雨飾山~焼山縦走・下
- 2023/08/10
- 23:20
(承前)
焼山と火打山を源流とする早川谷に伝わる 「往古早川谷之絵図」によればその昔
焼山は茶臼山と呼ばれていたという だが康安元年(1361)の噴火のおり
茶臼のような溶岩ドームが崩落し それから焼山と呼ばれるようになった
(この日(2023/8/8)焼山から姫川は見えるも早川は雲でよく見えず)
また同絵図によれば焼山の隣の火打山は 八口山と呼ばれ山中にいた
八口という者を出雲の大穴持命(大国主神)が討った これは「出雲国風土記」の記述に基づく伝承だ
八口(やつくち)とは「古事記」で須佐之男命(スサノヲノミコト)が出雲で 退治した高志(こし)の八頭八尾の八俣大蛇(やまたのをろち)の後裔か
縄文・弥生の昔から越後の西頸城や隣の 越中の宮崎・境はヒスイの産地として知られていた
(2023/8/9)
(現在の越後・越中国境が定められたのは大宝二年(702)。大宝二年に国境鎮護のため祀られた脇子八幡宮、2023/8/9参拝時)
資源を求め出雲の勢力が遠征してもおかしくはない 大和王権も古墳時代前期には
崇神天皇十年(四世紀初頭)に大彦命(おおびこのみこと)が北陸に遠征し(「日本書紀」) 久比岐国と高志深江国に逸早く国造(くにのみやつこ)を設置した(「国造本紀」)
「越後国風土記」の逸文によるとその頃 越の国に八掬脛(やつかはぎ)という強大な敵がいたそうだ
大和王権にまつろわなかった八掬脛は 出雲にまつろわなかった八口(やつくち)を思わせる
彼らは出雲や大和の王権に 従わなかった越の独立勢力だったのだろう
(早川河口より望む焼山、2023/5/30)
大彦命に続き景行天皇四十二年頃(四世紀中葉) 日本武尊(ヤマトタケルノミコト)東征の帰路に吉備武彦命(きびのたけひこのみこと)が
分遣隊を率いて越に遠征した(「日本書紀」) 「越佐史談」(和田悌四郎、明治三十年(1897))によれば武彦命は
この遠征で早川を通っている 古くから出雲や大和の文化も伝わっていたこの地に
早川谷の東に聳える鉾ヶ岳の 祭神は佐多神即ち出雲の佐太大神(さだのおおかみ)
大穴牟遲神(大国主神)を救った𧏛貝比賣(きさがいひめ)の子だ 鉾ヶ岳の名は大国主神の異名・八千矛神(やちほこのかみ)も思わせる
八千矛神は高志の沼河比賣(ぬなかわひめ)を娶る際 駒ヶ岳で地元の神と競馬し勝ったという(「西頸城郡誌」)
(早川の越橋より望む鉾ヶ岳、2023/5/30)
焼山のザレ場を西へ下りつつ これから歩いてゆく尾根を一望
金山(かなやま)を越えて下り雨飾山の 尾根に出て鋸岳との鞍部から向こうへ降る
この長い道のりを急ぐ野人めを アオジの雌が見送っていた
山道彩るミョウコウトリカブト カライトソウやニッコウキスゲ
ハクサンフウロにコオニユリ 焼山も火打山も頭に雲を被った
十五時に金山に戻り 雨飾山を見おろしつつ降っていった
駈けるように颯爽と急降下 するもあまりに長い坂に
へとへとになってペースダウン どれだけかかるのだろうこの先
とにかく足を進めるしかない 道はやがて登り坂となり
十七時すぎに雨飾山北尾根に出て 下っていった雨飾山を背に
足元に咲くタカネナデシコ 駒ヶ岳の裾越しに夕日に輝く根知川
鋸岳との鞍部への下りは急峻な斜面 梯子(はしご)とロープの連続だ
絶壁を横這いして梯子を乗り換え 降りると見事な柱状節理の岩壁
十八時半前にようやく鞍部に着き 降りていった西側に
沢の清水で汗流し喉を潤し 暗い山道をゆくヘッドランプ点けて
黒姫山と能登の彼方に沈む夕日 道はあまり歩きやすくはないが一ヶ月前
駒ヶ岳~鬼ヶ面山~鋸岳縦走の際に 歩いた道なので暗くなっても分かる
十九時半雨飾山荘前に無事に降り 北に黒々とした鬼ヶ面山を見上げた
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