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白山七社大権現下四社・中宮金劔宮

 5月9~10日の笥笠中宮~白山加賀禅定道登拝の帰路、鶴来の金劔宮・風嵐の岩根宮・勝山の佐羅宮を順拝しました。この三社は、石徹白に伝わる「越白山大社小社尊号鎮所写」(寛保3年(1743))や「白山名所案内(安永6年(1777))に、「白山七社大権現」のうちの「下四社之一社」として記載されています。「上三社」は、白山三所権現(大御前妙理大権現・小白山別山大行事・大己貴権現)、即ち御前峰・別山・大汝峰の三山です。


(御前峰、2018.5.9)


(大汝峰、2018.5.9)


(別山、2016.11)
「下四社」のもう一社は、中宮社、即ち白山美濃馬場・白山中宮長瀧寺です。


(長瀧寺大講堂と拝殿、2018.2)

中宮権現社 彦火々出見尊 下四所之一社美濃国郡上郡長瀧寺鎮座(「越白山大社小社尊号鎮所写」)

「長瀧寺真鑑正編」によれば、養老元年(717)、泰澄大師が白山天嶺に登り山上に三所権現を祀った後、麓に四社の社殿を建立し三道を開かんとして当地を訪れた際、彦火々出見尊が現われたので、社宇を建て白山七社の一つとしたそうです。そして、養老6年(722)に社を三社の神殿に改造して白山三所の本地仏を祀り、白山中宮長瀧寺と号したそうです。因みに、越前馬場の中宮は白山中宮平泉寺、加賀馬場は笥笠中宮(けがさのちゅうぐう)です。


(平泉寺、2015.10)


(笥笠中宮、2018.5.10)
 そもそも「白山七社」については、平安時代中期、藤原能信(藤原道長の子)が石徹白の中居神社に奉納したと伝わる「白山大鏡」に記されています。越南路(伊弉諾尊)・白山妙理大菩薩(伊弉冊尊)・別山大行事(天忍穂耳尊)の三所権現に続いて
金剣宮(天津彦火々瓊瓊杵尊)
中宮(彦火火出見尊)
佐良宮(彦波瀲武ウガヤ葺不合尊)
岩根宮(高皇産霊尊)
そしてこの七宮は、順に貧狼・巨門・禄存・文曲・廉貞・武曲・破軍の七星、即ち「北斗七星」に当てられています。
 「上三社」、御前峰・別山・大汝峰の三所権現は、越前・加賀・美濃の白山三馬場が共に遥拝し登拝する白山信仰の根本ですが、「下四社」は、各馬場それぞれに社殿が建てられ祀られていたようです。加賀馬場・白山本宮白山寺(現・白山比メ神社)に伝わる「大永神書」(大永7年(1527))には、「白山七社御出現次第」としてこの七社が記され、さらに中七社・下七社、合わせて二十一社が記されています。「白山之記」に記されている「下山七社」(本宮・金剣宮・岩本宮・三宮・中宮・佐羅宮・別宮)は「大永神書」の「中七社」に当たります。下七社には、能登の石動山まで含まれています。また、「大永神書」には白山六所王子(金剣宮・三宮・禅師宮・佐羅宮・若宮(尺迦又児宮)・加宝宮)も挙げられ、「白山九所小神」には越後の能生白山(のうのはくさん)まで含まれています。「六所王子」も、越前・加賀・美濃の各馬場でそれぞれに社殿が建てられていました。
 「泰澄和尚伝記」や「白山大鏡」をベースにしつつ、各馬場に合わせて一部が書き改められたと思われる「白山禅頂本地垂迹由来」が、各馬場に伝わっています。本宮白山寺に伝わるものは、もとは永正5年(1508)に井家庄(いのうえのしょう)福久村で書かれたもの。泰澄大師が越前の越知山で修行の後、大宝2年(702)21歳の時に加賀の医王山に移って修行、養老元年(717)4月1日に安久濤之渕(あくどのふち)に女神が現われ「我ガ本地ハ雪ノ嶺ノ禅定ニ有リ、行テ拝見スベシ」とのご神託を受け白山に登り、三所権現を感得されたのでした。


(安久濤ヶ淵(旧白山本宮の下)2016.4)
美濃馬場長瀧寺に伝わるもの(寛文10年(1670)書写)も医王山~安久濤之渕を経て白山に登ったことになっていますが、石徹白に伝わるものは越前側の「泰澄和尚伝記」と同じく越知山~伊野原の林泉(平泉寺の御手洗池)を経て白山に登ったことになっています。


(平泉寺御手洗池、2015.10)
このように各馬場で書き改められた部分がありますが、白山七社については

禅頂三社
禅定ノ正殿 伊弉冊尊 本地十一面観音
越南路 伊弉諾尊 阿弥陀如来
別山大行事小白山権現 天忍穂耳尊 聖観音
下四社
金剣宮 天津彦々火瓊々杵尊 不動明王
中宮 彦火々出見尊 薬師如来
佐良宮 ウガヤ葺不合尊 聖観音
岩根宮 高皇産霊尊 十一面観音

