向一揆の焼き討ちを 生き延びたという大きな杉
天正元年(1573)織田信長が北近江に出兵すると 浅井長政救援のため越前の朝倉義景は
北近江へと出馬し丁野山の砦を 平泉寺の玉泉坊に守らせた
だが織田方に内通する者がいたために 玉泉坊らは退去し砦は落ちた
撤退する朝倉軍を信長は一気に攻め 義景は大敗を喫して本拠地・一乗谷から
平泉寺を頼り逃げていった しかし長年朝倉氏に従ってきた平泉寺は
義景の同族・朝倉景鏡(かげあきら)と共に信長方に付き 義景は山田庄六坊(現・大野市)で自刃した(太田牛一「信長公記」)
(一乗谷、2013/9/29)
天台宗平泉寺と本願寺はそれまで信長を共通の敵としていた だが本願寺の顕如上人は越前一向一揆の蜂起を指令
翌天正二年(1574)四月に一揆勢は城を築いた 平泉寺の北西にある村岡山に
平泉寺の大衆が村岡山へ出撃すると 一揆勢は手薄になった平泉寺に放火
景鏡は乱戦の末に自害し 平泉寺院主明王院阿闍梨も炎に身を投じた(辻川達雄「織田信長と越前一向一揆」)
越前の戦国大名朝倉氏の命運を 平泉寺の動向が左右した
だが平泉寺はすでにその四百年前から 戦況を大きく左右してきた
治承五年(1180)平泉寺長吏斉明威儀師は 越中の石黒党や加賀の富樫氏らと共に
起請文を書いて従った 信濃から越後に進軍してきた源義仲(木曽義仲)に
だが寿永二年(1183)越前の燧城(ひうちじょう)で 斉明が平家軍に内通し義仲の
軍は越前~加賀~越中まで後退 義仲は白山加賀馬場白山本宮と
白山越前馬場平泉寺・白山美濃馬場長瀧寺(ちょうりゅうじ)の 白山三馬場に願書を奉り
白山妙理大権現に戦勝を祈願した 義仲は倶利伽羅峠で平家軍を撃破し
(越中・埴生護国八幡宮の木曽義仲像、2023/10/4)
斉明は加賀で捕らわれ六条河原で首をはねられた(「源平盛衰記」) 源氏にとっても平家にとっても大事であったのだ
白山権現のご加護を如何に得られるかが さらに建武五年(1338)南朝方の新田義貞が
北朝方の斯波高経と越前・藤島で戦った際 平泉寺の荘園であった藤島庄の年貢を本山の比叡山が横取りしていたため
藤島庄の領有を平泉寺に認めることを条件に 平泉寺衆徒は義貞方から寝返った高経方へ
そして藤島城に立て籠り奮戦した 義貞は戦死した藤島城に向かう途中(「太平記」)
(称念寺の新田義貞公墓所、2019/2/13)
平泉寺衆徒にとってどちらに付くかは 白山権現の神慮次第だったのだろう
そもそも崇神天皇七年(四世紀初頭)白山北麓に白山比咩神が祀られたのは 三年後に始まる大彦命(おおびこのみこと)の北陸遠征と関係していたはずだ
景行天皇十二年(四世紀中葉)白山南麓の石徹白に吉備武彦命が 伊弉諾尊を祀ったのも皇御孫(すめみま)を悪しき賊から守護するためだった
中世には多くの人々が白山権現に戦勝を祈願した それらを取り次ぐのが僧侶や神官の役目だった
平泉寺の動向は優柔不断にも見えるが 白山権現の思し召しこそが第一であったろう彼らには
南谷から西へ下ってゆくと 美しいツマグロヒョウモンが舞っていた
菩提林へ戻り石畳を西へ降下 菩提林の杉は伏条更新するアシウスギ
北に大師山見つつ西へと行道 九時すぎ丘の上の白山稚児神社に参拝した
泰澄大師開創と伝わる社 白山六所王子の兒宮王子(ちごのみやのおうじ、本地は釈尊の誕生仏)が祀られていたか
境内社の日御前(ひのごぜん)社も泰澄大師の開創 淀川(じょうがわ)沿いに西へ下ってゆけば
泰澄大師の母君の御廟の前にアオサギ 大師の母君はこの「伊野原」の出身だ(「泰澄和尚伝記」)
大師の母君は越前禅定道でも美濃禅定道でも 女人禁制の結界を越えて入山したと伝わる
飛騨の御母衣(みぼろ)に泰澄大師が忘れた衣を山越え取りにきたとも アクティブな女性だったようである
