fc2ブログ

記事一覧

虎皮の英雄1 織田信長

202112281534183bf.jpg
(岐阜城下の信長公像、2021.12.26)


 天正九年(1581)二月二十八日、四十八歳の織田信長は、京都の御所の東に築かせた馬場で盛大な馬揃え、即ち軍事パレードを行い、天覧に供しました。このとき信長が着けていた行縢(むかばき、腰に付けて前に垂らし、腿から下を覆う毛皮)は、金地に虎の斑を刺繍したもので、鞍の上敷、障泥(あおり)、手綱、腹帯、尾袋も同様のデザインでした(太田牛一「信長公記」)。同年一月八日に安土で催した左義長、および八月一日の安土馬揃えでは、信長は虎皮の行縢を着けて馬に騎っています。

blog_import_5c78087e6156b.jpeg

(繖山(きぬがさやま)より望む安土山、背後に長命寺山、彼方に比叡山 2015.11)

行縢(むかばき)というのはメキシコやアメリカのカウボーイが着けるチャップスと似たもの(昔、プロレスラーのスタン・ハンセンはカウボーイハットに投げ縄、チャップス姿でリングへと入場したものでした)ですが、行縢の歴史はとても古く、古代中国の「詩経」小雅・采菽にある


「赤芾(せきふつ)股に在り、邪幅下に在り」


の「邪幅」は行縢のことのようです。下って「三国志」の時代、呉の孫策が亡くなり弟の孫権が後を継いだ建安五年(200)頃、若き呂蒙の率いる兵たちが「絳衣行縢」、赤い衣に行縢姿で、陣立ては雄壮、しっかり訓練されているのを見て孫権は喜び、呂蒙の兵を増やしたと「三国志」呉書・周瑜魯粛呂蒙伝にあります。呂蒙は建安二十四年(219)、荊州にいた蜀の関羽を調略によって孤立させ、十二月、関羽と息子の関平は呉軍に捕らわれ斬首されたのでした。

2019122208351502e.jpg

(関聖帝君(関羽)と関平・周倉(長崎・興福寺、范道生作)。九州国立博物館「三国志展」関連展示、2019.12)

その直後に呂蒙は病死し、「三国志演義」では関羽の祟りによって死んだことになっています。
 「詩経」や呂蒙の兵の行縢(むかばき)の素材は分かりませんが、行縢は日本にも古くから伝わり、「万葉集」巻第十六に長意吉麻呂(ながのおきまろ)の


食薦(すごも)敷き蔓菁(あをな)煮持ち来(こ)
屋梁(うつばり)に行縢(むかばき)懸けて休むこの君


という物名歌があります。梁(うつばり)に掛けられた客人のこの行縢は、鹿皮でしょうか。信長が好んで着けた行縢の虎皮は、おそらく貿易港・堺で入手した朝鮮産のアムールトラの皮であったでしょう。信長以前にも、虎皮の行縢を好んで着けた人はいます。元弘二年(1332)の後醍醐天皇の隠岐配流に供奉し、翌年後醍醐帝に一人付き添い隠岐を脱出、その後六波羅探題滅亡や建武新政に活躍した千種忠顕(ちくさただあき)です。「太平記」によれば、忠顕は興に乗ると数百騎を随えて京都の内野や北山辺で犬追物(いぬおうもの)や鷹狩りをし、


「その衣裳、豹、虎の皮を行縢(むかばき)に切り、金襴纐纈(きんらんこうけつ)を直垂(ひたたれ)に縫へり。」(「太平記」第十二巻)


