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吉備武彦命の越遠征の足跡 3 越飛濃

(承前)
 越後の刈羽で天照大御神を祀った後、吉備武彦命(きびのたけひこのみこと)の分遣隊は久比岐国に戻り、おそらく海沿いに越中へと軍を進めた。そして伊弥頭(いみず、射水)を経て砺波郡に入った。「古事記」によれば、砺波郡を本拠とする利波臣(となみのおみ)の祖は日子刺肩別命(ひこさしかたわけのみこと)。
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(日子刺肩別命を祀る南砺市岩木の荊波神社(うばらじんじゃ)、2023/5/23参拝時)
日子刺肩別命は吉備武彦命の大叔父であり、宝賀寿男氏の説によれば父である(「吉備氏 桃太郎伝承をもつ地方大族」)。越前・美濃境の石徹白には、三十年前の景行天皇十二年に吉備武彦命が伊邪那岐命(イザナギノミコト)を祀ったと伝わる(「石度白伝記」)。また、景行天皇の子の成務天皇(日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の異母弟)の代には、吉備武彦命の弟と思われる建功狭日命(たけいさひのみこと)が越前の角鹿国造(つぬがのくにのみやつこ)となっている(「国造本紀」)。「古事記」によると角鹿海直(つぬがのうみのあたい)の祖も日子刺肩別命。日子刺肩別命・吉備武彦命父子らによる越前・越中侵攻は、すでに三十年前から始まっていたのだろう。砺波郡に入った吉備武彦命は、高瀬神社に参拝したであろうか。
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(2023/5/23参拝時)
高瀬神社は景行天皇の時代の創祀と伝わり、祭神は大己貴命(オホナムチノミコト)、即ち大国主神。信濃の坂城神社と同様、あるいは吉備武彦命が出雲ゆかりの神々の御霊を鎮めるために祀ったのかもしれない。
 日本武尊東征の目的の一つは、鉱物資源の確保にあったようだ。吉備武彦命の分遣隊も、すでに国造の設置されていた越後の久比岐国のヒスイ産地から越中の宮崎海岸を進んだことだろう(当時は越前・越中・越後という区分はなかった)。浜山玉つくり遺跡は、古墳時代中期・五世紀後半のヒスイ工房跡。
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(2023/5/30)
四世紀前期の大彦命(オオビコノミコト)や中葉の吉備武彦命らの越(こし)遠征により、越のヒスイ産地は大和王権の支配下に組み込まれていったのだろう。砺波に滞在した吉備武彦命の分遣隊はその後、婦負(ねい)へ進軍して婦負川(神通川)を遡り、飛騨の神岡を目指したものと思われる。神岡で採れる鉛は青銅器を作るのに欠かせない。婦負の鵜坂神社は大彦命の創祀と伝わる。弥生時代終末期(三世紀前半頃)まで出雲伝来の四隅突出型墳丘墓を造っていた婦負の首長たちも、四世紀には大彦命や吉備武彦命らの遠征により大和王権に屈したようだ。
 神岡から南西へ進むと、古川町の寺地に至る。寺地の八幡神社は、かつては現在地より北西方の吉備森という処にあったという(「古川町歴史探訪」)。
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(寺地の八幡神社、2023/5/31参拝時)
吉備武彦命との関係は分からぬが、この辺りは神岡と吉備氏一族の三尾臣(みおのおみ)の起源地であろう三尾河(みおごう)の中間。寺地の八幡神社近くの山中に祀られる、岩井戸観音。
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(2023/5/31参拝時)
ご本尊は行基菩薩の作と伝わる。寺地から猪臥山(いぶしやま)の北の小鳥峠(おどりとうげ)を越えて小鳥川を遡り、松ノ木峠を越えて上白川(現・荘川町)の六厩(むまい、むまや)から軽岡峠を越すと、三尾河に着く。越中砺波を流れる庄川の最上流部であるこの辺りから出た三尾臣は、「続日本紀」に
「稚武彦命(わかたけひこのみこと)之後也」
とあり、吉備氏の一族であった。
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(三尾河を流れる庄川の魚帰滝(うおがえりのたき)、2023/5/23)
此処から大日ヶ岳を挟んで西方には越前・美濃境の石徹白があり、約三十年前の景行天皇十二年、吉備武彦命が石徹白に伊邪那岐命を祀った後、武彦命は九頭竜川を下って越前へ、父の日子刺肩別命は三尾河を経て庄川を下り、越中に進出したか。三尾臣に迎えられた吉備武彦命はありし日の父を偲び、日本武尊の本隊に合流すべく美濃へと進んでいったことだろう。
 三尾河から吉備武彦命の分遣隊は庄川源流の山中峠を越えて美濃に入り、飛騨金山(かなやま)を経て土岐川(庄内川)を目指したのではないか。信濃から尾張を目指す日本武尊の本隊は、美濃に出てからは土岐川(庄内川)沿いに進むはずである。碓日坂(入山峠)で別れて以降、越(こし)へ進んだ吉備武彦命は美濃で日本武尊に再会したと「日本書紀」にあるが、信濃を進軍した日本武尊の本隊に比べ、吉備武彦命の越遠征路ははるかに長い。おそらく土岐川沿いのどこかに日本武尊が逗留し、吉備武彦命の分遣隊を待っていたのであろう。
 瑞浪の明世(あきよ)に鎮座する、吉備神社。
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(2023/5/18参拝時)
祭神は大吉備津日子命(吉備津彦命(きびつひこのみこと))。異母弟の若建吉備津日子命(稚武彦命(わかたけひこのみこと))と共に吉備を平定し、さらに出雲を平定した桃太郎伝説のモデル・吉備津彦命は、吉備武彦命の大叔父であり、宝賀寿男氏の説によれば日子刺肩別命の父で、吉備武彦命の祖父。瑞浪の吉備神社は万治四年(1661)建立と伝わる(「瑞浪市史」)が、周辺に全く祀られていない吉備氏の祖が何故此処に勧請されているのか不思議だ。
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(備前の吉備津彦神社、2020/1/21参拝時)
吉備神社から土岐川を南へ渡ると、河岸段丘に気比神社(けひじんじゃ)が鎮座している。
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(2023/5/18参拝時)
文保三年(1319)、坂上房次という人が寺の鎮守として越前・敦賀(角鹿)の気比大神(笥飯大神、伊奢沙和気大神(イサザワケノオオカミ))を勧請したと伝わる。気比神社の上の丘に鎮座する高松観音は、弘安七年(1284)に高松庵五世坂上房が現在地に移し、高松山慈雲寺と号したという。
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(2023/5/18参拝時)
この坂上房は気比神を勧請した坂上房次と同一人物か、あるいは父か。
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(敦賀の氣比神宮、2015/4/16参拝時)
「古事記」によれば、大吉備津日子命の実の兄弟・日子刺肩別命は越中の利波臣や越前の角鹿海直(つぬがのうみのあたい)の祖であり、「国造本紀」によると、吉備武彦命の弟と思われる建功狭日命(たけいさひのみこと)が成務天皇の代に角鹿国造(つぬがのくにのみやつこ)となっている。宝賀寿男氏の説によれば、吉備武彦命の父が日子刺肩別命、祖父が吉備津彦命、そして曾祖父が伊奢沙和気命(気比大神)。気比神社は延宝九年(1681)頃に瑞浪の寺河戸にも勧請されており、瑞浪には吉備氏の祖神が多く祀られている。
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(2023/5/18参拝時)
 二つの気比神社の中間に鎮座する、八剣神社(やつるぎじんじゃ)。
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(2023/5/18参拝時)
祭神は日本武尊。保元二年(1157)、尾張の熱田神宮大宮司の舎弟が諸国巡拝中、瑞浪の小田郷で

