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青い牛

ひっそりとした 正月
世界は白々しく 明ける
きみと一緒にいたい夜も昼も!
何も変わらない 正月
この正月・・・
いつかまた会えるだろう
いつかまた会えるだろう・・・
(U2「ニュー・イヤーズ・デイ」、拙訳)

 ドラえもんのどこでもドア、アラビアンナイトの魔法の絨毯、孫悟空の觔斗雲(きんとうん)。疫病のさ中にあっては、古今東西誰もがこのようなモノにあこがれるもの。しかし、生身の現代人にはオンラインで会えるのがせめてもの慰めです。
 孫悟空や猪八戒は雲に乗れても、七世紀前半にインドへ取経の旅に出た玄奘三蔵法師は、徒歩か馬に乗るしかありませんでした。二十一世紀前半の私たちには車や高速鉄道、船、飛行機といった便利なノリモノがあり、未来人は觔斗雲やどこでもドアも使えるやもしれません。が、便利なモノも適切に使わなければ、かえって仇となります。ウイルスも細菌も、私たちをノリモノとして瞬時に移動できることになるワケですから・・・。
 昔、老子爺さんは周の徳が衰えたのを見てとると、周の都・洛邑(後の洛陽)から函谷関を通り、関守の尹喜(いんき)に道徳経五千言を書き残して西へと去りました。
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前漢の劉向(紀元前77~紀元前6)作と伝わる「列仙伝」には
「青牛の車に乗って去り、大秦に入る。」
とあり、老子爺さんは青い牛に曳かせた牛車に乗って、函谷関から秦の国へと入ったようです。前漢の司馬遷の「史記」(紀元前90年頃完成)や晋の葛洪(283~343)の「神仙伝」には青牛のことは記されていませんが、「神仙伝」には老子爺さんが崑崙山に昇ろうとし、安息国(ペルシャ)まで行こうとしていたとも書かれています。「史記」には五千言を書き残して去った後のことは誰も知らない、とあり、「列仙伝」には尹喜が老子爺さんと共に西域を教化した、とあります。終南山には老子爺さんのお墓も道徳経五千言を書いたと伝わる処も現存し、現実の老子爺さんは周の洛邑から青牛に曳かせた車に乗って、秦の終南山麓に移住したのでしょう。
 「西遊記」には、老子爺さんが神格化された「太上老君」のおられる離恨天兜率宮(とそつきゅう)から、老君の青牛が逃げ出して下界で大暴れする話があります。青牛の番をしていた童子が、老君の煉鍛した丹薬を拾ってつまみ食いし、七日間眠ってしまいます。青牛はその隙に老君の「白森森」(真っ白)なリング「金剛琢」を取って下界に降り、兕大王(じだいおう)となって通りすがりの三蔵法師たちを捕まえてしまいました。この「金剛琢」を使えば何でも奪い取ることができ、孫悟空は如意金箍棒(にょいきんこぼう)を奪われ、玉帝が派遣した天の援軍たちの武器も、仏さまが十八羅漢に渡した金丹砂も、尽く吸い取られてしまったのでした。
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 仏さまからの言伝てを受けた孫悟空は、觔斗雲に乗って離恨天兜率宮へとひとっ飛び。太上老君は青牛が逃げ出したことに気づき、悟空と共に下界へ降りて芭蕉扇で妖怪を扇ぐと、青牛は本の姿に戻りました。老君は金剛琢を青牛の鼻輪にし、その背に乗って離恨天へと帰っていったのでした。
 そもそも、この「白森森」(真っ白)なリング「金剛琢」とは、孫悟空がその五百年前、斉天大聖と称して天界で大暴れし、故郷の花果山に戻って玉帝派遣の天の大軍と戦った際、太上老君が下に放り投げて悟空の頭に命中させ、一旦捕縛された時の宝輪。「西遊記」の太上老君曰く、このリングを使って、かつて函谷関を出て西域を教化したのだそうです。
 太上老君が乗る青牛でさえ、時には仇となるもの。青牛に白い鼻輪をつけるように、私たちも便利な車や鉄道、船、飛行機、ドローン等の取り扱いには十二分に気をつけねばならないでしょう。そして、私たちの心と体の取り扱いにも。

「国は小さく、住民は少ない。
様々な機器があっても使わせず、
住民には命を大切にさせ遠くに行かせない。
船や車があっても乗らず、
武器具があっても出陣せず、
住民に文字でなく縄目使わせる、太古のように。
郷土の食べ物おいしくいただき、
郷土の衣服を着てよろこび、
習俗楽しみ、住居で安らぐ。
隣の国と相望み、聞こえるニワトリ・イヌの声。
だが住民は老いに至るまで、行き来しようとも思わない。」
(「老子」第八十章、パンデミック訳)

現実の老子爺さんは、そう説きながらなぜ青牛に曳かせた牛車で洛邑を去り、終南山麓へと移ったのでしょう?おそらく、自らが理想とする天地自然の道にかなった生活を、実践するための移住であり、隠棲であったのでしょう。
 「荘子」雑篇・寓言篇によれば、老子爺さんが宋の国の沛から秦の国へと向かう道中、陽子居という人が教えを乞いに来ています。老子爺さんから
「そんなに目をイカらせておっては、誰がアンタに寄ってこよう。」
と言われ、

「この上なき白は汚れたよう、
広大な徳は足りぬよう」
(「老子」第四十章、パンデミック訳)

と諭されハッと気づいた陽子居。老子爺さんに会いに来る時は陽子居に席を譲って離れていた宿の客たちが、その帰りには陽子居と席を取り合ったそうです。

「キラキラした宝玉のようではなく、
ゴロゴロした石ころのようでありたいものだ。」
(「老子」第三十九章、パンデミック訳)

「鋭さを弱め、もつれを解き、
光を和らげ、塵に同じる」
(「老子」第四章・第五十六章、パンデミック訳)

老子爺さんが書き残した道徳経五千言は、二十一世紀のパンデミック下の私たちに、より天地自然の道にかなった生き方を示唆してくれています。
 2020年、コロナ一年目。それまで町から山に登りに行っていた野人は、老子爺さんの五千言に学び、山の庵を避コロナ・避温暖化、そして自然との折り合いの拠点として使い始めました。夏から十二月前半まで、カモシカやシカ、キツツキやトラツグミたちと出会い、折り合ってきました。
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真冬は積雪・凍結とどう折り合ってゆくかが課題です。2021年は、丑年。コロナ二年目、青い牛を乗りこなしながら、白山順禮の生活を続けてゆこうと思います。

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松樸裏

Author:松樸裏
自由と孤独を愛するアウトサイダーと、万物の母たる大自然との一対一の対話
2006~奥美濃の藪山を登り始める
2009~白山三禅定道を毎年登拝
2016~19白山美濃馬場の古の山伏の行場「白山鳩居峯」のうち五宿を毎月巡拝、以後随時巡拝