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正三忌

 6月25日は、江戸時代前期の禅僧にして一宗一派を超えた散聖・鈴木正三(すずきしょうさん)和尚のご命日。和尚を偲び、前日24日朝5時、三河の石平山恩真寺にカッパを着て参拝。正三道人手植えの杉、坐禅石と順拝して本堂にて般若心経読誦。


本堂裏の正三和尚墓塔の御前で法要を修し、不動滝の下の岩穴で不動明王を拝みました。



「我南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と云は、放下著放下著と申也。」
「後能(よく)成んと思て勤るは、皆輪廻の業也。然間、万事を放下して、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と息を引切引切、常に死習ひて安楽に死する外なし。」(「驢鞍橋」)

 今年(2018年)1月に鞍ヶ池から則定を経て行脚参拝した時は此処まででしたが、今日は此処から北へ。裏山の三十三観音を順拝し、谷沿いの踏み跡を進み湿地を経て一心に北へ登ってゆくと、やがて「東海自然歩道」へ。



「只念仏申て行脚すべし。亦は油断無、呪陀羅尼をくり、何千遍何万遍と巡礼札に書付、處處に打巡て業障を尽すべし。」(「驢鞍橋」)

ゴルフ場沿いに下って墓苑の北に出、さらに東海自然歩道を降下。アジサイ園を経て6時に千鳥寺に参拝しました。


徳川の旗本であった鈴木正三道人は、若い頃から禅を学んでいましたが、42歳の元和6年(1620)に名利を捨てて出家、五畿を行脚して名僧知識を訪ね、神社仏塔を順拝し、元和9年(1623)に故郷の三河に帰郷、千鳥山に入って修行されました。翌寛永元年(1624)には石平山に庵を結んで修行を続け、諸方の雲納、遠近の男女が正法を求めて訪れました(「石平道人行業記」)。そして寛永9年(1632)に弟の鈴木重成公の寄進で石平山に伽藍を建立し、恩真寺を開きました。


(則定にある正三和尚と重成公の像、2018年1月参拝時)
 千鳥寺から集落を北へ少し歩くと、鮮やかな権現鳥居の奥に鎮座する、白山神社。


般若心経と白山権現ご真言・ご宝号をお唱えしました。来た道を戻り、6時半すぎに恩真寺着、雨中、蓮池の向こうに本堂を拝み、観音経読誦。


坐禅石の上に、しばし正身端坐しました。



「抜がら坐禅を作(なし)、あつか忘然と成て、物を思わざる處を無念無心と思ふ人あり。是大なる錯也。是の如く用る者は、機へりて病者と成、気違と成也。夫仏法の無念無心と云は、一切の上に用る無念無心也。悲む時も悦ぶ時も、万事の上に使ふ無念無心也。」
「仏は万徳円満也と、心を自由に使ふて、世界の用に立が正法也。」
「凡夫心を以て修せずして、何を以て修せんや。今時、無の見に落て、人を損ふ類多し。或は本来空也と澄し居有、是実の甚き也。総而、菩提を求むる有心は、有を離るる事有、本来空と心得居無心は、有を離るる事無。」(「驢鞍橋」)

実際、「本来空なり」などと澄まし込んでいるだけでは、生老病死を始めとするこの世の様々な苦しみの現実に対し、何の役にも立ちません。遠方の被災地の為のボランティアや義援金の他、家族や身近な人たちを守る為にできることをする等、世界の用に立つこと・この世を少しでも住みよくすることを実践する中に、無念無心のはたらきはあります。



「此世をすてて後世をねがへと、おしへ給ふことは、このよをよくして、此世界を、則、浄土になしたまはんため也。けっく、此よをかんようとする人こそ、此世をばすつるなれ。」(「念仏草紙」)

 恩真寺から車で足助へ向かい、7時半に宮平の十王堂(現・神宮山十王寺)にて念仏をお称えしました。


カッパは不要。道路を挟んで向かいには足助八幡宮。


八幡さまの本地は阿弥陀如来、神宮山十王寺は八幡宮の神宮寺でありましょう。

「神といひ仏といふは、水となみとのかはり也。本地一躰にておはします。まづ、日本の御あるじ、天照太神を始奉り、熊野の権現も、本地あみだにておはします。其外の神々、本地、あみだならざるはすくなし。月輪は勢至菩薩、日輪は観音菩薩也、弓矢神とあがめ申、八まん大ぼさつも、本地あみだにておはします。」(「念仏草紙」)

立山和光大権現も、白山越南知権現も、本地は阿弥陀さまです。
 宮平の十王堂は、天草の国照寺に祀られている一仏二十五菩薩が元々おられた処です。正三和尚は石平山恩真寺を開く前年の寛永8年(1631)、大坂に往き、上方代官として大坂にいた弟の鈴木重成の処に泊まっています。ちょうどその頃、隠田の罪人があり、伏見奉行より隠田の男女をみな死刑にせよとの通達があったそうです。当時の伏見奉行は、正三和尚と同年生まれの小堀遠州です。正三和尚は、このような罪で女人が死刑になった例はない、身命を喪するとも、之を訴うべし、と重成を諭し、重成は伏見奉行に三たび書を復して多くの女人を救ったそうです。後日、重成が隠田で死刑になった男たちの供養の為にと、浄財を正三和尚に寄進すると、和尚は「極重悪人を薩(すくふ)は、弥陀尊にしくはなし」と、阿弥陀仏及び二十五菩薩の像を作って足助の十王堂に祀ったのでした(「石平道人行業記」)。

