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豪潮律師忌/玉名・天草順礼

 豪潮律師ご命日の翌7月4日、早朝に熊本市内を順拝した後、7時前に上熊本駅から電車に乗車。昨日の強風のためか、安全確認で植木~田原坂間は徐行運転。10分以上遅れて玉名駅に着きました。駅から東へと行道し、繁根木八幡宮(はねぎはちまんぐう)に参拝。


八幡宮の北には、かつて神宮寺の繁根木山寿福寺(天台宗)があり、豪潮律師は宝暦5年(1755)、7歳の時に寿福寺の豪旭法印より得度を受けたのでした。15歳の時から比叡山に登って修行された豪潮律師は、安永5年(1776)28歳の時に師の豪旭法印が遷化されたため、玉名に戻り寿福寺を嗣いでいます(「豪潮律師畧伝」)。尚、「寿福寺と豪潮展」(玉名市立歴史博物館こころピア、平成15年)によれば、豪潮律師が寿福寺住職に就任したのは豪旭法印生前の明和6年(1769)であったようです。
 八幡宮の裏手に稲荷社があり、その手前の「補陀落渡海碑」に参拝。永禄11年(1568)に玉名から補陀落渡海を行じた下野・駿河・遠江の行者たちの供養塔で、阿弥陀三尊の来迎のお姿が描かれています。


三尊に念仏をお称えし、ふと、このような三尊の配置の来迎図を見たことがあると感じました。豪潮律師が尾張に移った後、晩年の文政12年(1829)に白山美濃馬場・白山中宮長瀧寺の依頼で描いた阿弥陀三尊来迎図。三尊の配置が、この補陀落渡海碑とそっくりです。律師は寿福寺でこの碑を拝んでいたはずであり、模写もしていたのかもしれません。
 墓地の境の茂みに宝篋印塔が建っており、明和4年(1767)のもののようです。


師の豪旭法印が起てたものでしょう。後に豪潮律師が八万四千造塔の大願を発し、九州各地および東海地方に起塔してゆくことになる壮麗な宝篋印塔の原型が、此処にあります。
 寿福寺跡に建っているお堂にて、日光菩薩と月光菩薩に参拝。寿福寺は明治の神仏分離で廃寺とされ、豪潮律師造立の薬師三尊のうち、ご本尊は菊池市の聖護寺におられるそうです。般若心経と薬師如来ご真言、豪潮律師ご宝号をお唱えしました。


北へ歩を進めて国道を渡り、伝左山古墳に参拝。8時をすぎ、日差しが暑いです。古墳の西側に足を進めると、いかにも豪潮律師らしい壮麗な宝篋印塔が聳え立っていました!


文化5年(1808)の宝塔で、高さは四mくらい。藪蚊に刺されつつ宝篋印陀羅尼を誦して豪潮律師を供養し、熊本の復興を祈願しました。

若し我れ滅後の 四部の弟子
是の塔前に於いて 苦界を済わんが故に
香華を供養して 至心に発願し
神呪を誦念せば 文文句句に
大光明を放ちて 三塗を照觸し
苦具皆碎(くだ)けて 衆生の苦を脱し
仏の種の牙萌えて 随意に十方の
浄土に往生せん
(「宝篋印陀羅尼経」)


豪潮律師は比叡山に登った後の16歳夏から87歳で名古屋で遷化されるまで、誓って蚊帳を用いず、血を蚊に施していたそうです(「豪潮律師畧伝」)。
 国道に戻ると、南西に島原半島の雲仙岳が遥拝できました。


かつて、玉名(高瀬)は港町として栄え、永禄7年(1564)に平戸から京都へ向かったルイス・フロイス神父、ルイス・デ・アルメイダ修道士らの一行は、平戸から船で島原半島南端の口之津、島原を経て有明海を渡り、高瀬に上陸後、陸路で豊後へ行き、船で瀬戸内海を四国伝いに進んで堺に至っています(ルイス・フロイス「日本史」)。電車の遅れもあるので早めに玉名駅へと戻り、熊本駅で下車して天草行きのバスに乗りました。
 車窓から有明海の向こうに雲仙岳を遥拝しつつ、天草へ。


