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野いちご

 令和五年(2023)も、もう八月だ。下界の暑さを逃れて山の庵に籠る。標高一千メートルの此処は、真夏でも一日中二十℃台だ。庵の下には、草の間にバライチゴの実が宝玉のように煌めいている。赤い実に乗っているヒスイのようなものは、カメムシの幼虫か。
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 翌朝、バライチゴの実を摘んでパンにはさみ、いただいた。スイーツ的な甘さはないが、ほのかな甘味と酸味の素朴な味わい。この二十一世紀の野人同様、紀元前二十一世紀の縄文人たちも野いちごを味わっていたことだろう。
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 今日は雲が多くて白山は見えないが、まずまずの天気。昼から車で峠越え、ぶらりと飛騨へ。六厩(むまい、むまや)から松ノ木峠を越えて小鳥川(おどりがわ)沿いに下ってゆくと、上小鳥に縄文時代の遺跡がある。門端(かどはし)縄文遺跡だ。
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 縄文時代中期後葉(紀元前二十七~二十六世紀頃)の集落跡で、関西、八ヶ岳、東海、関東、北陸の諸型式の土器が出土したという。また、ヒスイの磨製石斧(ませいせきふ、玉斧)も出土している。これはおそらく、祭祀に使われたのであろう。
 縄文時代前期末(紀元前三十六世紀頃)から、縄文人は越後・越中境の海岸や川で採集した硬いヒスイに穴を開ける技を世界で初めて身につけ、大珠(たいしゅ)を作り始めた。まだ金属器のなかった当時、彼らは竹と石の粉を使って硬玉に穴を開けていたらしい。
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(長者ケ原遺跡、2023/5/30)
 飛騨・門端遺跡の縄文人たちは、ヒスイ製品をどのようにして手に入れたのだろう?各地の型式の土器があるからといって、車も電車もドローンもなかった紀元前二十七~二十六世紀、彼らが全国を自由に旅して爆買いしていたはずはなかろう(丸木舟はあったが)。土器もヒスイ製品も、まずは中近距離間の物々交換ルートに乗って徐々に広まっていったのではないか。
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(寺地遺跡、2023/5/30)
 縄文時代中期中葉までは越後西部の長者ケ原遺跡や寺地遺跡、越中東端の境A遺跡など、ヒスイ産地周辺で加工されていた大珠だが、やがて技術が伝播し、産地から離れた処でもヒスイ原石や未成品に加工できるようになっていった。門端遺跡とほぼ同時代、越中の呉羽丘陵北麓・北代遺跡(きただいいせき)でもヒスイ製大珠が作られていたらしい。門端遺跡から小鳥川を下ってゆけば、宮川を経て神通川左岸の北代遺跡に至る。
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(北代遺跡、2023/7/22)
 限られたヒスイ産地からいくつかの村を介して大珠や玉斧を得ようとすれば、その代価は当然高くつく。だが、もっと近くで大珠や玉斧が作られるようになれば、現実的に入手しやすくなろう。門端遺跡の南西、美濃・越前境の前谷(まえだに)や石徹白(いとしろ)からも、この頃のものと思われるヒスイ製石斧(玉斧)や垂飾(すいしょく)が出土している。飛騨経由で入手したものか。
 二十一世紀、地球はどんどん暑くなっているが、縄文時代前期・紀元前四十六~三十六世紀頃は気温も海水面ももっと高かったらしい。その後気温は下がっていったが、門端遺跡の頃はまだ今より温暖であったようだ。竪穴住居の中はひんやりして涼しい。氷河期後の温暖化に適応しつつ発展していった、縄文人たち。彼らの遺伝子は、二十一世紀の我々日本人に何割かは受け継がれているのだ。
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 地球温暖化を誰かのせいにして、不快なパフォーマンスをこととする環境活動家なんぞよりも、温暖化を乗り越えた縄文人に学ぶ方がはるかに有益だ。オール電化のエレクトリック住宅でエコライフするより、野人は竪穴住居で野いちごをかじりながら勾玉でも作っていたい。これからの時代は、新縄文時代になるのかもしれない。
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松尾如秋

Author:松尾如秋
自由と孤独を愛するアウトサイダーと、森羅万象を統べているものとの一対一の対話
白山と、白山に育まれているすべてのものへの讃歌
2006~奥美濃の藪山を登り始める
2009~白山三禅定道を毎年登拝
2016~19白山美濃馬場の古の山伏の行場「白山鳩居峯」のうち五宿を毎月巡拝、以後随時巡拝