後醍醐帝の忠臣であった千種忠顕は、建武三年(1336)六月七日、足利直義軍との戦いで比叡山西坂本で戦死しました。
 信長の虎皮愛好は、若い頃から見受けられます。信長は天文十七年(1548)十五歳の頃、美濃・稲葉山城の斎藤道三の娘を妻として尾張・那古屋城に迎えました。天文二十年(1551)に父・信秀が病死し家督を継ぎましたが、まだ尾張一国の統一もままならない状況でした。天文二十二年(1553)四月、斎藤道三は人から「大だわけ」とも評される二十歳の婿・信長の善し悪しを見極めようと、尾張の美濃国境近くにある正徳寺で会見することにしました。会見の前に道三は忍びで、正徳寺に向かう信長の姿を見ることにしました。


「髪は茶筅に遊ばし、萌黄の平打ちにて茶筅の髪を巻き立て、湯帷子の袖を外し、熨斗付けの大刀・脇差二つながら長柄に、みご縄にて巻かせ、太き苧縄腕抜きにさせられ、御腰の周りには猿使いのように、火燧袋、瓢箪七ッ八ッ付けさせられ、虎革・豹革四ッ変りの半袴を召し」(太田牛一「信長公記」、「気になるアート.com」サイト参照)


しかし、寺に着くと信長は屏風をひき回し、髪を折り曲げに結い直し褐色の長袴にはき替え、小刀を差して会見の場に向かい、驚く道三と相見したのでした。
 永禄十一年(1568)、三十五歳の信長は岐阜から足利義昭を奉じて上洛、義昭は室町幕府の第十五代将軍となりました。翌永禄十二年(1569)二月二十七日より信長は将軍の御所を二条に築き始めましたが、工事を指図する信長は座れるように虎皮を腰に巻き、粗末な服を着ていた、とルイス・フロイスの「日本史」にあります。信長は贈答品としても虎皮や豹皮を度々使っており、桶狭間で今川義元を討ち取った翌年の永禄四年(1561)四月、三河の梅ガ坪での合戦で見事に矢を射た平井長康に豹皮の大靫(おおうつぼ、矢を入れる筒)と馬を与えています(「信長公記」)。永禄十年(1567)八月、三十四歳の信長は美濃・稲葉山城の斎藤龍興を敗走させ、小牧山から稲葉山に移り、井口と呼ばれていたその地を岐阜と改名しました。

202112282024039a0.jpg

(岐阜城信長公居館跡、2021.12.26)

同年十二月、信長は嫡子・信忠と甲斐の武田信玄の娘・松姫の婚約のため、信玄に虎皮三枚、豹皮五枚、緞子百巻、金貝(かながい)装飾の鞍鐙十口を贈っています(「甲陽軍鑑」)。この婚約は、後に破棄されました。翌永禄十一年(1568)七月二十九日の越後の上杉輝虎(謙信)宛て書状には、


