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豊原寺~化生ヶ岳/丸岡・春江放浪1

 2月13日朝7時半、越前・丸岡の豊原寺(とよはらじ)跡へ。先ず、小山の上の金刀比羅神社に参拝。


神社を下り、白山権現にお参りして六本木坂を行道。


小雪が舞っていますが、積もるほどではありません。坂を登りきると、お地蔵さまがおられます。


此処から少し下って、豊原三千坊跡の六地蔵に参詣。


豊原寺は大宝2年(702)に泰澄大師が創建され、平泉寺と並ぶ越前白山信仰の拠点として栄えました。「越前国名蹟考」に、

「古徳の伝に白山禅定は伊弉諾伊弉冊の都城日本秋津島の根源此秘窟豊葦原中津国と云々仍て中間一字を略して豊原寺と訓ふ」

とあります。豊葦原の中つ国とは、高天の原と黄泉の国の間にあるこの世、伊弉諾尊(イザナギノミコト)と伊弉冊尊(イザナミノミコト)によって創生されたこの国です。伊弉冊尊が火之迦具土神(火の神)を産んだときの火傷で亡くなり、黄泉津大神となったことで国作りは中断されますが、須佐之男命の子孫・大己貴命(オホナムチノミコト、大国主神)が出雲を拠点に国作りを進め、出雲に大社を造営することを条件に高天の原の天照大御神の御子・天忍穂耳尊(アメノオシホミミノミコト)に葦原の中つ国を譲ったのでした。そして、天忍穂耳尊は息子の邇邇芸命(ニニギノミコト)を葦原の中つ国に降臨させたのでした。泰澄大師が豊原寺開山の十五年後の養老元年(717)に白山に開かれた三所権現は、

御前峰・・・白山妙理大権現、本地・十一面観音菩薩、垂迹・伊弉諾尊 伊弉冊尊
別山・・・別山大行事権現、本地・聖観音菩薩、垂迹・天忍穂耳尊
大汝峰・・・越南知権現、本地・阿弥陀如来、垂迹・大己貴命

であり、白山三所の祭神は豊葦原の中つ国の創生・発展に関わった神々であることが分かります。
 六地蔵から豊原寺の堂社跡へ行くには作業道を下ればよいのですが、逆に登ってしまいました。なかなか堂社に辿り着かず間違いに気づきましたが、見覚えのある谷を横切りました。四年前(2015.11)に豊原寺から浄法寺山~丈競山と縦走した際、登っていった谷のよう。谷を下ってみると、案の定、豊原寺の閼伽井に出ました!


泰澄大師が越知山から東北の山中に紫雲が昇るのを見、この地に来ると、池中の石から紫雲が湧出していたとのこと。霊水の前で読経し、石段を登って社殿跡へ。


かつては、白山三所権現と新宮(本地・薬師如来)・火之宮(本地・不動明王)の五社が並んでいたそうです。社殿の前に宝塔が残っており、「無垢浄光大陀羅尼経」の経文が記されています。

迦羅城に大婆羅門、名を劫比羅戦荼というもの在り、此の塔の功徳に依って無間の極苦を免れて極楽に往生し、無量の楽を受く。此の塔を一度拝み一度囲繞せば、無間地獄の苦しみを免る云々

天保7年(1836)に建立されたもので、廃墟の中にひっそりと、泰澄大師のお心を伝え続けています。


「泰澄和尚伝記」によれば、泰澄大師は神護景雲元年(767)3月18日に86歳で亡くなりましたが、その前月、称徳天皇発願の百万塔のうち一万基を勧進造立されたとのこと。 称徳天皇の百万塔発願は、「無垢浄光大陀羅尼経」に基づくものでした。
 白山権現ご宝前で勤行を修し、白山三所権現と王子眷属、並びに泰澄大師を供養して化生ヶ岳(けしょうがたけ)へ。天長8年(831)に深蛇大王が化生されたと伝わる山です(「越前国名蹟考」)。山道を登ってゆくと、化生ヶ岳山上はうっすら雪化粧。



深蛇大王(深沙大王)は、葛城修行の守り神。「白山大鏡」(伝・藤原能信(長徳元年(995)~康平8年(1065))作)に、白山の三十七所の秘所のうち第二十三に「深沙龍宮底洞」があり、白山娘が住み、九頭八龍が居す、とあります。白山越前馬場・平泉寺の杉本坊栄祐は十五世紀後半に大峰山で八度修行し、白山美濃馬場・長瀧寺の「奥之坊先師長吏」は大永年中(1521~28)に大峰山で修行中、流れてきた不動明王を長瀧寺護摩堂に祀り、江戸時代初期の長瀧寺・行典法印は

「大峯葛城鳩居峯第七度行人」(長瀧寺真鑑正編」)

