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白水滝より白山登拝2~縄文大崩壊

(承前)
(そしてその崩壊地の中に紀元前二百年頃 マグマ噴火で剣ヶ峰溶岩ドームができたのだ
北風の中十一時半すぎに剣ヶ峰登頂 木の標柱には氷の旗ができていた)

紀元前三十四~三十世紀頃 白山の山頂部が東へ大崩壊した
当時の白山は今より標高の高い 成層火山だったが崩壊した山体に残された
馬蹄形の凹地の最高所が 現在の山頂御前峰
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崩壊物は岩屑(がんさい)なだれとなり大白川を 下って達した庄川との出合まで(「新編白川村史 上巻」)
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(2023/9/15)
岩屑なだれの堆積物量は一・三億㎥(「日本活火山総覧(第4版)」) 当時は縄文時代中期の前葉~中葉だった
庄川沿いで暮らしていた縄文人たちの生活に 多大な影響を及ぼしたはずだ
飛騨・白川村に縄文時代中期からあった遺跡には 御母衣(みぼろ)の上洞遺跡や木谷(きだに)遺跡や
萩町(おぎまち)の上町上遺跡・鳩谷(はとがや)の寺尾遺跡などあり ヒスイ勾玉も出土している弥生時代まで続いた木谷遺跡から
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(2023/9/15)
これらの遺跡は河岸段丘上にあるが 当時の岩屑なだれの厚さは最大百五十m(「火山防災対策を検討するための白山の噴火シナリオ」令和4年3月29日版)
河道を塞がれた大白川と庄川に巨大な天然ダムができ 大白川と庄川に挟まれた高台の上洞遺跡などは浸水したかもしれぬ
そして天然ダムの決壊により大きな 洪水・土砂氾濫が起きたろう庄川下流域に
白川村では天正十三年(1585)十一月末の 大地震で帰雲山が大崩壊し 
庄川対岸の帰雲城(かえりくもじょう)を埋め 白川郷を治めていた内ヶ島氏を滅ぼした
庄川にできた天然ダムは二十日後に決壊 下流域は大洪水にはならなかったが流路が変わった(井上公夫「歴史的大規模土砂災害地点を歩く」)
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(帰雲城埋没地、2023/9/9)
寛政四年(1792)一月に肥前・島原の 雲仙岳が噴火した後四月の大地震による
眉山(まゆやま)の大崩壊で対岸の熊本は大津波に襲われた その崩壊土砂量は二・二五億㎥(井上公夫「歴史的大規模土砂災害地点を歩く」)
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(眉山、2015/7/15)
安政五年(1858)二月二十六日の飛越地震で 大崩壊した立山連峰・大鳶山と小鳶山の崩壊土砂量は
砂防フロンティア整備推進機構の井上公夫氏の試算では一・一~一・三億㎥ (「歴史的大規模土砂災害地点を歩く」) 常願寺川支流の湯川と真川(まがわ)にできた巨大な天然ダムが
三月十日と四月二十六日に決壊し 下流の常願寺川扇状地は土砂・洪水の大氾濫に襲われた
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(立山大橋より常願寺川上流を望む、2023/9/28)
同規模の縄文時代中期前半の白山大崩壊も 庄川下流の扇状地に大きな洪水・土砂氾濫をもたらしたはずだ

