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敬愚比丘忌

 6月1日は、白山美濃馬場・白山中宮長瀧寺の敬愚比丘が、御坊主ヶ洞の奥に登って焼身供養を行じられたご命日。「長瀧寺真鑑正編」に、
「比久ハ陰暦六月朔日御坊主ガ洞奥ナル見附ノ大岩ノ下方ニテ火焼三昧ニ入定セリト云フ現ニ墓石ヲ存ズ多分大永享禄(1521~32)ノコトナラン」
とあります。


(見附ノ大岩、2018年正月参拝時)
御坊主ヶ洞には毎月の白山鳩居峯五宿巡拝時に参詣していますが、ご命日の6月1日にはここ数年、毎年岩下で法華経薬王菩薩本事品を読誦して比丘を供養しております。今年もそのつもりでしたが、数日前に高熱が出、感染症で療養中。これも白山権現の思し召しと、自宅で法要を修しました。
 法華経の前に、地蔵菩薩本願経を読誦しました。これは、敬愚比丘が若い頃、長瀧寺六谷六院の一つ・洲河院谷(須川院谷、すごういんだに)地蔵山房で修行していたと伝わるからです(「高鷲村史」)。


(洲河院谷の地蔵堂、2018.4)
「長瀧寺神社仏閣記録」(宝幢坊所蔵史料)に、「寛永年中(1624~)ヨリ退転之房之事」として八つの坊院が挙げられていますが、筆頭に
「地蔵坊澄海 座中 但僧武儀郡内ニ住ス」
とあります。「座中」とは長床座中、即ち山伏のことです。長瀧寺一山は衆徒(僧侶)・座中(山伏)・執行(社家)より成り立っていました。江戸時代前期の坊院の退転は、遠州浜松の二諦坊との駿河・遠江・三河での牛王札配札の権利をめぐる訴訟に敗れ、さらに近村との山論、一山内部での宝物をめぐる争論など、二諦坊に檀那場を奪われた上に莫大な訴訟費用や江戸への旅費などがかかり、経済的に窮地に陥ったからでした。それはさておき、地蔵坊が山伏の坊であったことから、戦国時代の敬愚比丘も山伏の出身であったことが分かります。「比丘」という称号も、あるいは「比丘山伏」であったことによるのかもしれません。山伏の髪形には、まったく鬚髪を剃らず後頭部に束ねる下山伏(さげやまぶし)、一寸八分に髪を摘む摘山伏(つみやまぶし)、完全に剃る剃山伏(比丘山伏)の三種があり、下山伏は法身形の山伏、摘山伏は報身形の山伏、比丘山伏は応身形の山伏と、仏の三身に当てられています(宮家準編「修験道辞典」、三身山伏の項参照)。役行者は下山伏、祇園祭の山伏山の浄蔵法師(浄蔵貴所)は摘山伏、泰澄大師は比丘山伏といったところでしょうか。敬愚比丘については、「長瀧寺真鑑正編」にあるように長瀧寺の「荘厳講執事帳」応永19年~天文4年(1412~1535)までの分が一冊不足している為、この期間を生死された敬愚比丘の記録がなく、詳しいことが分からないのですが、「内に菩薩の心をひめて声聞の修行をする」「随類応現して断悪修善の働きをする」(「修験道辞典」)比丘山伏であったのではないでしょうか。敬愚比丘は永正15年(1518)6月に長瀧寺の一切経蔵の制札(当経蔵に於て他所之人卒尓に入る事停止せしむる者也、仍って一山の衆議件の如し(原漢文))を書しており(「長瀧寺真鑑正編」)、一山の中でも中心的な立場にあったと思われます。(尚、この制札は明治32年(1899)の大火で焼失してしまいました(「長瀧寺真鑑正編」)。)
 地蔵坊は寛永年中以降(1624~)に退転してしまったわけですが、長良川支流の牛道川沿いに鎮座する貴船神社は、天和の頃(1681~83)に牛道川の氾濫で御神体が流され、長滝住侶の地蔵坊が御神体を彫って貴船明神を再勧請し、社殿を復興したと伝わります。地蔵坊は退転後、武儀郡(むぎぐん、郡上郡の南)にいたようですから、武儀郡から郡上郡にかけての一帯で活動していたのでしょうか。


