吉備放浪2 吉備中山
- 2023/09/06
- 21:22
(承前)
正午に首部(こうべ)白山神社を発ち 山沿いに西へと歩いていった
十二時半国道の歩道橋に上り 西に拝んだ吉備中山(きびのなかやま)
山のこちら側は備前国で 山のあちら側は備中国だ
十三時前吉備津彦神社に到着 神池に映る吉備中山(巻頭写真)
亀島の前の石の上で 仲よく日向ぼっこする亀二匹
拝殿に参拝した後 本殿を仰ぐ北東より
本殿の北の手前に楽御崎神社(らくおんざきじんじゃ) 奥には尺御崎神社
祭神の楽々森彦命(ささもりひこのみこと)と夜目山主命(やめやまぬしのみこと)は 共に吉備津彦命の従者だ
さらに北の子安神社の北には 並んでいる七つの末社が
鯉喰神社の祭神は 楽々森彦命の荒魂(あらみたま)
本殿の南側には温羅神社 祀られている温羅(うら)の和魂(にぎみたま)が
吉備津彦命の本名は彦五十狭芹彦命(ひこいさせりびこのみこと) 鬼ノ城(きのじょう)の温羅は吉備の冠者(かじゃ)と呼ばれていた
彦五十狭芹彦命に敗れた温羅は 吉備の冠者の名を献上した
それより彦五十狭芹彦命は 吉備津彦命と名乗るようになった
温羅神社より山道を登ってゆく かなり蒸し暑く登っていない誰も
三年半前(2020/1/21)は吉備津彦神社の 背後に聳える龍王山に登ったけれど
今日は一路目指す中山茶臼山古墳 途中に有木古墳や環状石籬
そして十四時前に到着した 備前備中境の中山茶臼山古墳に
墳長百二十メートルの前方後円墳 吉備津彦命のお墓として宮内庁が管理している
室賀寿男氏の「吉備氏」によれば 異母弟の稚武彦命(わかたけひこのみこと)の墳墓であろうという
「古事記」によると大吉備津日子命(吉備津彦命)と 若日子建吉備津日子命(稚武彦命)は共に
播磨から吉備に侵攻し平定した そして吉備津彦命は備前の上道臣(かみつみちのおみ)の祖となり
稚武彦命は備中の下道臣(しもつみちのおみ)の祖となった 「日本書紀」では崇神天皇十年(四世紀初頭)に
吉備津彦命は四道将軍の一人として 遠征している西道に
また桃太郎伝説のモデルとされる 温羅退治の主人公も吉備津彦命だ
なのに後の吉備氏は皆稚武彦命の子孫 奈良時代八世紀に吉備真備(きびのまきび)を輩出した
下道氏によって系譜が改編されたと みる宝賀寿男氏の説は首肯ける
「吉備氏」によれば吉備津彦命の墳墓は 岡山市の東端の浦間茶臼山古墳であろうという
中山茶臼山古墳の下の八徳寺 備中側の吉備津神社の社僧の寺であった
古代吉備文化センターへと降り 展示室を見学しながら涼んだ
麓へ下りてゆき十五時前 吉備津神社の廻廊に入り北進
吉備津彦命に討たれた温羅の首が 首部(こうべ)から移されたという御釜殿
竈(かまど)の下に埋めても首はうなり続けたが 吉備津彦命の夢に現われた温羅が
御釜殿の神饌(みけ)を温羅の妻 阿曽媛(あそひめ)に炊かせよと告げた
これが釜の音で吉凶を占う 鳴釜神事(なるかましんじ)の起源と伝わる
廻廊をさらに北上し 拝殿にて吉備津彦命らに掌を合わす
吉備津神社の本殿は 比翼入母屋造と言われる大建築だ
北へ下ると矢置岩がある 新山(鬼ノ城)の温羅を征伐に来た
吉備津彦命はこの岩に矢を置いて 新山へと矢を射たという
しかし射た矢はすべて空中で 温羅の放った矢に当たり落ちたという
吉備津神社から西へ足を進め 十五時半に栄西禅師生誕地に参詣
日本に禅を伝えた禅師の生地より 吉備中山を遥拝した東に
栄西禅師は永治元年(1141) 吉備津神社の神官・賀陽(かや)氏の家に生まれた
比叡山等で天台密教を学び 二度渡宋して日本に禅を伝えた
禅師が建仁二年(1202)京都に開いた 建仁寺には楽神廟(らくじんびょう)がある
(2018/3/28参拝時)
禅師の母は吉備津神社の末社 楽の社にお参りして懐妊したという
また禅師が二度目の渡宋で禅を嗣法し 建久二年(1191)帰国の際
平戸を経て筑前・唐泊(からとまり)に停まって 開いた東林寺にも楽神廟があり(「筑前国続風土記拾遺」)
建久六年(1195)に博多に開いた 聖福寺にも楽神廟があった(「安山規」)
現在の吉備津神社に楽の社は見当たらぬが 備前側の吉備津彦神社には楽御崎神社がある
祭神は吉備津彦命の従者・楽々森彦命(ささもりひこのみこと) 鯉に化け逃げた温羅を鵜となって捕えたとも伝わる
現在の吉備津神社本殿の外陣の 巽御崎神の小祠は楽々森彦命を祀る
かつては吉備津神社にも楽の社があったのか 肥前・平戸の安満岳(やすまんだけ)に伝わる「安満嶽縁起」には
栄西禅師は入宋の際に香合の中に 白山妙理大菩薩を勧請し首に懸けていた
そして帰国後聖福寺に白山妙理大菩薩を勧請し 京都・建仁寺と鎌倉・寿福寺には
白山妙理大菩薩を良久大明神(らくだいみょうじん)として勧請したとある 良久大明神とは楽大明神に違いない
(聖福寺、2017/7/17参拝時)
楽大明神が楽々森彦命であるのは 明らかであるが白山とどう繋がるのか?
野人が思うにその接点は 首部(こうべ)の白山神社だったのではないか
吉備津彦命の射た矢は悉く 落ちてしまっていた温羅の放つ矢に当たり
そこで命が二つの矢を同時に放つと 一本の矢が刺さった温羅の目に
温羅が雉に化けて逃げると命は鷹となり 鯉に化けた温羅を鵜となって捕えた
鵜となったのは従者の楽々森彦命とも伝わる そして温羅は首をはねられ首部(こうべ)にさらされた
首部に白山権現が勧請されたのは 平安時代・仁和元年(885)だ
その後三百年経ち栄西禅師の頃には 白山権現と楽々森彦命が習合していたのか?
栄西禅師の生地から南へと行道 消火栓の蓋は桃太郎
吉備中山西麓を南へと歩み 十六時前に到着した吉備津神社の新宮
吉備津新宮社の祭神は吉備武彦命(きびのたけひこのみこと) 午前中は登った彼の墳墓と思しき金蔵山に
昔は吉備津神社の廻廊は此処まで繋がっていたという 「大日本国一宮記」によれば吉備津宮の祭神は吉備津彦命に非ず「吉備武彦命也」
隣には新宮社の別当寺であった真如院が残る 静かな新宮跡に佇み吉備武彦命に掌を合わす
あなたこそは景行天皇十二年(四世紀中葉)白山南麓 石徹白に伊弉諾尊(イザナギノミコト)を祀った白山信仰の源流
(続く)
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