飛騨・白川郷の下流の越中・五箇山にも 下梨こもむら遺跡や東中江遺跡など
縄文時代中期からの遺跡があり 両遺跡からは出土しているヒスイ大珠(たいしゅ)も
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(2023/9/15)
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白川~五箇山と山間を削りつつ流れる庄川は やがて扇状地に出て砺波平野を流れゆく
庄川扇状地の扇頂の台地上に 縄文時代中期の集落・松原遺跡がある
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(2023/9/15)
竪穴建物から出土した炭化材の放射年代測定によれば 紀元前三十一~三十世紀頃の住居らしい
紀元前三十四~三十世紀頃の 白山大崩壊の影響は如何ばかり?
「松原遺跡発掘調査報告」(2012年)によれば この遺跡からは昭和四十九年(1974)に石錘(せきすい)が大量に出土しており
川での漁撈を生活基盤としていたらしい 石錘は魚を獲る網用の錘(おもり)
秋には網でサケやマスを獲っていたろう 花粉分析の結果周辺に二次林や河畔林があったようだ
だがこの遺跡は縄文時代中期の中葉のみ 竪穴建物南方の大きな礫を伴う土坑から
出土した炭化材(オニグルミ)は紀元前二十九~二十八世紀頃のもの その後なぜ集落が捨てられたのかは分かっていない
野人が思うに当時の白山大崩壊で できた庄川上流の天然ダムの決壊により
松原遺跡から下流の扇状地は大洪水となった そして大量の土砂により庄川本流の流れが変わった
環境の変化により彼らは移住したのではないか? 今の庄川は扇状地の東端を北流しているが
奈良時代には扇状地西端の旧野尻川を流れ 小矢部川に合流していたらしい(「新藤正夫「砺波散村の変貌と地理学者」)
その後洪水の度に宮川~中村川~ 新又川~千保川と主流が東に遷りゆき
天正十三年(1585)の大地震による洪水で 千保川と中田川(庄川)が主流となった
そして寛永七年(1630)の洪水で今の 庄川に主流が遷ったのだった
寛文十年(1670)~正徳四年(1714)の加賀藩の治水工事で 現在の流路に固定されるまで
庄川本流は扇状地の西端から東端へと 遷ったのだおよそ千年かけて

奈良時代よりも前の庄川も本流を 東から西へまた西から東へ遷していたろう
そして約五千年前の白山大崩壊前 本流は西端つまり松原遺跡のすぐ北を西側へ流れていたろう
だが白山大崩壊による天然ダム形成と 決壊による洪水・土砂氾濫によって
庄川本流は東へと遷ってゆき その後も東遷していった千年かけて
集落から一km弱の東遷とはいえ 漁撈を生活基盤としていた彼らには不便となったろう
また丸木舟による流通経路やサケ・マスの遡上も 本流の遷移の影響を蒙ったろう
松原遺跡は竪穴住居が二十棟見つかった大集落 環境の変化により移転を余儀なくされたのか?
(集落は少なくとも二~三百年は使われていたようであり、未発掘や消滅した建物跡を含めても、同時期に建っていた住居は三~五棟ほどか)
松原遺跡から庄川扇状地西端を 西~北西に流れていたろうかつての主流は
小矢部川に合流して北へと流れる その小矢部川に子撫川(こなでがわ)が合流する辺りに
縄文時代早期~晩期にわたる桜町遺跡がある 中出地区と舟岡地区から縄文時代中期~後期初頭の石錘が多く出土し(「桜町遺跡発掘調査報告書 縄文土器・石器編 Ⅰ」2006)
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舟岡地区からはサケやマスの歯と骨が多数出土している(「桜町遺跡発掘調査報告書 総括編」2007) 舟岡地区は縄文時代中期中葉頃に起きた
土石流堆積物の上に築かれた遺構(「桜町遺跡発掘調査報告書 木製品・繊維製品・植物編」2007) 貯蔵穴や水さらし場や煮炊き場や高床建物等の遺構だ
白山崩壊を引き起こしたのが大地震だったなら あるいは同じ頃発生した土石流なのかもしれぬ
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(桜町遺跡舟岡地区、2023/9/15)
庄川扇状地扇頂から現在の庄川を下ると 右岸に徳万頼成遺跡(とくまんらんじょういせき)がある
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(2023/9/15)
焼失した竪穴住居から出土した炭化材(クリ)の 年代は紀元前三十四~三十世紀頃(「徳万頼成遺跡発掘調査報告」2016)
白山頂部が東に大崩壊したのとほぼ同じ頃だ この焼失住居の跡に建った住居の廃絶後
凹みは土器捨て場として利用された そこから土偶が出土した河童形の
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手は残らぬが頭と胴はよく残っている 縄文人の捨て場とは「もの」に宿る魂をあの世へと
送る「もの送り」の場だったとも言われるアイヌ人の如く 此処はこの時代には珍しい扇状地性低地の集落
五千年前捨て場から送られたあなたは 白山大崩壊が引き起こした洪水を覚えておいでです?