(白尾山より牛道川、さらに白鳥、長良川を見下ろす、2012.12)
江戸時代前期の長瀧寺の衰退は、長瀧寺の衆徒・山伏らが伝統の上にあぐらをかいていたことも一因と思われ、戦国時代に身を以て白山権現を供養した敬愚比丘ゆかりの地蔵坊は、一山を出て仏道を実践していたのでしょう。同地域で活動していた円空上人も、地蔵坊から何らかの影響を受けたかもしれません。
 武儀郡の洲原神社は「白山十禅師権現」と称し、泰澄大師が白山開山の後、養老5年(721)に当地を訪れ、鶴形山の上に白山三所権現(本地十一面観音菩薩・聖観音菩薩・阿弥陀如来)を祀って内宮とし、麓に三所権現と前立(十禅師、本地地蔵菩薩)を祀って外宮として開きました。そして、大師の弟の三神安定を越前から呼び、初代神主としました(「洲原白山並安定由緒書」、承和13年(846)に三代安正が記したとされる)。


(鶴形山(内宮)、2015.12)


(洲原神社(外宮)、2015.12)
石徹白に伝わる「越白山大社小社尊号鎮所写」(寛保3年(1743))や「白山名所案内」(安永6年(1777))にも、
「十禅師 瓊々杵尊 従粥川三里
六所王子之一社美濃国武儀郡洲原村ニ鎮座」
とあります。十禅師とは白山六所王子の「禅師王子」、本地は地蔵菩薩。洲原神社の南の峠には、泰澄大師作と伝わるお地蔵さまを祀ったお堂があります。また、鶴形山への入口にある慈光寺のご本尊も、お地蔵さま。かつては洲原神社にも神宮寺があり、毎月十八日の白山講式と修行・護摩行は、講堂別当・別当社僧が司っていました(「洲原白山並安定由緒書」)。長瀧寺を退転した地蔵坊と関係があるかは不明ですが、白山禅師王子(地蔵菩薩)の霊場であった洲原白山に、地蔵坊も参詣したことでしょう。
 十年前に私が彫った、お地蔵さま。


かつて伊吹山にいた頃、米原で森哲荘先生に木彫を教わっていたことがありますが、その後思うところがあって伊吹山を下り、岐阜に移ってから職が見つかるまでのどん底の中で一心に彫った、五十センチ弱のお地蔵さまです。お地蔵さまは、私たちが悪業をしでかし苦しみという報いを受けるのを、方便をもって救出しようとされるお方です。
 「地蔵菩薩本願経」に続いて「法華経」薬王菩薩本事品を読誦。敬愚比丘が焼身供養を行じられたのは、約五百年前の6月1日でありました。6年1日は、長瀧寺では「朝戸開」の日でした。

「六月朔日朝戸開、是は石徹白より御山奥の院迄の御戸を開也、王子々室々にて礼を打也」
「朝戸開は座中の役也」
(「修正延年並祭礼次第」、慶安元年(1648))

御山とは御前峰、奥の院とは大汝峰、座中とは山伏のことです。つまり、白山美濃馬場の戸開け式、山開きです。石徹白に伝わる「白山権現鏡之巻」(寛文4年(1664)書写)にも

「六月一日朝従開戸」

とあります。
 白山加賀馬場に伝わる「白山禅頂御本地垂迹由来私傳」(「白山比メ神社文獻集」)には、

「毎年六月十八日白山禅頂朝戸開之参詣井家道者入月之日記」(永正6年(1509))

があり、越中境に近い井家庄(いのうえのしょう)から先達、代官、調物・進物を運ぶ合力八人で、6月15日に下白山(白山本宮)、16日に笥笠中宮、17日に火ノ新宮(檜ノ新宮)、天池と加賀禅定道を登拝して大室(加賀室)に泊まり、18日の朝戸開法要に参詣していたことが記されています。加賀馬場より早い6月1日朝戸開の美濃馬場は、4月8日に鳩居入峯した山伏が6月15日には「鳩居入峯出」しています。そして、八日後の6月23日から8月13日の懸出まで、二度目の鳩居入峯修行をしています。
 「白山之記」には

