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翠ヶ池・千蛇ヶ池・御厨池

 「泰澄和尚伝記」によれば、養老元年(717)泰澄和尚36歳の時、女神のお告げに従って白山の天嶺禅定に登り、「緑碧池」の側で一心不乱に加持念誦していると、池の中から九頭竜王が現れました。和尚が「これは方便の示現で、本地の真身ではない」と見破り、さらに行じていると、十一面観音菩薩の玉体が忽然と現われたのでした。越前・大谷寺(おおたんじ)の僧が浄蔵法師の口伝を元に書いたと伝わる「泰澄和尚伝記」のこの話が「白山開山」の光景とされているわけですが、この「緑碧池」とは現在の白山頂部のどの池なのでしょう?(そもそも、浄蔵法師は「緑碧池」をどう発音したのでしょう?)現在は、一般的には「翠ヶ池」がその池とされているようですが、過去の記録や絵図を見ると、そう単純な話ではないことが分かります。
 加賀側の古い伝承を伝える「白山之記」には、白山頂部や加賀禅定道の地理がけっこう正確に記されています。
「後に峙(そばだ)つ一つの少(やや)高き山は剣の御山と名づく、この麓に池水あり。翠の池と号す。たまたまその水を得てこれを嘗むれば、齢を延ぶる方なり。大山の傍に玉殿あり。翠の池より権現出生し給ふなり。」


(翠ヶ池と剣ヶ峰、2014.11登拝時)
翠ヶ池は美しい池、白山の心です。しかしながら、「白山之記」には、この火口池が長久3年(1042)の噴火でできた様子が描かれています。越前室(現在の室堂)の悪僧を焼き殺した加賀馬場の行人たちが下山した後、一人だけが加賀室に残ったのですが、夜半になって「汝、室を出よ」と大声が聞こえ、室に土石が雨あられと飛んできました。行人は恐る恐る、「石の影に隠れてこれを見るに、御在所の後より二人の童子あり。長さ十丈計土石を掻いて室を埋む。その両三堂宇、惣て四五宇これを埋めて、一つの岳を成す。その土石を穿つ所の跡二所あり。一所は水澄みて今に翠の池と名づく。一所は深き谷を成すといへども、その土石、道に投じ、細長の小山を作す。」(「白山之記」)


(大汝峰より望む翠ヶ池・剣ヶ峰・山頂御前峰、2017.11)
この記述に従えば、泰澄和尚が白山を開いたという8世紀には、現在の翠ヶ池は存在していなかったことになります。
 「白山之記」には、「池(翠の池)の西に深き谷あり。雪積りて未だ嘗て消え滅びず。これを千歳谷と名づく。」とあり、これは現在の「千蛇ヶ池」のことです。「谷」と書かれてあるのは、万年雪に覆われている為、池に見えなかったからでしょう。


(千蛇ヶ池、2016.6)
さらに、もう一つの池についても記されています。
「御在所の東の谷に宝の池あり。人跡通ぜず。ただ日域の聖人あり、その水を汲むと云々。その味八功徳を具すと云ひ伝へたり。風吹かずといへども俄に白浪を畳み、天晴れて静かなれば忽ちに金光を放つ。或は空中に仏頭の光を顕はし、或は谷に地獄の相を現ず。これ十界互ひに顕はれ、善悪並びに現するか。」(「白山之記」)
この池が「大法師浄蔵伝」「古事談」等に書かれている「御厨池」であり、御厨池と思われる池が実在することは、既に当ブログで何回か紹介してきた通りです。


(2017.11登拝時)(2017.11.4「白水滝~白山登拝」参照)
「御厨池」とは、慶雲年中(704~708)に苦行人「神融」が法華経の功力で毒龍悪鬼を籠め、天慶2年(939)に浄蔵法師が水を酌み、天喜年中(1053~58)に日泰(日台)上人が水を酌み、12世紀に末代上人(富士上人)が水を酌んだとされる池です。この「翠ヶ池」「千蛇ヶ池」「御厨池」についての江戸時代の記録や絵図を見ると、驚くべきことに、現在「翠ヶ池」と呼ばれている池が別の名であったり、「千蛇ヶ池」が「みどりの池」とも呼ばれていたことが分かります。
 文政5年(1822)に越前・福井から白山に登った畔田伴存の「白山草木志」に、
「御宝庫と云岩を道より右に見て行ば千蛇ヶ池と云あり。即みどりの池なり。」
「千蛇ヶ池は歴年の残雪積りて氷の如し。其池の上を通るなり。水はなし。俗説に此千蛇ヶ池に千蛇あり。若し池上の氷解すれば其蛇出る故にその時御宝庫の岩を落し入ると云ひかごとあり。」