「随而唐糸五斤紅、豹皮一枚進之候」


とあります(「らいそくー信長戦国の古文書解読サイトー」参照)
 以下、太田牛一「信長公記」の記述によれば、天正三年(1575)十月、岐阜より上洛した信長は奥州の伊達輝宗(政宗の父)から贈られた馬と鷹を受け取り、清水寺で輝宗の使者をもてなしました。輝宗への返書に記された礼品は虎皮五枚、豹皮五枚、緞子十巻、しじら二十反。天正四年(1576)、四十三歳の信長は安土城を築き岐阜から移りました。翌天正五年(1577)十一月、上洛した信長は鷹狩りの出で立ちで参内、百人ほどの弓衆は皆、信長から与えられた虎皮の靫(うつぼ)を付けていました。信長は正親町天皇に鷹を見せた後、東山で鷹狩りをしています。天正七年(1579)七月、安土に奥州の遠野孫次郎という人が白鷹を献上しに来、信長は衣服十重、白熊(はぐま、ヤクの尾)二本、虎革二枚を与えています。天正八年(1580)三月、京都の本能寺で信長は相模の北条氏政から贈られた鷹や馬、献上品の目録を受け取り、返礼として虎皮二十枚、しじら三百反、猩々緋十五枚を贈っています。閏三月、安土に関東下野の宇都宮貞林の使者が馬を贈って来、しじら三十反、豹皮虎皮十枚、金襴二十反、衣服一重、黄金三枚を返礼としています。京都と安土で馬揃えを催した天正九年(1581)には、十一月に関東下野の皆川広照が馬三頭を贈ってきた返礼として、しじら百反、紅五十斤、虎皮五枚、黄金一枚を贈っています。当時、虎皮一枚・豹皮一枚は銀五十両、米で十八石に相当し(中島雄彦「信長からの贈り物ー「信長記」を中心にー」(「Gifu信長展」所収))、一石が現在の五万~七万五千円くらいとすると、虎皮一枚・豹皮一枚の価格は九十万~百三十五万円。かなり高価な贈り物であったことが分かります。現在ではアムールトラもアムールヒョウも絶滅危惧種となっており、わが国でも「種の保存法」により虎皮や豹皮の売買や貸し借り、譲渡等は原則禁止となっています。
 天正九年(1581)二月二十八日の京都馬揃えの一月前、正月二十三日に信長は明智光秀に命じ、領国内の大名小名御家人たちに京都での馬揃えに参加するよう、朱印状をもって指令させています。翌天正十年(1582)三月、四十九歳の信長と息子の信忠は甲斐の武田勝頼を滅ぼしました。勝頼と共に果てた息子の信勝は十六歳、母は信長の養女でした。徳川家康を通じて織田方に寝返った信玄の婿・穴山梅雪は信長より本領を安堵され、五月に家康と共に安土にお礼に行きました。信長は明智光秀に二人の接待を命じ、光秀は京都と堺で珍しい品々を調達し、五月十五日から十七日まで手厚くもてなした、と太田牛一「信長公記」にあります。ルイス・フロイスの「日本史」によれば、その準備につき信長と光秀が話し合っていた際、光秀の言葉に信長が激昂して光秀を足蹴にした、との噂があったそうです。饗応役を解かれた光秀は毛利との戦いのため出陣を命じられ、坂本城に戻ったのでした。
 光秀は五月二十六日に坂本を出発、亀山城に入りました。信長は二十九日に安土より上洛、本能寺に入ります。六月一日、光秀は軍勢を西にではなく東へ向け、翌早朝、本能寺で信長を、二条で信忠を滅ぼしたのでした。

blog_import_5c77f55b95df0.jpeg

(本能寺址、2018.3)
 その三ヶ月ほど前、甲斐の武田勝頼は新府城を捨て、古府を経て勝沼の大善寺に泊まりました。勝頼はその後、小山田信茂の寝返りにより天目山で果てました。大善寺は養老二年(718)に行基菩薩が開山された古刹。行基菩薩は奈良の菅原寺で天平二十一年(749)に遷化される際、弟子たちにこう遺言しています。


口の虎は身を破る、舌の剣は命を断つ。
口を鼻の如くにすれば、後あやまつ事なし。
虎は死して皮を残す、人は死して名を残す。
(「十訓抄」)


信長も光秀も、口を鼻の如くにしていれば、本能寺の変には至らなかったかもしれません。しかし、天下統一を目前にして「是非に及ばず」(アアだコウだ言っても致し方ない)と炎の中に消えた信長公の名は、偉大なる英雄として四百四十年後の今も消え去ることはありません。
 令和四年(2022)は、寅年。皆さまにとってよき年でありますように。

関連記事

コメント

コメントの投稿

非公開コメント

白山順禮語句検索

白山順禮写真館

Haxanjunrei

松尾如秋

Author:松尾如秋
自由と孤独を愛するアウトサイダーと、森羅万象を統べているものとの一対一の対話
白山と、白山に育まれているすべてのものへの讃歌
2006~奥美濃の藪山を登り始める
2009~白山三禅定道を毎年登拝
2016~19白山美濃馬場の古の山伏の行場「白山鳩居峯」のうち五宿を毎月巡拝、以後随時巡拝