「日本武命が東夷を御親征され、御帰還の途上起りたりと伝ふる事象と同一の神秘的なる事象を見たるに因り」(岐阜県神社庁ホームページ)

小金塚に熱田宮の神霊を勧請したという。「瑞浪市史」には、嘉元二年(1304)に小田大宝原小金塚から現在地に勧請したとあり、元は現地の南東の大法原に祀られていたようだ。熱田神宮は、日本武尊が東征時に携行した草薙剣(くさなぎのつるぎ)を祀る宮。大宮司の舎弟が当地で如何なる事象を見たのかは分からぬが、当地が景行天皇の妃・八坂入媛(やさかのいりびめ)の故郷である久々利に近く、また吉備氏の祖神が多く祀られていることからも、信濃から美濃に入った日本武尊は瑞浪に逗留し、越遠征から戻ってきた吉備武彦命と再会したのではなかろうか。吉備神社の東方には日本武尊東征の一世紀後、古墳時代中期・五世紀の戸狩荒神塚古墳がある。
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(2023/5/18)
八坂入媛や父・八坂入彦命(やさかのいりびこのみこと、崇神天皇の子)の子孫の墓のようだ。八坂入媛は、成務天皇の母。一方、日本武尊の母は「古事記」によれば若建吉備津日子命の娘である。
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(景行天皇が行幸した泳宮(くくりのみや)、2018/7/18)
 「日本書紀」によれば、吉備武彦命と美濃で合流した日本武尊は尾張へ戻り、宮簀媛(みやずひめ)を娶って数月過ごした。その後、大和へ帰る前に美濃・近江境の伊吹山の荒神を討ちに行ったが、何故か宮簀媛の家に草薙剣を置いたまま出陣した。
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(垂井の伊富岐神社、2019/5/3参拝時)
大蛇の姿で現われた荒神を日本武尊は荒神の使い走りと勘違いし、跨いで山へと入っていった。
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(伊吹山、2019/4/11登拝時)
山中で大氷雨に打たれた尊はかろうじて下山することはできたが、宮簀媛の元には戻らず故郷の大和を目指して歩み続け、伊勢の能褒野(のぼの)でついに倒れた。
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(能褒野・加佐登神社の日本武尊像、2016/8/6参拝時)
尊は東征の捕虜として連れてきた蝦夷たちを伊勢神宮に献じ、吉備武彦命を纒向の日代宮(ひしろのみや)へ急派し、父・景行天皇にこう言伝てした。

