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杉原山~星宮~瓢ヶ岳~新宮巡拝1

 4月29日朝5時、郡上美並・杉原(すいばら)の熊野神社に参拝。


「熊野大権現御縁起」(「美並村史史料編」)によれば、応和元年(961)、熊野那智の俊応という比丘尼が当地を訪れ、老杉の元に野宿して翌朝目覚めると、はるかなる峯の方から弥勒菩薩の御声が聞こえ、俊応尼が熊野から持ってきた小石は弥勒菩薩の化身であり、此処に足をとどめ修行するならば、後に必ず熊野権現が当地に遥降するであろう、と告げました。俊応尼が小庵を結び、小石を弥勒菩薩を勧請してお祀りすると、小石は日に日に大きくなりました。熊野権現(本地・阿弥陀如来)は、俊応尼の頃から約三百年後の正応3年(1290)に顕現されたそうです。拝殿へと登ってゆき熊野権現に参拝、阿弥陀堂、弥勒石と巡拝しました。


 円空上人が延宝7年(1679)に此処で彫ったと思われる仏像の背銘に、白山のご神託が記されています。神社の裏に聳える杉原山へと、急峻な谷筋を上へ。


登ってゆくと藪は薄くなりましたが、傾斜は60度くらい。5時半、背後の樹間に朝日が差しました。


6時前に山頂部に出ると、十一面観音さまのご宝号が彫られた石碑がありました。


明治42年(1909)のものです。信仰の山であったことが分かります。山頂部の北側は岩だらけの崖になっており、少し下って断崖絶壁の上に出ると、北に白山のお姿が拝めました!


まだ雪の多い、別山と御前峰。大汝峰は御前峰の後ろに隠れて見えません。白山の向かって右に鷲ヶ岳、山々を縫って流れ来る長良川。


円空上人が白山の神託を得たという、千虎の辺りも見えます。西には高賀山、眼下の谷からは沢の響き。


長良川の方からは、高速を走る車や、長良川鉄道のカタンコトンという音が遠く聞こえてきます。明治時代に十一面観音さまの碑を建てた方も、此処で白山本地・十一面観音さまを拝んだことでしょう。思いがけぬお導きに、白山を遥拝しつつ絶壁上に正身端坐しました。
 40分ほどして坐を立ち、白山権現に投地礼。三角点、山頂を経て尾根を西へ。鞍部から南の夕谷洞へと下り、ギンリョウソウを拝みました。


谷は水は少ないもののけっこう深く、急峻。


両岸には岩峰が聳え立っています。30分ほど下ってゆくと、ようやく谷沿いに林道が現われました。ズックに入った小石を取り、紐を結び直して沢を渡り、いざ林道へと歩み始めたとたん、手にストックを持っていないことに気づきました。必死に谷を下ってきたので、いつまで持っていたのか記憶にございません。探し回ること約20分。ストックは、沢を渡る前の林道上にありました。靴紐を結び直した時、置きっ放しにしていたのでした。見つかって一安心。
 夕谷洞の林道を、粥川谷へと降下。


かつて、この辺りの山腹の岩上の森に、白山神社があったそうです。その後、白山神社は少し下流の森下に移り、神社統合で此の地から無くなったそうです(小酒井市左衛門・吉岡勲「粥川の歴史と家譜」)。(5/3付記、当地の白山神社は明治の初めに平僧の神明神社(現・矢納ヶ淵前に鎮座)と共に粥川谷上流の坊切に遷座され、星宮神社に合祀されたようです。)長良川上~中流域には、白山神社や泰澄大師の伝承がとても多いのですが、粥川の白山神社も、長良川流域から杉原山を越え、夕谷洞を下って此処に勧請されたのでしょうか?8時に粥川谷沿いの道に出ました。
 谷の左岸を西(上流)へ歩いてゆくと、「伽藍様」という小祠がありました。


此処は、白山神社の後方を宮後と言っていたのが、いつしか宮代と呼ばれるようになったそうです。伽藍様とは、白山神社の別当寺(神宮寺)の伽藍の守り神(伽藍神)を祀ったお堂でしょう。白山美濃馬場・白山中宮長瀧寺にも、長良川の対岸に「伽藍神」(「ガラン様」)の祠があり、長瀧寺の文書によれば、かつては泰澄大師作の虚空蔵菩薩が祀られていたようです。粥川の「伽藍様」の最古の棟札は寛永18年(1641)とのこと。石徹白に伝わる「越白山大社小社尊号鎮所写」(寛保3年(1743))や「白山名所案内」(安永6年(1777))に、白山美濃馬場の「六所王子之一社」として
「瓢ヶ嶽 倉稲魂命」「美濃国郡上郡粥川村ニ鎮座」
とあることは、前回の記事「白山六所王子」で紹介しました。先述したように、

石徹白の中居権現=加宝王子
大和の金劔宮=金劔王子
勝更の白山神社=佐羅王子
洲原神社=禅師王子
尾張・大山の児神社=児宮王子

であることは明らかです。残るは、三宮王子、本地・如意輪観音菩薩ですが、粥川に鎮座し「倉稲魂命」を祀る処が何処なのか、よく分からなかったのでした。しかし、粥川の「伽藍様」にお参りして、気づかされました。白山美濃馬場の「六所王子」とされる処は、白山中宮長瀧寺と関わりのある処のはずです。尾張の児権現社は、元々は大山廃寺(正福寺)の名残りですが、児権現の奥の院とも言える尾張白山は、中世に白山権現が勧請された処です。児権現社は、江戸時代には「修験道掌之」と「尾張徇行記」にあります。当然、白山美濃馬場の山伏たちの関わりが考えられます。粥川にあったという「王子」も、粥川・森の白山神社であったと考えるのが妥当でありましょう。今や、白山神社も別当寺の伽藍もありませんが、伽藍神だけは大切にお祀りされていることの、有難さ。おそらく、此処が「六所王子之一社」瓢ヶ嶽=三宮王子の名残りなのでしょう。般若心経をお唱えし、白山権現王子眷属を供養しました。祠の西に、瓢ヶ岳方面が遥拝できました。


 粥川谷沿いに歩を進め、8時半に坊主洞入口着。坊主洞の奥に、円空上人が籠っていたと伝わる窟があります。白山中宮長瀧寺にも長良川の対岸に御坊主ヶ洞があり、谷を登ってゆくと、戦国時代に長瀧寺の敬愚比丘が焼身供養を行じた「見附ノ大岩」があります。伽藍様といい、坊主洞といい、長瀧寺と同名の伝承地が粥川の白山神社跡周辺にあるのは、偶然でしょうか?坊主洞を遡り、円空上人の窟に参拝しました。


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松樸裏

Author:松樸裏
自由と孤独を愛するアウトサイダーと、万物の母たる大自然との一対一の対話
2006~奥美濃の藪山を登り始める
2009~白山三禅定道を毎年登拝
2016~19白山美濃馬場の古の山伏の行場「白山鳩居峯」のうち五宿を毎月巡拝、以後随時巡拝