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白山七社大権現下四社・岩根宮佐羅宮

 5月10日、鶴来の金劔宮より手取川上流に車を進め、17時半に風嵐(かざらし)の岩根宮に参拝。「越白山大社小社尊号鎮所写」には、

岩根之宮 高皇産霊尊
下四社之一社越前国大野郡風嵐村ニ鎮座

とあります。此処は、市ノ瀬から越前禅定道を登拝する時は車で必ず通り、すぐ近くの温泉にも何回か入ったことがありますが、古社があることは知りませんでした。「由来」には、
「養老元年(717)白山開山の祖泰澄大師の創建により白山七社の内 岩根之宮としての由緒があり」
「左右の巨岩にのせて白山三所(御前峰 大汝峰 別山)の社を奉斎したが 後世中央巨岩(御前峰)に合祀された」
とあります。川沿いの境内には巨岩がいくつかあり、現在社殿が建っている岩が御前峰を現わしているのだとすると、その向かって右奥が別山、向かって左前が大汝峰でしょうか。


すぐ近くの温泉からは白山三所権現が拝め、当然、社殿の配置は実際の三所権現の並びに則っていたことでしょう。中央巨岩の下には、「泰澄大師腰かけの石」もあります。ご宝前にて白山三所権現ご真言ご宝号、泰澄大師ご宝号をお唱えし、境内裏より手取川を望みました。


近くの車道からは、雲間に白山の白い山肌が拝めました。


風嵐は平泉寺からの白山越前禅定道からは離れていますが、近くを豊原寺からの白山禅定道が通っていたようです。
 岩根宮は加賀馬場にもあります。白山寺(現・白山比メ神社)の「白山禅頂本地垂迹之由来私伝」には、白山七社(禅頂三社下四社)の岩根宮の「根」に「モト」とフリガナがつけてあります。加賀馬場の中七社(下山七社)の一つ・岩本宮を意識してのことでありましょう。美濃馬場の岩根宮は、思い当たる処がありませんでしたが、灯台下暗し。私がたまに登る山の麓の、何回かお参りしたことのある白山神社が、「岩根社」とも呼ばれていたのでした(「芥見郷土誌」)。5月15日早朝、その白山神社に参拝。


境内には別当寺であった願成寺もあります。養老5年(721)に泰澄大師が破損した願成寺を此処に移築再建し、白山権現を勧請して願成寺の鎮守とされたそうです。白山社、願成寺と順拝して仁王門前を流れる沢沿いに上流へ。途中、山神さまや荒神様の石碑を拝み、山道を只管登って二十分ほどで山上の蔵王権現社に参拝しました(明治の神仏分離で「芳野神社」と改称)。


天平宝字5年(761)、泰澄大師が蔵王権現を勧請して祀ったと伝わる社です(「芥見郷土誌」)。ご宝前で般若心経と蔵王権現ご真言、泰澄大師および役行者ご宝号をお唱えしました。此処から尾根を数分縦走すると、三角点のあるピークがあります。西~南に、金華山の後ろに伊吹山、霊仙山、多度山を遥拝。


近江の霊仙山は、泰澄大師が山頂に盧舎那仏を祀った山です。北には高賀の山並、白山は今日は霞んで見えません。


北西には、先ほど参拝した蔵王権現のピークの後ろに能郷白山。


南には、多度権現を祀る山の向こうに名古屋の高層ビル。蔵王権現社に戻って沢沿いに願成寺仁王門へと下りました。



 5月10日18時半、風嵐から谷峠のトンネルを越え、越前勝山・伊波(いなみ)の佐羅神社に参拝。


鳥居には「白山一の宮」の額。「越白山大社小社尊号鎮所写」には、

佐良宮 天照皇太神
下四社之一社越前国勝山辺佐良村に鎮座

とあります。伊波の佐羅宮は、越前馬場の白山七社の内で唯一、平泉寺の境内の外、平泉寺から二里(約8キロ)の伊波の地に御旅所として鎮座してきたそうです(「広報かつやま」平成29年10月号)。佐羅宮は加賀馬場にも美濃馬場にもあり、加賀の中七社(下山七社)の一つ・佐羅宮は、安元3年(1177)に中宮三社(笥笠中宮・佐羅宮・別宮)八院の衆徒・神人が加賀国司と目代の罷免を求めて佐羅宮の小社・早松社の神輿を比叡山まで振り上げ、日吉山王七社の八王子・客人・十禅師の神輿と共に入洛、加賀守らを流罪にさせたことで知られます。加賀の佐羅宮(佐良早松神社)は天元5年(982)の創建と伝わります。


(2017.9参拝時)
一方、美濃の洲原神社の近くに鎮座する佐羅早松権現(佐羅早松神社)は、武儀郡神名帳に「正一位佐羅明神」とあり(「美濃市史」)、加賀の佐羅宮創建前後には鎮座していたものと思われます。