「三ヶの馬場より参り合ふの時は、加賀の先達、御戸を開くなり。」

とあるものの、「長瀧寺真鑑正編」永正18年(1521)の項に

「当寺ガ白山別当職タルヲ以テ大御前ヲ修理シタリシ時ノ計算書」

があり、その末尾には

「大御前別当 良信 花押」

と記されています。良信大徳の名は、長瀧寺の「荘厳講執事帳」にも度々見られ、天文23年(1554)に七十余歳で遷化されています。白山上の権益は、時代によって加賀馬場・美濃馬場・越前馬場の掌中に移っていたようです。江戸時代になると越前馬場・白山中宮平泉寺が優勢となり、江戸時代後半は完全に平泉寺の支配となります。福井藩士・加賀成教の文政13年(1830)7月の登山記「白山全上記」には、平泉寺からの番人が御前室に二人、別山室に一人詰めており、

「大概六月土用の初に登り二百廿日比に下る由。」

とあります。土用の初は、今年(2018年)でいえば旧暦6月8日(新暦7月20日)、二百廿日は旧暦8月2日(新暦9月11日)です。この頃にはすでに加賀室も美濃室も存在せず、文政6年(1823)の尾張藩士の登山記「三の山巡り」には、

「国元にて聞きしに白山は六月土用に入らざれば登山成りがたきよし。また途中の話には、六月朔日道切りあるよしという者も有り。社人に是を訪ねしに、道切り(生え茂りし草木を伐りて道直す)は、朔日に限らず田方の耕作しまいて、その翌日道切りする事にて年々決まりなし。当年は明日(6月10日)道切りする。」(「社人」とは石徹白の社人。)

とあり、美濃馬場からの「朝戸開」は道切りへと変遷していったようです(長瀧寺の「荘厳講執事帳」天和4年(貞享元年、1684)の項に、「六月、白山道草苅、施主経聞坊・中之坊・持善坊・石徹白五郎右衛門也」とあります)。「三の山巡り」には、別山社で
「案内の者自身で戸帳を開く故「勿体なし、開かずに置けよ」と言えば、「参詣にきて参らずに行く事の有るべきか」とて戸帳を開き、「よく拝めよ」と言うまま、室にて賽銭は済ましたれども、また二三銭上げて詣る。この銭案内の者取り行くなり。麓より所々に詣る所有りその銭はみな案内の者取り行くなり。」
また、御前室に詰めている者について
「是は平泉寺の百姓のよし強力と言う。案内の時は白きものを着る。所々へ銭投げさせ持ち帰るなり。戸帳を悉く開きて拝ませる。この者、小便をしたるままの手にて、やはり戸帳をなぶりたれども、仏神の罰当りたまう事なきものと見ゆ。」
とあり、江戸時代後期には、古の加賀・井家庄の道者や美濃馬場の山伏が行っていたような「朝戸開」への厳粛な思い、白山権現王子眷属への畏敬の心は、もはや感じられません。
 いずれにしても、敬愚比丘が火定に入られた大永・享禄の頃(1521~32)には、美濃馬場では6月1日に石徹白から山上までのお堂・お宮の戸が開けられていたのでした。良信大徳が大御前別当であった間は、文字通り御山奥の院(御前峰・大汝峰)までの御戸を開けていたことでしょう。
 当時の白山三馬場の情勢は、加賀馬場・白山本宮白山寺では、延徳3年(1491)に白山麓・河内庄の地頭・結城氏が、白山長吏職を望んで本宮に乱入、合戦となり、前後十一年の間、白山禅頂での結夏(夏安居)ができませんでした(「白山宮荘厳講中記録」)。白山上の新堂では、平安時代から毎年六月に法華八講が修されていたのです(「白山之記」)。享禄4年(1531)には「享禄の錯乱」が起き、本願寺から下間頼盛が下向、金劔宮と寺家在家が悉く焼失。


