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マダニフィストの再来~無為・自然1

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 俺の名はマダニフィスト、ある野郎の心に寄生している魔ダニだ。奴はコロナで遠出できなかった四月と五月、老子爺さんの道徳経五千言を訳してすごしていた。老子爺さんや荘子オジさんの教えといやぁ、「無為自然」と知ったかぶりした奴らは宣(のたま)う。だがなぁ、老子道徳経五千言の中には「無為」や「自然」という語はあっても、「無為自然」なんて言葉はどっこにもありゃしねぇ。「荘子」にもそんな言葉はねぇし、老子爺さんの伝記が書かれてる「史記」や「神仙伝」にだって「無為自然」なんて語は全くねぇ。老荘思想に本来関係なかった不老長生の神仙術が混ざってできた道教の書でも、「周易参同契」や「抱朴子」「真誥」「黄帝内経」、どっこを探しても「無為自然」なんて書かれてねぇんだ。察するところ、老荘=無為自然というレッテルは、そんなに古いもんぢゃなさそうだ。老子爺さんは

「誠実な言葉は美しくない、美しい言葉は誠実でない。」(第八十一章、パンデミック訳)

と説いたが、「無為自然」を吹聴する輩こそ誠実ぢゃねぇぜ。知ったかぶりしてねぇで、後漢末の五斗米道の創始者・張陵に倣って「老子道徳経」を声出して謙虚に読んだ方がいいぜ。老子爺さんの中国語は簡潔で音韻もよく、とても読みやすいもんだ。因みに、張陵の孫の張魯(~216)は漢中を支配して曹操や劉備とも張り合ったもんだ。後に曹操に敗れて仕え、好遇されたもんな。
 中国天台宗の祖・智顗(ちぎ、538~597)さんは「摩訶止観」の中で、荘子が「貴賎、苦楽、是非、得失は、みなそれ自然なり」と言っているのを、因縁果報をないがしろにする外道の見解として批判している。たしかに仏さんの教えは、苦しみの原因があって苦しみがあり、苦しみの原因を滅する道によって苦しみを滅するワケだから、因縁果報はないがしろにできない。それはいいが、荘子オジさんは「貴賎苦楽是非得失は、みなそれ自然なり」なんて一言も言っちゃいねぇ。わが国の道元禅師も「正法眼蔵四禅比丘」の中で「摩訶止観」の引用を孫引きし、
「貴賎苦楽是非得失、みなこれ善悪業の感ずるところなり」
と批判しているが、智顗先生も道元さんも「荘子」をきちんと読んでいなかったようだな。良寛さんは諸国行脚中、土佐で「荘子」を読んでたらしいがな。
 荘子オジさんは「貴賎は自然なり」なんて書いてない。

「貴賎に時有り、未だ以て常と為すべからざる也。」(外篇・秋水篇)

つまり、貴いか賎しいかは時によって変わるもので、同じことをやっても、その結果は時と状況によって違うと説いているのさ。ぢゃあどうすりゃよいのか?

「夫れ固(もと)より将(もっ)て自(おの)ずからに化す。」(同)

時や状況に応じて自ずからに変化してゆくこと、貴をも賎をも厭わず、貴にも賎にも固執しないこと、レッテルを貼らないことだ。「自化」という語は「自然」(自(おの)ずからそうである)に近い。司馬遷の「史記」(紀元前90年頃完成)には

「李耳(老子)は無為にして自ずから化し、清静にして自ずから正す。」(老子韓非列伝)

とあるぜ。「荘子」内篇には、「自然」という語は「徳充符篇」の一例だけだ。

「吾の所謂(いわゆる)情無しとは、人の好悪を以て内に其の身を傷(やぶ)らず、常に自然に因りて生を益さざるを言う也。」

荘子オジさんは「自(おの)ずからそうであるあり方」に順った。ことさらに寿命を延ばすことなんてやらなかった。老子爺さんも

「死んで忘れられぬ者こそ長寿だ。」(第三十三章、パンデミック訳)