(2013.6参拝時)
また、郡上八幡町勝更の白山神社(佐良之宮)は、美濃馬場の六所王子の一つです(「越白山大社小社尊号鎮所写」「白山名所案内」)。
 ところで、「白山大鏡」には
「佐良宮、号古志路宮、荒地中山 誕生給」
とあり、各馬場の「白山禅頂本地垂迹之由来」にも
「越前国荒地中山ニテ誕生シ給」
とあります。「白山諸雑事記」には、
「白山ノ御子神佐羅明神ハ越前国ノ荒地ノ中山ニテ誕生シ玉ヘリ、是ハ唐崎明神ト(白山妙理権現が)夫婦ニ成、懐妊シ玉フテ本国加賀ノ白山ヘ帰リ玉ヘル時、彼荒地ノ中山ニテ出生シ玉ヘリ、故ニ彼山ヲハ荒血山ト呼ツメタリト云々」
とあります。「荒血山」とは、近江・越前境の有乳山(荒乳山、あらちやま)のことで、「義経記」に、京から奥州平泉へと向かう山伏姿の義経一行が荒乳山を越え越前に入る際、弁慶が、この山をあら血の山と呼ぶのは、加賀の白山の女体の龍神が志賀(滋賀)の辛崎明神(唐崎明神)に見染められ、懐妊して加賀に戻る途中、此処で出産して荒血をこぼしたからであると説いています。唐崎明神とは、日吉大社の社人の祖とされる琴御舘宇志丸(ことのみたちうしまる)とその妻で、龍神であり本地は観音さまのようです(「日吉山王権現知新記」)。天智天皇が都を飛鳥から大津に遷され即位された頃(668)、日吉大明神(大宮権現=大己貴尊=本地釈尊)が大和の三輪山から比叡山麓に鎮座される前に唐崎神社に来られ、唐崎神と石上に同坐されたそうです(同書)。


(日吉大社西本宮(大宮)、2018.5.21)
5月21日、唐崎神社に参拝してきました。


琵琶湖岸の境内からは東に三上山、北東には姨綺耶山の奥に伊吹山を遥拝。


北陸から湖を渡ってきた佐羅早松宮の神輿や、湖を渡って北陸へと向かった義経一行に思いを馳せました。西に「唐崎の松」越しに拝む、比叡山。


佐羅宮の小社「早松」「並松」も、「唐崎の松」と関係があるのかもしれません。
 日吉大社の客人宮(まろうどのみや)には、客人・小白山・大己貴の三所権現と共に「客人六所王子」も祀られ、「日吉山王権現知新記」を見ると、平泉寺の「白山権現講式」(大原勝林院、享禄3年(1530))や長瀧寺の「泰澄講法則」(寛文11年(1671))の「白山六所王子」と順番も王子名も本地仏も一致しています。が、すべての王子が
「二佐羅 三宮 如意輪」
「五佐羅 剣宮 不動」
のように「佐羅」と呼ばれ、佐羅王子は
「一佐羅 若宮 本地多聞天」
となっています(多聞天とは毘沙門天のことです)。白山佐羅王子の父は唐崎明神、母は白山権現即ち客人権現。安元3年(1177)に白山加賀馬場中宮三社八院の衆徒が、叡山への神輿振りに佐羅宮の神輿を選んだのも、うなずけます。神輿は佐羅宮から仏が原の金剣宮(小松市原町)、粟津(小松市)、細呂木(あわら市)を経て敦賀・金ガ崎の観音堂(金前寺、天平8年(736)泰澄大師が十一面観音さまを祀って建立)


(金前寺、2015.4)
に入り、「荒智ノ中山立越テ」海津から琵琶湖を舟で渡り比叡辻ノ浦に上陸、日吉大社の客人宮拝殿に入っています(「源平盛衰記」)。


(日吉大社白山宮拝殿、2018.5.21)
しかし、荒血山には肝心の佐羅明神と繋がる端緒が、どうも見当たりません。それに比し、越前・伊波の佐羅宮は大日山を源流とする皿川沿いにあり、当地の町名は荒土(あらど)町伊波です。


(加賀大日~越前大日の尾根より皿川下流・荒土と九頭竜川を見下ろす、2015.11)
伊波の佐羅宮は「越前国名蹟考」にも
「佐良社 白山七社の内」
とあり、平泉寺の白山七社の内、佐羅宮のみが境内外に鎮座するのも、此の地の重要性を物語っているようです。丸岡の国神神社に伝わる「白山参詣曼荼羅図」(室町時代)にも、平泉寺境内に六所王子が描かれていますが、佐羅王子のみは「今宮第一王子」となっています。古くから「白山一宮」佐羅宮が鎮座し、皿川が流れる大日山麓・越前加賀境の荒土こそ、佐羅明神の本当の故郷なのかもしれません。
 伊波の佐羅宮に参拝すると、境内から北に大日山、北東には白山が遥拝できました。


白山佐羅王子は、此処から加賀や美濃、さらには比叡山に勧請されていったのではないでしょうか。いずれにしても、佐羅明神の故郷が越前であることは間違いありません。
 白山の順礼とは、白山天嶺の三所権現のみならず、下四社・六所王子をはじめとする白山の王子眷属、白山に育まれている生きとし生けるものと草木瓦礫、一色一香を礼拝供養し、清浄の気を絶えず受け修してゆくことに他なりません。

凡そ普天率土日月星宿ミな吾躰なり、森々たる霊木離々たる異草、みなこれ我王子眷属の所居也、十方法界皆我神躰にあらずといふ事なく、世界衆生ミな吾うみなせる子なり、我な穢しそ穢しそ
(「大永神書」)
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松樸裏

Author:松樸裏
自由と孤独を愛するアウトサイダーと、万物の母たる大自然との一対一の対話
2006~奥美濃の藪山を登り始める
2009~白山三禅定道を毎年登拝
2016~19白山美濃馬場の古の山伏の行場「白山鳩居峯」のうち五宿を毎月巡拝、以後随時巡拝