(金劒宮、2018.5)
天文6年(1537)には白山長吏の弟・平等坊が白山越えで越前に亡命、理性坊澄範は人質となり本覚寺に下っています。
 美濃馬場と、朝倉孝景(義景の父)時代の越前馬場は、加賀馬場ほどは混乱していませんでしたが、戦国の動乱の中、近隣の守護大名・戦国大名の盛衰、荘園の押領、末寺の一向宗への転宗などで衰運の中にありました。山内には近隣の守護大名や戦国大名の帰依を受けた坊院や、出家した一族もおり、世の動きと無縁ではあり得ませんでした。敬愚比丘が焼身供養を行じられたのは、このような時代の、美濃馬場から白山までの朝戸開の日でした。
 「法華経」薬王菩薩本事品には、薬王菩薩が前世に一切衆生喜見菩薩であった時、師の日月浄明徳如来が説かれた法華経の教えに順って苦行し、現一切色身三昧を得、師とその教えを身を以て供養せんと焼身供養を行じ、生まれ変わって再び日月浄明徳如来に相見し、師が涅槃に入られると遺言に順って舎利(ご遺骨)を八万四千の宝瓶に収め、八万四千の宝塔を起てて塔前で臂を焼き、み仏とその教えを供養したことが説かれています。また、菩薩の苦行だけでなく、この法華経の教えを聞き、受持し、読誦し、書写し、供養し、実践することによって、生老病死の苦しみを離れ、死後には阿弥陀仏の極楽浄土に往生することも説かれています。

清涼の池の能く一切の渇乏の者に満つるが如く、
寒き者の火を得たるが如く、裸なる者の衣を得たるが如く、
商人の主を得たるが如く、子の母を得たるが如く、
渡に船を得たるが如く、病に醫を得たるが如く、
暗に燈を得たるが如く、貧しきに寶を得たるが如く、
民の王を得たるが如く、賈客の海を得たるが如く、
炬の暗を除くが如く、此の法華経も亦復是の如し。
能く衆生をして一切の苦・一切の病痛を離れ、
能く一切の生死の縛を解かしめたまふ。

「法華経」薬王菩薩本事品のこの箇所は、み仏の大慈悲心をリズミカルかつ感動的に説いています。この仏心を礼拝供養するだけでなく、自らも実践することこそ、敬愚比丘の、薬王菩薩の、み仏の、白山権現の、思し召しでありましょう。
 白山加賀馬場・白山本宮では、衰運のさ中の大永7年(1527)、後柏原天皇の皇子・道喜が白山本宮に伝わる白山妙理権現のご神託を清書し奉納しています。

「汝等よくきけ。吾住處は本有常住の寂光浄土なり。我神躰は金剛不壊の法身なり。真実には雷火にもやけす、地震にもそこなはれさるなり。あさましや、汝等朝夕口に妙理権現と唱へながら、しかも妙理の本躰にまよへる事のむさんさよ。」
「又世間と仏法とは一躰にして更に異途なきなり。又諸法に本末もなきなり。よき物はいつもよく、あしき物はいつもあしき也。」
「たた吾身に急難のある時はかり、神そ仏そとあはてふためくかをかしきそとよ」(「大永神書」)

 一方、美濃馬場・白山中宮長瀧寺では、大永年中(1521~28)に「奥之坊先師長吏」が大峰山に入峯し、吉野川に流れてきた不動明王の像を長瀧寺に持ち帰って護摩堂の本尊として祀っています(「長瀧寺神社仏閣記録」、宝幢坊所蔵史料)。「奥之坊」がどこで、「先師長吏」が誰なのかは分かりませんが、洲河院谷の地蔵坊は谷の奥にあり、地蔵坊だとすれば、「奥之坊先師長吏」は敬愚比丘ゆかりの方、あるいは比丘本人かもしれません。