と自ら記しています(鳩居峯とは、長瀧寺から尾根伝いの古の行場です)。化生ヶ岳に深蛇大王を感得された豊原寺の昌龍和尚も、白山のみならず、大峰・葛城はじめ諸国の霊山で修行を積まれたのでしょう。深沙大王ご宝前で勤行を修し、山頂へ。


化生ヶ岳は、白山の真西。東に向かって投地礼をしました。
 来た道を下ってゆき、カモシカさんにご挨拶。


西の樹間に丸岡の町や坂井平野を見渡す私を、じっと見守るカモシカ。


私が近くに寄るまで、動きませんでした。カモシカは、神の使いなのカモしれません。社殿跡に戻り、十一面観音さまの石像に日本の母・伊弉冊尊と日本の父・伊弉諾尊を拝みました。さらに下って大講堂跡、華蔵院跡と順拝。


小雪を照らす朝日。豊原寺大講堂の本尊は薬師如来でした。白山越前馬場・平泉寺の講堂の本尊も薬師如来。一方、白山美濃馬場・長瀧寺と白山加賀馬場の諸社の大講堂の本尊は、大日如来でした。坊院跡から六本木坂を下り、10時半に金刀比羅神社下に戻りました。
 車で丸岡城に移動。


今日はこれから、丸岡の町歩き。お城の前に、古墳時代前期~中期(西暦400年前後)の石棺があります。


丸岡城の南方・牛ヶ島で出土したものです。この周辺には、古墳時代以前の縄文時代や弥生時代の遺跡もあります。東に化生ヶ岳を拝み、町へと下ってゆきました。


お城のすぐ南に鎮座する、国神神社。


継体天皇の王子・椀子皇子(まろこのみこ(「日本書紀」)、「古事記」には丸高王(まろこのみこ))を祀る社です。継体天皇の母・振媛(ふるひめ)は丸岡・高向の出身で、天皇は父・彦主人王(ひこうしのおほきみ)を早くに亡くし、高向で養育されました(「日本書紀」)。椀子皇子が生まれた岡には、後に丸岡城が築かれました。
 国神神社の北隣の円光寺に残る、切支丹灯籠。


なぜ丸岡にキリシタンの遺物が?その謎は、すぐに解けました。城下を南へ進むと石城戸町に白道寺というお寺(浄土宗)があり、「有馬家菩提寺」と記されています。


キリシタン大名であった肥前・日野江藩(島原藩)主・有馬晴信の跡を嗣いだ嫡男・有馬直純が島原に建てた菩提寺で、有馬家の移封に伴って日向国延岡、越前国丸岡と移ってきたそうです。有馬氏は幕末まで丸岡藩主だったのでした。私のご先祖さまも島原半島の出、思いがけぬご縁です。境内には有馬直純と妻の日向御前のお墓があり、念仏をお称えしました。
 白道寺から南東へ足を進め、今福の八幡神社に参拝。


さらに進んで、八ツ口へ。


今回の旅の目的地の一つが、此処なのでした。「出雲国風土記」に、大穴持命(大己貴命)が「越の八口」を平定したと記されています。出発の際に意宇(おう)郡の拝志(はやし)郷を通り、越(こし)から帰還すると、意宇郡母理(もり)郷の長江山(永江山)にて
「私が平定した国(葦原の中つ国)は、天つ神の子孫に委ねよう。だが、八雲立つ出雲の国は、私の鎮まる国として青垣山を廻らし、守りぬこう。」
と宣言しています。出雲地方と越(北陸地方)に古くから交流のあったことは、「出雲国風土記」の神門(かむど)郡古志(こし)郷の由来(「古志の国人等到来りて堤を為(つく)り・・・」)や、「古事記」で高天の原から追放された須佐之男命が、出雲の国の「肥の河上」(斐伊川の上流)で「高志の八俣の大蛇」を退治したことからも明らかです。大己貴命が平定したという「越の八口」は具体的な地名なのか定かではありませんが、北陸地方には越後にも越中にも越前にも「八口」「八ツ口」という処があり、出雲に匹敵する越の拠点の痕跡を求め実地に歩いてみたかったのでした。尚、「出雲国風土記」の大己貴命の宣言は、「古事記」で伊弉冊尊が葬られたとされる「出雲国と伯伎国との堺の比婆山」の上流の長江山で為されており、伊弉冊尊・須佐之男命が鎮まる出雲の国を守ろう、との宣言とも受け取れます。(続く)
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松樸裏

Author:松樸裏
自由と孤独を愛するアウトサイダーと、万物の母たる大自然との一対一の対話
2006~奥美濃の藪山を登り始める
2009~白山三禅定道を毎年登拝
2016~19白山美濃馬場の古の山伏の行場「白山鳩居峯」のうち五宿を毎月巡拝、以後随時巡拝