「徳万頼成遺跡発掘調査報告」(2016)によると 此処は極めて短期間につくられ
廃棄されたら集落らしい 洪水などの天災でなく人為的な理由で 
遺跡からは小さな石錘が一つ 打製石斧は四つ出土した
竪穴住居の埋土から得られた炭化種子は オニグルミ・クリ・コナラ・マメ類と同定された
マメ類は栽培されていたらしい 徳万頼成遺跡から庄川はさみ
ニ㎞西には久泉(ひさいずみ)遺跡がある 此処も同じく扇状地の自然堤防上の微高地
時代は徳万頼成遺跡のすぐ後 縄文時代中期中葉~後葉
住居跡は見つからなかったが 多量の打製石斧が出土している(「久泉遺跡発掘調査報告 Ⅰ」2004)
打製石斧は土を掘る道具 あるいはマメ類が栽培されていたのでは?
徳万頼成遺跡の人々は白山大崩壊時の 洪水・土砂氾濫からは生き残ったようだが
庄川上流部から日本海まで 濁流に流された人もいただろう
土砂に埋まった集落や 飢えや感染症で亡くなる人らもあったろう
周辺の低地は一面の濁流となったろう 被災しなかったのは当時の本流から離れていたからか?
だがその後の庄川本流の遷移は低地に暮らす 彼らの生活にも影響を及ぼしたはずだ
水が引くと本流が変わっており 松原遺跡など漁撈を生活基盤とする集落は打撃を受けたろう
漁場や水運の利権をめぐって 集落間に争いが生じたかもしれぬ
徳万頼成の住み慣れた集落を離れる前 彼らは土偶にあなたを迎え入れ
祀って祈りあなたをお送りした あなたの脱け殻は凹みに廃棄して
もしかしたら彼らは久泉遺跡の 近くに移転したのかもしれない
五千年以上前から人々はたくましく 生死してきたのだ白山と共に

剣ヶ峰より翠ヶ池~大汝峰へと縦走 ナイフブリッジの稜線は危なく山腹を慎重にトラバース
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霧が濃く視界が得られない 一瞬尾根の左下にぼんやり紺屋ヶ池が現われる
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右下には翠ヶ池があるはずだが 全く見えず霧が薄れるまで待つ
正午頃ようやく池が見えてきた 池の東岸へと降りてゆく
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「白山之記」によれば翠ヶ池は 長久三年(1042)に噴火した火口
泰澄大師が白山を開いた奈良時代八世紀には この池はまだ存在しなかったろう
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翠ヶ池と紺屋ヶ池の間にも火口はあり 長久三年以前には別の池があったのかもしれない
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霧の中から時折お姿現わす 大汝峰を見上ぐ北西に
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池畔に座して唱える観音経 南無白山妙理大権現王子眷属
翠ヶ池から北側へと登り 雲間に一瞬現われた御前峰と剣ヶ峰を振り返る
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縄文時代中期に大崩壊した凹地に 弥生時代中期に溶岩ドームができたのが見てとれる
池から大汝峰へと直登し 十三時に大汝峰の北峰登頂
北風は幾分和らいだが 霧で太陽もほとんど見えない
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霧の中独りのんびり昼休み 三十分ほどして山頂の大汝社に参拝
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西因上人の願文と念仏と神語を唱え 本地・阿弥陀さまと垂迹・大己貴命(オホナムチノミコト、大国主神)を讃えた
古墳時代四世紀に白山麓に祀られた白山比咩神と伊弉諾尊(イザナギノミコト) 奈良時代八世紀に白山に祀られた十一面観音さま
白山三所権現の本地垂迹を大成した泰澄大師 平安時代十二世紀に白山に阿弥陀さまを祀った西因上人
祀る人も祀られる神仏も山の形さえ移ろいゆく ただこの麗しき山をかくあらしめているもののみは永劫不変
かろうじて残った千蛇ヶ池の万年雪を覆う新雪 風に吹き飛ばされたのかクモが這っている雪の上で
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ハクサントリカブトの花や奥三方岳・三方崩山を見つつ下り 御嶽山の白い頭を拝んで十六時半に戻った白水滝(しらみずのたき)へ
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松尾如秋

Author:松尾如秋
自由と孤独を愛するアウトサイダーと、森羅万象を統べているものとの一対一の対話
白山と、白山に育まれているすべてのものへの讃歌
2006~奥美濃の藪山を登り始める
2009~白山三禅定道を毎年登拝
2016~19白山美濃馬場の古の山伏の行場「白山鳩居峯」のうち五宿を毎月巡拝、以後随時巡拝