と説いた。不老長生なんてことは一言も言っちゃいねぇ。
 「荘子」の中で「無為自然」に最も近い言葉は、外篇・繕性篇に出てくる。

「古の人は混芒(混沌)の中に在り、一世と与(とも)に澹漠(たんばく、恬淡寂莫)を得たり。この時に当たりては、陰陽和静し、鬼神擾(みだ)れず、四時節を得、万物傷(そこな)わず、群生夭せず、人は智有りと雖(いえど)も之を用うる所無し。此を之、至一と謂う。是の時に当たりては、之を為す莫(な)くして常に自然なり(莫之為而常自然)。」

古きよき時代だなぁ・・・。「外篇・至楽篇」には

「天は無為にして之を以て清く、地は無為にして之を以て寧(やす)し、故に両無為相い合して、万物皆化す。(中略)天地は無為なり、而して為さざる無き也(天地無為也、而無不為也)。」

天地はことさらなことをしでかさない、だから天地も万物も自(おの)ずからに生成変化してゆけるのさ。老子爺さんはこう述べた。

「天は道と一つであればこそ清らかに、
地は道と一つであればこそ安定し、
・・・
大気がいつもキレイであろうとするなら、
温室効果ガスも雲もなくなり、放射冷却で火星のようになってしまうだろう。
大地がいつも安定しようとするなら、
地殻にひずみがたまって大地震が発生するだろう。」(第三十九章、パンデミック訳)

「学問をする者は日に日に知識も欲も増やし、
道を行じる者は日に日に知識も欲も減らす。
減らし減らして無為に至る、
何もしでかさずして、すべてやれているのだ(無為而無不為)。」(第四十八章、パンデミック訳)

 老子爺さんも「自然」という語を使っている。

「最もよい統治者は、なんと深く言葉を慎むことか、
立派に事を成し遂げても、民衆は思うのだ、
「我らは自(おの)ずからにこうなったのだ(我自然)」と。」(第十七章、パンデミック訳)

「人は大地を依り処とし、大地は天の運行を依り処とし、天は道のはたらきを依り処とし、道は自(おの)ずから然ることを依り処とする(道法自然)。」(第二十五章、パンデミック訳)

だが、「無為」と「自然」という語が同時に使われている章は第六十四章のみだな。

「何かしでかそうとする者は敗れ、
強くこだわる者はそれを失う。
聖人は何にもしでかさない、だから敗れない(聖人無為也、故無敗也)。
強くこだわるモノがない、だから失うモノもない。
・・・
聖人は欲しがらぬことを欲し、
得難い宝など目もくれぬ。
学ばぬことを学び、
人の失ってしまった処に立ち帰り、
万物の自然なあり方を手助けして、
あえて何にもしでかさないのだ。
(能輔万物之自然、而弗敢為)」
(第六十四章、パンデミック訳)

老子爺さんの「無為」とは、何にもせずにボーッと生きてることなんかぢゃねぇ。ボーッとしていりゃあ、必ずいろんな事に追いまくられてバタバタしでかすハメになる。ぢゃあどうすりゃいいのか?

「何にもやらないことをやり(為無為)、
無事こそ何よりのこととし、
味なき空気をたっぷり味わう。
感染小さいうちこそ大きくするな、
患者が少ないうちこそ増やしちゃならぬ、
怨まれようとも徳で応じよ。
難しいことにゃ易しいうちに手をつけよ、
大きなことを小さなうちに取り扱え。
天下の難事は安易なことから起こり、
天下の大事は些細なことから生まれる。
聖人はそれが小さなうちに
手をつけるからこそ、大功を成し遂げるのだ。」(第六十三章、パンデミック訳)

物事が小さいうちに一つ一つ手を打っておけば、「無為」でいられる。何事も厭うことなく、こだわることもなければ、「自然」でいられるのさ。俺らもことさらなことはせずに野山でアンタらを待ち受け、アンタらを厭わず、アンタらばかりに固執もせず、無為・自然にアンタらと共存させてもらうぜ、よろしくベイビー。
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松樸裏

Author:松樸裏
自由と孤独を愛するアウトサイダーと、万物の母たる大自然との一対一の対話
2006~奥美濃の藪山を登り始める
2009~白山三禅定道を毎年登拝
2016~19白山美濃馬場の古の山伏の行場「白山鳩居峯」のうち五宿を毎月巡拝、以後随時巡拝