九時半すぎ九頭竜川を渡る 対岸上流側に望む三室山(みむろやま)
橋を渡って振り向けば 平泉寺の奥に経ヶ岳と法恩寺山
遅羽町の縄文遺跡等資料室を見学し 三室山西麓の三室遺跡へ
縄文時代中期後半~後期前葉の竪穴住居跡 縄文時代後期初頭~前葉の配石遺構
石錘(せきすい、漁に使う網用のおもり)も出土しており 秋にはサケやマスを獲っていたろう
裏の三室山へと登ってみれば 東に平泉寺~三頭山~法恩寺山と続く白山越前禅定道
天正二年(1574)の平泉寺炎上のとき 一向一揆勢はこの山上にも砦を築いたという
此処からは大師山を挟んで 平泉寺と村岡山が一望できる
大師山の北西麓には見えている 三室遺跡と同時代の三谷(みつや)遺跡が
縄文時代中期前半~中葉(紀元前三千四百~二千九百年)頃に 発生した白山頂部の山体崩壊よりは後の時代だが
紀元前二千七百~二千四百年頃にも白山は噴火しており(日本活火山総覧(第4版)) 立ち昇る噴煙は此処からも見えたろう
三谷遺跡との関係はどうだったのか? 物々交換・縄張り交渉あるいは縁談などもあったろう
三室から九頭竜川左岸を北へと歩く マンホールの蓋には恐竜の足跡
十一時半前に勝山駅前に着き 登っていったバンビラインの急峻な山道を
二十分ほどで展望台に着き白山方面望む 法恩寺山の左奥に大長山は見えるも白山は雲の中
かつて勝山城があった市役所の奥に三谷遺跡 白山稚児神社の側の巨大な勝山城は模擬天守だ
小鹿山越え縦走すれば樹間に見える 恐竜博物館の銀色のドームが北東に
十二時十五分頃に比島観音(ひしまかんのん)参詣 泰澄大師が自作の観音像を祀った此処は平泉寺の四至の北西
お堂の正面に望む経ヶ岳・法恩寺山・大長山 晴れていれば白山も遥拝できるという
麓に下って白山神社に参拝 南無白山妙理大権現王子眷属
比島駅から九頭竜川左岸に出ると 踏切の音がしてえちぜん鉄道がやって来た
川岸に降り大師山や荒島岳を望みつつ 上流へと歩を進めていった
勝山橋より下流側に村岡山と恐竜博物館望み 大日山の山並を遥拝
橋を渡ると現われたフクイラプトル 勝山にいた恐竜だ一億二千万年前に
(フクイラプトルの骨格、岡山シティミュージアム「ティラノサウルス展」にて、2023/9/2)
勝山橋から東へ続く通りの歩道は 歩行者は少ないが恐竜が歩けるほど広い
市役所前の通りは工事中 東へ足を進めれば恐竜マンホールが足元に
国道に出て北へと曲がり 十三時半に勝山市体育館ジオアリーナに着いた
縄文時代中期中葉~後期の集落跡 三谷遺跡(みつやいせき)が発掘された処だ
三谷遺跡からは輪鼓状の耳飾や 岩版や土偶が出土しており
(縄文遺跡等資料室、2023/10/12)
板状の土偶は紀元前二千九百年頃のものらしい 東側に大師山を見上ぐ三谷遺跡より
泰澄大師が当地から白山を開いて 山上に白山権現を祀るより約三千六百年前に
三谷の縄文人らが祀っていた女神 彼らは仏教徒のように尊像を常設せずに
祭祀の後は廃棄するか埋納していたらしい 身体健康・諸願成就・子孫繁栄・長寿・死後の安楽
人間の願うことには太古も今もさして変わりがない 市役所前のコンビニで買ったます寿司かじりつつ南へ行道
三室や三谷の縄文人らもマスを食べていたろう 昭和六十二年(1987)に建立された巨大な越前大仏の前通り
正面(南)に望む白山稚児神社と巨大な模擬城と菩提林 歩いてきた小鹿山そして三室山を遥拝した西側に
仏殿や城や歩道の巨大さに
心広まる恐竜のごと
白山の本道たりし勝山に
五千年前からいた女神
奈良時代古墳・弥生のさらに前
縄文人の祈りよ永久(とわ)に
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