11時半すぎに本渡に着き、本渡諏訪神社に参拝。


寛永14~15年(1637~38)の天草・島原の乱の後、初代天草代官となった鈴木重成が再建した社です。重成公は兄の鈴木正三和尚を三河の恩真寺から天草に招いて多くの寺社を建立・再建し(正三和尚の天草掛錫は寛永19~21年(1642~44))、有馬の原城で全滅した一揆勢の老若男女の首塚を長崎(西坂)・有馬・天草(富岡)の三ヶ所に建てて供養し、乱の要因であった過重な石高の半減を幕府に訴える等、天草の復興に努めました。正午、祇園橋を渡り祇園社(現・八坂神社)に参拝。


下を流れる町山口川は、天草・島原の乱勃発の際、天草四郎率いる一揆勢が唐津藩飛地であった天草の富岡城代・三宅藤兵衛の軍勢と戦った処で、川は両軍の死者の血で染まったそうです。三宅藤兵衛は敗走し、自刃しました。祇園社にて牛頭天王に参拝し、川沿いに足を進めてゆきました。
 本妙寺から本戸城跡へと登ってゆき、山上の殉教千人塚に参拝。


天草・島原の乱の幕府側・一揆側双方の戦没者を祀った塚です。天草キリシタン館へと歩を進め、天草で布教し天正11年(1583)に天草で亡くなったルイス・デ・アルメイダ神父の記念碑に掌を合わせました。


ポルトガルの外科医および商人として平戸に往来していたアルメイダは、フランシスコ・ザビエル神父と共に天文18年(1549)に来日して地道に布教を続けていたコスメ・デ・トルレス神父を山口に訪れ、イエズス会に入会しています(フロイス「日本史」)。平戸、山口、豊後、口之津などで布教したトルレス神父も、元亀元年(1570)に天草で亡くなっています。天草キリシタン館の屋上に出ると、北に雲を被った島原半島・雲仙岳が拝めました。


キリシタン館を拝観してマリア観音さまに参拝。中国から伝わった、白磁の慈母観音さま・善財童子・龍女の像であるマリア観音さまに掌を合わせ、天草・島原の乱の一揆側・幕府側双方の戦死者のご冥福をお祈りしました。
 キリシタン館から下って13時すぎに明徳寺に参拝。


正保2年(1645)に鈴木重成公が建立。鈴木正三和尚は弟の重成公を助けて天草に32宇を建て、「破吉利支丹」を書して寺ごとに納めたことが、弟子・恵中和尚の「石平道人行業記」に記されています。正三道人の「破吉利支丹」には、仏法の大意が簡潔に説かれています。

「仏性法界に普して、一切衆生の主人と成。去間、一切衆生悉有仏性と説給ふ也。喩ば、天上の一月の万水に移るが如し。大海にも一月、一滴の露にも一月有に似り。心法無形にして妙用を現ず。眼に有ては物を見、耳に有ては声を聞、鼻に有ては香をかぎ、口に有ては物を云。手に有ては物を取、脚に有ては歩み行、此心仏を悟る時は仏也。此心仏に迷ふ時は凡夫なり。去ば、自己の仏性を知しめん為の方便に、或時は本来面目と名付、或時は本分の田地と云、大円覚と云、大通智勝仏と云、大日、薬師、観音、地蔵菩薩などと、異名数多しといへども、仏に二仏なく、法に二法なし。諸法実相と観ずる時は、松風流水、妙音と成、万法一如と悟る時は、草木国土、則成仏といへり。」
(「破吉利支丹」)