で、共通しています。しかし、下四社の具体的な鎮座地は記されていません。加賀・白山寺の惣長吏・澄意法印(寛文6年(1666)長吏となり、享保10年(1725)89歳で遷化)が書いた「白山諸雑事記」には、白山二十一社の鎮座地や祭神が明白でないのは、「神秘ノ口伝タルニ依テナリ」とあります。
 「白山七社権現」「白山二十一社」、さらに上七社を北斗七星とすることなどは、明らかに比叡山の「日吉山王七社」「日吉山王権現二十一社」に倣ったもので、平安時代に白山三馬場が延暦寺末となる過程で形成されたのでしょう。白山権現は日吉山王権現上七社の「客人権現」として日吉大社に勧請され、かつての日吉大社・客人宮(まろうどのみや)には、白山三所権現(客人・小白山・大己貴)と共に白山六所王子(佐羅(若宮)・三宮・加寶・禅師・劔宮・児宮)の社も鎮座していました(「日吉山王権現知新記」「日吉社神道秘密記」)。劔宮(金劔宮)は、日吉山王権現下七社の一社でもありました。現在は、白山宮(客人宮)の脇に劔宮、小白山社、八坂社、北野社が鎮座しています。


(日吉大社白山宮、2018.5.21)
権益をめぐって対立することもあった白山三馬場が共通した信仰を保てたのは、比叡山の影響と申せましょう。
 ところで、石徹白に伝わる「越白山大社小社尊号鎮所写」や「白山名所案内」には、「下四社」と「六所王子」の鎮座地が記されています。「六所王子」については、石徹白の中居神社から尾張の稚児神社まで、美濃馬場の山伏たちの影響下にあった広大な地域となっています(当ブログ2018.4.26「白山六所王子」参照)。ところが、「下四社」の鎮座地を見ると、美濃馬場に限らず越前馬場と加賀馬場にも及んでおり、今回の白山登拝の帰路に順拝することにしたのでした。
 5月10日17時前、加賀・鶴来の金劔宮に参拝。


「越白山大社小社尊号鎮所写」には、

金劔之宮 彦火々出見尊
下四所之一社加賀国石川郡劔村ニ鎮座

とあります(天彦火瓊瓊杵尊の誤写と思われます)。
「白山諸雑事記」によれば、
「七社第一ノ王子ニテ嵯峨天皇ノ御宇弘仁十四年(823)ニ此地ニ御鎮座ナリ」とあります。金劔宮は越前馬場・中宮平泉寺の三所権現の社の脇と、三宮から越前禅定道を登った処にも祀られていました。


(平泉寺剣ノ宮、2017.6)
また、美濃馬場にも、長良川沿いの大和町剣に祀られています。


(金劔神社、2013.6)
が、金劔宮といえばやはり加賀でありましょう。寿永2年(1183)、木曾義仲は越後国府から越前の燧城に兵を差し向け平家の大軍と対峙しましたが、義仲に味方して平泉寺衆徒を引き連れ燧城に入っていた平泉寺長吏・斉明の裏切りによって、越前~加賀~越中へと敗退、義仲は越後から越中に出陣し、加賀・越中国境、倶梨伽羅峠の平家軍を迎え討ちます。義仲は「北国第一ノ霊峰、効験無双ノ明神ノ御麓近ク参タリ、白山妙理権現ニ願書ヲ進(マイラ)セバヤ」(「源平盛衰記」)と、加賀馬場白山本宮・越前馬場平泉寺・美濃馬場長瀧寺の白山三馬場に戦勝を祈願したのでした。夜襲によって倶梨伽羅ガ谷に平家軍を追い落とした義仲は、谷に俄に火焔が焼き上がるのを見、不思議に思って使を遣わすと、金劔宮の御神宝が顕れたのでした。感激した義仲は馬から下りて白山金劔王子(本地・倶梨伽不動明王)を礼拝し、鞍置馬二十疋を金剣宮に奉納、荘園も寄付したのでした。
 また、文治2年(1186)には京から奥州平泉へと山伏姿で落ちる源義経一行が、大津の浦より舟で琵琶湖を渡り海津に上陸、荒乳山(あらちやま)を越えて越前に入り平泉寺に寄った後、金津(あわら市)に出て加賀に入り、岩本宮、白山本宮、金劔宮と順拝しています(「義経記」)。拝殿にて本地・不動明王に参拝し、広い境内の各所を順拝しました。境内には「義経腰掛石」もあり、北西には日本海が望めました。


「下四社」の岩根宮・佐羅宮参拝記は、次回に続きます。
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松樸裏

Author:松樸裏
自由と孤独を愛するアウトサイダーと、万物の母たる大自然との一対一の対話
2006~奥美濃の藪山を登り始める
2009~白山三禅定道を毎年登拝
2016~19白山美濃馬場の古の山伏の行場「白山鳩居峯」のうち五宿を毎月巡拝、以後随時巡拝