(千蛇ヶ池と御宝庫、2016.11)
「此池を出て少し山に登ればふこう院地獄といふ池右に見ゆ。此池には水あり。雪と水との堺は誠に碧色を成てすさまじく藍の色、刀の地はだの研澄せるがごとし。」とあります。文化13年(1830)に白山に登った福井藩士・加賀成教の「白山全上記」も、現在の千蛇ヶ池を「千歳が池 又緑が池」と記し、現在の翠ヶ池を「不孝因地獄 泡処々に出る。地獄湧と云。」と記しています。江戸時代後期、越前側では現在の翠ヶ池を「不孝因地獄」と呼び、現在の千蛇ヶ池を緑が池とも呼んでいたことが分かります。
 「不孝因地獄」については、天保2年(1831)に白山に登った福井藩士・斉藤光美の「白山道の栞」によれば、昔、普光院という山伏が、この池は地獄ではない、と試しに手を入れてみると、常水であったが、手を池から上げると焼けるように熱く、再び水に入れると熱さが止み、手を抜くと熱さが耐え難く、次第次第に深く池に入ってゆき、「嗚呼天なるかな。我此池にて死すべきの時也、末世に不孝因地獄と号けて邪曲の人の誡めにせよ」と言って池に沈んだとのこと。似たような話が、江戸時代前期の禅僧・鈴木正三和尚が聞き集めた話を弟子の雲歩和尚が寛文元年(1661)に刊行した「因果物語」に肥前国温泉山(雲仙岳)の話として書かれてあり、「生ナガラ地獄ニ落事」と題されています。おそらく、同様の伝承は全国各地の火山にも伝わっているのでしょう。尚、「白山道の栞」には大汝峰の麓にあった「市兵衛塚」について、
「近年三州宝飯郡吉田郷金谷村なる市兵衛といえる者、白山にて入定せんと心願を立、三十四度登山し終に爰にて物故せしと云。」とありますが、「因果物語」には、三州牛窪村の市兵衛という鋳物師が三河の石巻山の鐘を盗み、寛永の始頃(1624~)、白山に参詣したところ、山八分目で市兵衛が俄に立ったまま焔に焼かれたことが記されています。翌年、東三河から白山に参詣した人たちも、去年の姿のまま焔に焼かれている市兵衛を見たとのこと。鐘を盗んだ悪業の報いで生きながら地獄に堕ちた市兵衛が、二百年後に越前側では聖人のように伝えられていたことが分かります。二百年地獄で苦しんで、罪障も消滅したのでしょうか。


(大汝峰、2014.10)
 「白山草木志」「白山全上記」「白山道の栞」とほぼ同じ頃に書かれたと思われる、加賀藩の儒者・金子有斐の「白嶽図解」には、越前側の記録と違って「緑の池」と「千歳池」を現在と同じ池に当てています。そして、
「此池(緑の池)を俗に普光院地獄と云。然れども水の清潔地獄などと言ふ可きものにあらす」と述べています。実際、現在の翠ヶ池に参詣すれば、この神々しい池は地獄とは感じられません。しかし、天文23年(1554)の噴火では火砕流が発生し、万治2年(1659)にも隣の紺屋ヶ池が噴火しています(それ以来、白山は今のところ噴火していません)。山伏普光院の遺言は、火山の・自然の恐ろしさを忘れてはならない、という、後世の私たちへの戒めとも受け取れます。江戸時代後期の白山頂の池の名前の混乱も、これらの噴火によって翠ヶ池等が地獄の様相を帯びたことによるのかもしれません。また、加賀馬場の衆徒山伏は加賀室に近い翠ヶ池を、越前馬場の衆徒山伏は越前室に近い千蛇ヶ池を、白山開山の「みどりの池」としたのかもしれません。
 江戸時代の美濃側の記録・絵図はどうでしょうか。石徹白の御師の家に伝わる江戸末期の白山絵図には、翠ヶ池の処に「みどりの池 こうやぢごくとも云」、千蛇ヶ池の処に「万歳ヶ池」と書かれてあり、さらに「てんぽうりん岩や」の南東辺りに「みくりやの池」が描かれています。石徹白社家に伝わる安永6年(1777)作の「白山名所案内」にも、「緑之池 越南路より三丁下、剣の山のふもと広さ五丁円鏡のことし、水満々として青々たること大空を見るがことし」「万歳が谷 六道の社より一丁北、万年の雪積りて万ざいが池といふ、此雪消る事なし」「御来屋の池 五しきの浜より五丁寅卯の方山中池の中に、白山三社の御山顕ハれたまい是も絶景なり、昔は橋有よしにて橋詰の形分明神代の田天の狭田長田此所にあり、此我朝の田のはしまりなり。参詣の人木末に紙を付後の人の道しるべとす」とあり、石徹白御師の絵図と一致しています。御厨池(みくりやのいけ)は、確かに細長い棚田の一枚のようにも見えます。