「農業を以て業障を尽すべしと、大願力を起し、一鍬一鍬に南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と耕作せば、必ず仏果に至るべし。只天道に万事任せ奉り、正直を守て、私の欲をかわくべからず。然らば、亦天道の恵みにて、今世後世ともに、よかるべし。今時えて人の云事也、正直計(ばかり)にては、世間渡れずと、是究たる僻事(ひがごと)也。古えより正直を守って、餓死したる者を聞かず。不正直者こそ、古今ともに家を崩し、身を損する也。」(「驢鞍橋」)

寛永14年(1637)に島原の乱が勃発、乱の後に弟の重成公が初代天草代官となると、正三和尚も寛永19年(1642)に天草へ行き、重成に勧めて寺社を復興、三十二宇を建て、円通寺に足助十王堂の阿弥陀さまと二十五菩薩を遷座したのでした(現在は、円通寺の本寺である国照寺に安置)。
 香嵐渓へと歩を進めて巴川の向こうに飯盛山を見上げ、待月橋を渡って香積寺に参拝。



ご本尊は聖観音菩薩。裏山の豊栄稲荷参道を登ってゆくと、途中に十六羅漢と歴代住持のお墓。開創白峯禅師、十一世三栄禅師、二十五世風外禅師。


正三和尚の法友であった三栄禅師の墓前にて舎利礼文と念仏をお唱えしました。飯盛山頂に登って香嵐渓入口に下ると、「参栄禅師供養塔」がありました。


香嵐渓の紅葉は、寛永年間(1624~44)に香積寺十一世参栄(三栄)禅師が般若心経一巻を誦す毎に一本ずつ植えられたそうです。塔前にて般若心経を読誦しました。三栄本秀禅師は、正三和尚が出家後、千鳥山で修行していた時に相見して以降、生涯の法友となりました。正三和尚が聞き集めた話を、和尚の遷化後に弟子の雲歩和尚が寛文元年(1661)に刊行した「因果物語」には、三栄本秀和尚から聞いた話が多く所収されています。その中には立山や白山に関する話もあり、元和年中(1615~24)、東三河・貴雲寺の僧が同行五人と立山に参詣した後、下山中に日が暮れてしまい、とある寺に宿を借りると、寺の老僧が「米モ味噌モ奥ニアリ」と言って出て行きました。奥の蔵へ米を取りに行ってみると、僧が一人倒れており、口から白米がザラザラと流れ出ています。よく見ると、その僧は貴雲寺の師匠でした。仰天したその僧は、「出家人ト成リテ信施ヲキルハ怖敷(おそろしき)事也」と、還俗して名古屋で足軽になったそうです。また、三栄本秀和尚が香積寺から東近江に移った後の話として、東近江の大塚に白山の山伏が還俗して善左衛門と称し、兄の子を養子として寛永9年(1632)に亡くなりましたが、養子は養父を弔うことなく無道心で、次第に痩せ衰えて病者となりました。正保2年(1645)、故善左衛門の兄嫁が俄に口走って言うには、「我ユヅリケル。家財道具。ミナミナ返ベシ。養子痩コトモ。我ヲ弔ハザル故ニ。餓鬼ノ業ヲ授ルナリ。鋤鍬小桶。衣類紙子。何々」と数え上げ、「返セ返セ」と。養子がたまげて、本秀和尚を頼み養父を弔うと、養子の病も治ったそうです。(「因果物語」)
 伊那街道の要所であった足助の町並の常夜灯から、落合橋を渡って馬頭観音さまに参拝。


さらに巴川沿いに歩を進めると、「大峰山役行者尊」の幟が立っており、道路脇の岩壁の上部を見上げると、役行者が祀られていました。



「此前吉野にて大峯懸出の山伏、大太刀を十文字にはぎ、金剛杖を撞、大童に成て通るを見て、扨も役の行者はでかい修行者で在たよと、ひしと機に移り、誠に捨身の修行是の如くならではと思ひ付てより、二王を見出す也。」(「驢鞍橋」)

正三和尚の「仁王禅」の契機は、役行者でした。行者を見上げつつ般若心経と役行者ご真言・ご宝号をお唱えし、大阪の地震で亡くなられた方々のご冥福と、被災地の復興をお祈りしました。

「かへすがへす心にゆだんし給はざれ。あくにはすすみ、善にうときは、心也。されば故人も、心の師とはなるべし。心を師とせざれとおしへおかれ候也。心の師と成ものは、南無あみだ仏也。」(「念仏草紙」)
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松樸裏

Author:松樸裏
自由と孤独を愛するアウトサイダーと、万物の母たる大自然との一対一の対話
2006~奥美濃の藪山を登り始める
2009~白山三禅定道を毎年登拝
2016~19白山美濃馬場の古の山伏の行場「白山鳩居峯」のうち五宿を毎月巡拝、以後随時巡拝