(かつて、長瀧寺大講堂の向かって右奥、神楽堂の後ろに護摩堂があった。2017.3参拝時)
 白山朝戸開の日、御坊主ヶ洞を登って見附ノ大岩の下で火定三昧に入り、一切衆生喜見菩薩の如く身を以て白山妙理大権現を供養された、敬愚比丘。

宿王華、汝若し是の経を受持することあらん者を見ては、青蓮華を以て抹香を盛り満てて、其の上に供散すべし。散じ已って是の念言を作すべし。
此の人久しからずして、必ず当に草を取って道場に坐して、諸の魔軍を破すべし。当に法の螺を吹き大法の鼓を撃って、一切衆生の老・病・死の海を度脱すべし。
(「法華経」薬王菩薩本事品)

加賀馬場・白山本宮のご神託の清書奉納とほぼ時を同じくして為された美濃馬場の敬愚比丘の「法供養」も、白山妙理大権現の無言のご神託、と申せましょう。
 比丘の火定後、先述の通り、加賀馬場・白山本宮では天文6年(1537)に白山長吏の弟が越前に亡命しています。その翌7年(1538)、飛騨の戦国大名・三木氏が白山大御前別当職を配下の都筑小右衛門に買い取らせ、長瀧寺阿名院の道雅法印に寄進し、勤行等において不法懈怠があれば、長瀧寺の荘園・川上庄を差し押さえる、とも書き送っています(「長瀧寺真鑑正編」)。道雅法印は、長瀧寺の寺号の由来である「長滝」で修行中に阿弥陀如来を感得し、阿弥陀ヶ滝と名づけるなど、天文年間(1532~)から活躍しておられ、天文23年(1554)4月に白山が噴火した際は、宝光坊良松・西泉坊らと共に5月15日に白山頂に参詣しています(「荘厳講執事帳」)。加賀馬場・白山本宮の山伏たちが登ったのは5月28日(「白山宮荘厳講中記録」)ですから、白山大御前別当職としての面目を果たしたといえます。「法印」という号や、阿弥陀ヶ滝での行、白山天嶺への登拝などから察すれば、道雅法印も元は山伏であったはずです。「長瀧寺神社仏閣記録」の「従往古在来今之坊数之事」(寛文8年(1668))には、衆徒(僧侶)の十八坊(衆徒数は十七侶)、長床座中(山伏)の五坊、執行(神主)一坊が記されていますが、長床座中の
「泉光坊快円長吏」は「経聞坊同宿脇寺」、
「竜蔵坊良盛」は「阿名院同宿脇寺」
となっており、長床座中も、衆徒の中心的な坊院である経聞坊と阿名院に本拠があったようです。他の長床座中の坊は、
禅養坊栄秀 夏一
三教坊良円 泉光坊弟子
宝蔵坊 玉井坊弟子
です。「荘厳講執事帳」延宝9年(1681)の項には
「卯月鳩居入峰、禅養坊懈怠也」
「六月廿三日鳩居入峰、長吏竜蔵坊懈怠也」
とあり、阿名院同宿の竜蔵坊が長吏となっていること、また、年二回の鳩居入峯修行がきちんと行われていないことが分かります。
 永禄10年(1567)に織田信長が美濃を制圧して稲葉山城(岐阜城)に入り、翌11年(1568)、足利義昭を奉じて上洛、義昭を十五代将軍に据えると、長瀧寺阿名院・道雅法印(神澄上人、77歳)はいち早く岐阜を訪れ信長と対面し、制札を得ています(「荘厳講執事帳」)。一方、越前馬場・平泉寺は朝倉氏と手を結び、十六世紀前半の朝倉孝景の時代は比較的安定していました。次の義景の時代にも、先代の全盛期の余韻は残っており、平泉寺の波多野玉泉坊や飛鳥井宝光院は、「法師大名」と言われるほどの勢力(石高)を持っていました。しかし、天正元年(1573)、朝倉義景は北近江の浅井長政援護の為出兵したものの、信長軍に敗れ、本拠地の越前一乗谷まで敗走、従弟の朝倉景鏡(かげあきら)と平泉寺が信長側に寝返り、越前大野で自害して果てます。