(2015.10登拝時)
さらに、井上翼章の「越前国名蹟考」に度々引用されている、福井藩の野路汝謙による「白山紀行」(17世紀後半)には、翠ヶ池を「谷を見下せば池三つあり。中にも大きなるを不孝因の地獄と云ふ。何れも水は藍の如し。されば俗に紺屋の地獄といひならはしたり。」千蛇ヶ池は「千歳が池とて神代より消ぬ雪、今も方二百間ばかりの間にうず高く池の水は見えず。(中略)千蛇が池の雪を渡りて行く。」御厨池は、「大きなる霊窟あり。転法輪といふ。大師参篭の秘密にて窟中に橋ある水あり。深奥は別の一世界なりと云。大師山上行法の三十七か所の秘所のひとつなり。近来は長滝寺の住侶阿妙院奥へ入て篭れりと云。此僧一生不犯の戒力を以て奥を見たりといへり。又二町余谷を下りて御厨池とてすさまじき池あり。大師禅定の時九頭竜出現の所なりと云。」


(2016.6登拝時)
と、石徹白に伝わる記録・絵図と共通した記述をしています。「白山紀行」は美濃禅定道や長瀧寺の行者についても詳しく記してあり、越前国であった石徹白でいろいろと調べたのでしょうか。御厨池は美濃室に近かったはずなので、美濃馬場の衆徒山伏が御厨池を重視したのは当然かもしれません。白山中宮長瀧寺の「荘厳講執事帳」には、万治2年(1659)の噴火(紺屋ヶ池?)について「六月八日巳ノ刻斗ニ御山御厨池ニ上ニ黒雲少斗出、暫有而ヲヒタタ敷鳴テ後・・・」とあるのも、美濃側からは翠ヶ池や千蛇ヶ池が剣ヶ峰と御前峰の裏になって見えないからでしょうか。
 さらに古い絵図を見ると、越前側の絵図にも御厨池が描かれています。「北國白山天嶺御繪圖」(惣別當越前州平泉教寺寶庫板)、年代は不明ですが、美濃室や加賀室が描かれています。この絵図には川上社から白山天嶺までが描かれており、六道地蔵の下に千歳池が描かれ、転法輪岩屋の南東辺りに、「権現御影向碧池」が描かれています。現在の翠ヶ池の辺りは「地獄谷」と書かれてあります。「御厨池」でなく「碧池」と書かれてありますが、位置は石徹白の絵図と同じ辺りです。
 さらに、室町時代の白山参詣曼荼羅図(丸岡町国神神社)(福井県立歴史博物館「白山曼荼羅」)を見ると・・・
字が剥げてしまっている部分もありますが、大汝峰と剣ヶ峰の間辺りに池が描かれ、「今緑池」と書かれているようです。度重なる噴火で、池の位置も形も変わってきたことを想像させる名です。そして、転法輪窟の南東辺り、美濃室の向こうにある池には、「厨」の字が見え、御厨池に間違いありません。池の上には、何かが涌き出しているように見えます。観音さまでしょうか。
 京都・大原の勝林院に伝わる、「白山権現講式」(川口久雄「山岳まんだらの世界」)。明応9年(1500)に平泉寺の僧が書き写したものを、享禄3年(1530)に別の僧が書き写したものです。この中には、
「遂ニ白山ノ天嶺ニ登リ、緑リノ池ノ地趣ニ莅(ノゾ)ンデ、一心ニ祈念シ、三業ニ加持ス。是ニ於テ十一面観自在尊慈悲尊容忽ニ現ズ。」
「五色ノ濱ニハ、金剛童子神足ヲ現ジ、御厨ノ池ニハ、妙躰ヲ示現シテ霊光ヲ顕ス。」とあります。
学者先生方は緑ノ池も千蛇が池も御厨池も一つの池であろう、と空想なさるかもしれませんが、毎年白山三禅定道を登拝して三つの池を拝んでいる私には、どの池も、白山権現示現の池と見えます。

十方の諸の国土に 刹(くに)として身を現ぜざることなし。(「観音経」)

さざめく波に無数の光明が照り映える翠ヶ池は、白山の大悲心。
万年雪にとざされた千蛇ヶ池は、白山の清浄身。
ハイマツの海の岸辺にひっそりと静まる御厨池は、白山の大慈眼。
どの池からも白浄の気を受け修し、この糞袋の煩悩・黒業・苦しみを、絶えず清めてまいりたく思います。


(翠ヶ池、2013.6)

南無帰命頂礼白山妙理大権現王子眷属
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松樸裏

Author:松樸裏
自由と孤独を愛するアウトサイダーと、万物の母たる大自然との一対一の対話
2006~奥美濃の藪山を登り始める
2009~白山三禅定道を毎年登拝
2016~19白山美濃馬場の古の山伏の行場「白山鳩居峯」のうち五宿を毎月巡拝、以後随時巡拝