ただし、「破吉利支丹」の初刊は重成公も正三道人も没後の寛文2年(1662)であり、天草キリシタン館の展示によれば、天草の寺院からは見つかっていないそうです。
 明徳寺から、本村の東向寺へと行脚。真昼の日差しと雲、蒸し暑さ。時折り吹く風が涼しく、ポツポツと降る微雨も有難いもの。広瀬川沿いに西へ進んで一ノ瀬橋を渡り、右手に現われた準提観音さまに参拝。



14時に東向寺に到着。


鈴木重成公が建てた天草四ヶ本寺の一つで、正三和尚が招いた中華珪法禅師を開山として慶安元年(1648)創建。広々として、清々しい境内。本堂前で般若心経を読誦し、歴代住職のお墓へ。東向寺(曹洞宗)開創の一世紀後の寛延3年(1750)、此処で天草出身の瑞岡珍牛禅師(当時8歳)が得度を受けています(「瑞岡珍牛禅師小傳」)。珍牛禅師は十代後半、太宰府の観世音寺に遊学した際、六歳年下で玉名の寿福寺で得度した豪潮律師と出会い、生涯の法友となりました。珍牛禅師は後に東向寺、信州松本・全久院、美濃・龍泰寺、大阪・法華寺に住した後、文化14年(1817)75歳の時、尾張藩主・徳川斉朝に招かれて名古屋の萬松寺に住しています(「瑞岡珍牛禅師小傳」)。同年、69歳の豪潮律師も斉朝公に肥後から尾張に招かれて萬松寺に掛錫、斉朝公の病の加持をしています(「豪潮律師畧伝」)。「豪潮律師畧伝」によれば、斉朝公に豪潮律師の加持を受けるよう勧めたのは珍牛禅師であり、「瑞岡珍牛禅師小傳」によれば、斉朝公に萬松寺住職として珍牛禅師を勧めたのは、豪潮律師であったようです。

「これより同道唱和して、大に仏法を挙揚せられ、二師の名、今猶ほ尾濃の地に信敬せらる。」(「瑞岡珍牛禅師小傳」)


(鶴見・総持寺の豪潮律師宝篋印塔(2017年末参拝時)。文政元年(1818)に萬松寺に建立。明治44年(1911)に総持寺が能登から鶴見に移った際、萬松寺より奉献された。)

墓前にて舎利礼文と念仏をお唱えし、傍らに建つ法華経一字一石塔の慈愛に満ちた観音さまに観音経読誦。


東向寺の向かいのお堂には準提観音さまが祀られており、当地の準提観音さまへの信仰の厚さが感じられます。この準提観音さまは、キリシタンを助けたと伝えられているそうです。豪潮律師が東向寺を訪れたかどうかは分かりませんが、準提観音さまの行者であった豪潮律師の信仰の源泉は、故郷・肥後にあったに違いありません。珍牛禅師も、名古屋・萬松寺で文政2年(1819)に豪潮律師が著した「大聖佛母準提懺法」の跋文を書いておられるそうです(「瑞岡珍牛禅師小傳」)。


 来た道を戻って一時間強で本渡のバス停に着き、帰路につきました。豪潮律師が、故郷の先人・故郷に足跡を残した先徳たちから多くを学んだことに、気づかされた旅でした。

客人よありたきままにあらばあれ家のあるじは南無阿弥陀仏(豪潮律師)

まうねんのまろふど人はあらばあれなむあみだ仏ぞあるじならまし(正三道人「念仏草紙」)

南無阿弥陀なむあみたふの外はみなおもふもいふも迷ひなりけり(豪潮律師)

なむあみだたすけたまへのほかはみなおもふもいふもまよひなりけり(正三道人「念仏草紙」)
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松樸裏

Author:松樸裏
自由と孤独を愛するアウトサイダーと、万物の母たる大自然との一対一の対話
2006~奥美濃の藪山を登り始める
2009~白山三禅定道を毎年登拝
2016~19白山美濃馬場の古の山伏の行場「白山鳩居峯」のうち五宿を毎月巡拝、以後随時巡拝