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豪潮律師忌/名古屋順拝

 7月2日、豪潮律師のご命日(天保6年(1835)7月3日)の前日朝、名古屋の長栄寺に参拝。


長栄寺は、豪潮律師が尾張藩主・徳川斉朝に招かれて文化14年(1817)69歳の時に肥後から尾張に移った後、愛知郡東郷村の諸輪にかつてあった泰澄大師開山の長栄寺を、斉朝公の発願により文政6年(1823)に豪潮律師が再興した寺です(「豪潮律師畧伝」)。ご本尊の準提観音さまは、寛政2年(1790)に京都・聖護院の塔頭・積善院で仏師・赤尾右京が彫ったものと伝わります(「豪潮律師畧伝」)。準提観音さまの行者であった豪潮律師は寛政11~12年(1799~1800)に聖護院に出入りしており、光格天皇の勅により積善院に準提観音菩薩の尊像をお祀りしています。


(積善院、2018年4月参拝時)
 豪潮律師晩年の本拠地であった長栄寺本堂前で般若心経と準提観音さまご真言、宝篋印陀羅尼をお唱えし、律師を供養しました。お寺の方のお話では、昔は名古屋城の鬼門鎮護の祈願所として尾張徳川家の庇護を受けていたので檀家はなく、かつて一町四方あった境内も先の大戦の空襲でみな焼けてしまい、残ったのは門と十三重塔のみであったそうです。


昔は殿さまの庇護があったが今は檀家がないので貧乏寺だという話は、昨年(2017年)12月に参拝した三河深溝の松平家菩提寺・本光寺でも聞きました。
 豪潮律師は文政8年(1825)、美濃郡上の白山美濃馬場・白山中宮長瀧寺の大講堂再建の際、長栄寺から弟子たちと共に長瀧寺まで来られ、五日間の本尊遷座供養を勤めておられます(「荘厳講執事帳」)。また、天保4年(1833)には長瀧寺に宝篋印塔を造立しています。


(長瀧寺大講堂と宝篋印塔、2018年6月入峯時)
 長栄寺から東へ歩を進め、豪潮寺(一願山不動院)に参拝。


豪潮律師が葬られた時雨庵(明治維新の際に廃庵)の跡に、律師没後百五十年を記念して建てられた寺院とのこと。律師没後百五十年であれば、1985年創建でしょうか。般若心経と不動明王ご真言・白山権現ご宝号、念仏をお唱えし、境内脇のいくつかの墓塔(宝篋印塔)に宝篋印陀羅尼を誦しました。尼ヶ坂駅へと向かい、尼ヶ坂地蔵尊、片山神社、蔵王山地蔵院と順拝、地蔵院にも宝篋印塔があり、陀羅尼を誦しました。


 享和2年(1802)の肥前小松・大興善寺の塔を皮切りに、八万四千の宝篋印塔造立を発願して九州各地および東海地方に起塔された、豪潮律師。東海地方では、知多郡に律師の塔が多く残っていますが、空襲の激しかった名古屋には残っておらず、文政元年(1818)に名古屋の萬松寺に起てた巨大な宝篋印塔のみは、明治44年(1911)に総持寺が能登から鶴見に移転した際に献納された為、今も残っています。


(鶴見・総持寺の宝篋印塔、2017年12月参拝時)
 宝篋印塔とは、「一切如来心秘密全身舎利宝篋印陀羅尼」を納めた宝塔で、平たくいえば、過去・現在・未来の三世の一切の仏さまの、時空を超えた合同墓。豪潮式の宝篋印塔の特徴の一つである塔身下段の「シッチリヤ」の梵字は、「南無三世一切如来」の「三」とその前後の音。

もし有情(衆生)あって
よくこの塔において
一香・一華をたむけて
礼拝供養すれば
八十億劫にわたる
生死の重罪は
一時に消滅し
生あるうちは災殃を免れ
死ののちは仏の家に生まれるであろう。

もし阿鼻地獄に
堕ちるようなことがあっても
もしこの塔において
あるいは一たび礼拝し
あるいは一たび右遶すれば
地獄の門は塞がれ
菩提の路が開かれるであろう。

(「宝篋印陀羅尼経」、拙訳)

経文にある通り、この塔に香華を手向けて三世のみ仏を礼拝供養し、生きとし生けるものの現世安穏と後生極楽を、祈り続けてまいろうと思います。


(拙作の陶製宝篋印塔)
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松樸裏

Author:松樸裏
自由と孤独を愛するアウトサイダーと、万物の母たる大自然との一対一の対話
2006~奥美濃の藪山を登り始める
2009~白山三禅定道を毎年登拝
2016~19白山美濃馬場の古の山伏の行場「白山鳩居峯」のうち五宿を毎月巡拝、以後随時巡拝