(一乗谷、2013.9)
反信長ということでそれまで朝倉氏や平泉寺と同盟関係にあった本願寺顕如上人は、ただちに越前一向一揆の蜂起を指令、翌天正2年(1574)に平泉寺宝光院が土橋と改姓した景鏡を平泉寺に入れると、本願寺は平泉寺に潜む土橋景鏡の誅伐を一向一揆に命令し、平泉寺は全山焼失、土橋景鏡も平泉寺院主・明王院阿闍梨も、自害して果てたのでした(辻川達雄「織田信長と越前一向一揆」)。


(平泉寺の坊院跡、2013.9)
 敬愚比丘忌法要の後、近所の毘沙門天(多聞天)を祀ったお堂に参拝すべく家を出ると、地面に二匹のカナへビがからみあっていました。


オスがメスを放すまいと、かみついています。私が近づいても、逃げるどころではない様子。そっとしっておきました。歩いて数分のお堂にお参り。お堂の後方には、長良川の彼方に高賀山。


このお堂の本尊の毘沙門天王は、室町時代中期以前に長良川が氾濫した際、川原の砂上に漂着していた為、地元の人々が小宇を建ててお祀りしたそうです。その後、延宝4年(1676)に脱心禅師が近くに草庵を結び、毘沙門天さまをお守りしていましたが、京都宇治の黄檗山萬福寺を訪れ木庵禅師(隠元禅師の後を継いだ、明の渡来僧)に相見し、木庵禅師を開山としてこの地に寺を建て、毘沙門さまをお祀りしたそうです(「芥見郷土誌」)。「北濃の史跡と傳承」によれば、この毘沙門天像は七十キロ以上上流・毘沙門岳東腹の「毘沙門さま」から山抜けで流れ下ったと伝わるそうです。毘沙門岳東腹の「毘沙門さま」には現在は毘沙門天は祀られておらず、水神さまや観音さまのご真言が記された石碑が建っています。


(2017.3参拝時)
「岐阜市史」には、永徳元年(1381)9月の長良川の大水で流れてきた阿弥陀さまの像を、布施津道心という人が見つけ、草堂を建てて祀る為、岐阜西庄の立政寺に宛てた「阿弥陀寺寄進状」があります(立政寺は、永禄11年(1568)に足利義昭を織田信長が岐阜に迎え、初めて会見した処でもあります)。
 また、長瀧寺の「荘厳講執事帳」には、長良川の大洪水の記録が
永徳3年(1383)7月
至徳3年(1386)6月
康応元年(1389)6月
にあり、毘沙門さまも阿弥陀さまも、この頃の大雨洪水で上流から流れてきたのでしょう。尚、金華山(岐阜城)北麓の長良川対岸に阿弥陀寺という寺があるようですが、祠とお地蔵さまの石像がある他は、今はお参りできるようなお堂は見当たりません。


(長良川より南に見上げる金華山(岐阜城)、2018.5)
 毘沙門天(多聞天)参拝後、長良川の河畔に下り、先週三山六社巡拝をした高賀の山並を遥拝しつつ坐しました。


眼下には、白山連峰から流れ来る長良川の清流。此処をかつて毘沙門さまが流れ、阿弥陀さまが流れ、敬愚比丘のご遺灰も流れていったことでしょう。来ては去る流れは、「大永神書」の白山妙理大権現のご神託を説いていました。

凡普天率土日月星宿みな吾躰なり。森々たる霊木離々たる異草、みなこれ我王子眷属の所居也。十方法界皆我神躰にあらすといふ事なく、世界衆生みな吾うみなせる子なり。我な穢しそ穢しそ

南無白山妙理大権現王子眷属
南無敬愚比丘尊者
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松樸裏

Author:松樸裏
自由と孤独を愛するアウトサイダーと、万物の母たる大自然との一対一の対話
2006~奥美濃の藪山を登り始める
2009~白山三禅定道を毎年登拝
2016~19白山美濃馬場の古の山伏の行場「白山鳩居峯」のうち五宿を毎月巡拝、以後随時巡拝