「臣、命を天朝(みかど)に受(うけたまは)りて、遠く東の夷を征つ。則ち神の恩を被り、皇の威に頼りて、叛く者、罪に伏ひ、荒ぶる神、自づからに調(したが)ひぬ。是を以て、甲(よろひ)を巻き戈を戢(をさ)めて、愷(いくさ)悌(と)けて還れり。冀(ねが)はくは曷(いずれ)の日曷の時にか天朝(みかど)に復命(かへりことまう)さむと。然るに天命忽に至りて、隙駟(ひのあし)停り難し。是を以て、独(ひとり)曠野(あらの)に臥す。誰にも語ること無し。豈に身の亡びむことを惜しまむや。唯愁ふらくは、面(まのあたりつか)へまつらずなりぬることのみ」

吉備武彦命は、大将であり婿でもある日本武尊の遺言を、涙ながらに伝えたことであろう。草薙剣を宮簀媛の元に置いたまま伊吹山へ向かったことについては、「尾張国風土記」の逸文(「釈日本紀」)によると、宮簀媛の家に泊まった日本武尊が夜中に厠へ行った際、草薙剣を桑の木に掛けて用を足したが、剣が光を放って動かなくなったという。日本武尊は宮簀媛に草薙剣を祀るよう命じ、伊吹山へと出陣した。草薙剣は元々、素戔嗚尊(スサノヲノミコト)が出雲で八岐大蛇(やまたのをろち)を退治した際、大蛇の尾から出てきた剣。
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(素戔嗚尊が八岐大蛇を退治したと伝わる出雲の天が淵、2019/11/7)
素戔嗚尊はその剣を姉の天照大御神に献上したのであった。「源平盛衰記」によると、草薙剣は天照大御神が天の岩屋戸に籠った時に伊吹山に落とした剣であり、胆吹(伊吹)の大明神即ち八岐大蛇が呑み込んだのであった。素戔嗚尊に殺された後、伊吹の神の霊は草薙剣を取り戻さんと、剣を携えて東征に出た日本武尊を待ち構えていた。しかし日本武尊はその企みに気づき、草薙剣を宮簀媛に託して伊吹山へと向かったのである。草薙剣は今も三種の神器の一つとして熱田神宮に祀られている。八咫鏡(やたのかがみ)は日本武尊の叔母・倭姫命(やまとひめのみこと)の時から伊勢神宮に祀られている。そして八尺瓊の勾玉(やさかにのまがたま)は、今も天皇の許にあるという。「越後国風土記」の逸文に
「八坂丹とは玉の名なり。玉の色の青きを謂ふ。」(「釈日本紀」)
とあり、八尺瓊の勾玉は越(こし)産のヒスイの勾玉のようだ。三種の神器は、わが国の成立のために戦ったすべての先人たちの血と汗と涙の結晶だ。景行天皇の十二年、石徹白で若き吉備武彦命の前に現われた伊邪那岐命は、こう告げた。

「吾が皇御孫(すめみま)にまつろはぬこころあしき賊四方にをこる、吾今此舟岡へあまくだりて皇御孫を守護す、いまし吾を長くまつるべし」
(「石度白伝記」、原万葉仮名)

このお告げは吉備武彦命の越(こし)遠征の第一歩であったと同時に、後の白山信仰の遠源ともなったのであった。
(続く)

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松尾如秋

Author:松尾如秋
自由と孤独を愛するアウトサイダーと、森羅万象を統べているものとの一対一の対話
白山と、白山に育まれているすべてのものへの讃歌
2006~奥美濃の藪山を登り始める
2009~白山三禅定道を毎年登拝
2016~19白山美濃馬場の古の山伏の行場「白山鳩居峯」のうち五宿を毎月巡拝、以後随時巡拝