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久々利白山神社~浅間山~柿下放浪

 美濃地方では、今月(2018年7月)第一週は連日の雨で津保川で洪水、長良川上流等で崖崩れが発生しましたが、その後は連日の猛暑となり、今日(7月18日)午後には、ついに多治見と美濃で40℃を超えました。酷暑の中、可児市久々利地区を放浪しました。
 久々利にある可児市郷土歴史館には、かつて富士山頂・剣ヶ峰直下の道沿いに祀られていた銅造の大日如来坐像が安置されています。二年前(2016年)10月、多治見陶器まつりの帰りに此処に寄った際、拝観して驚いたのですが、この大日如来さまには首がなく、腕や膝に
 天文十二白癸卯
 五月十六日
 濃州可児郡下荏戸之郷
 金屋村 願人九郎二郎 同石蔵
の銘文があります。天文12年(1543)、可児・今渡の金屋で作られたもので、明治の廃仏毀釈で破壊され投げ棄てられていたものが、御殿場の東岳院に安置され、平成18年(2006)に可児市に寄贈されたとのこと。「冨士山真景之図」(嘉永元年(1848))の「八葉第一ノ高峯劍ノ峰」の図中に、「天文十二大日」として描かれているのが、この仏さまです。

「けんのみねのさかみちにも大日あり、天文十二癸卯年濃州の人建立とあり」(「冨士山真景之図」)

「可児町史」によれば、下荏戸(しもえど)の一角に室町時代末期に鋳物師の集落ができ、「金屋村」と名づけられました。金屋村の鋳物師が作った鰐口は、飛騨の千光寺(永禄9年(1566)銘)と御嵩の願興寺(天正12年(1584)銘)に残っており、戦時中の金属供出によって鋳つぶされ武器にされた梵鐘の銘文の記録にも、久々利、御嵩、尾張国犬山、三河国加茂郡、信濃国木曽郡須原の寺社の、永正12年(1515)から元和4年(1618)までの梵鐘に、金屋村の鋳物師の名が見られます。


(千光寺、2013.3参拝時)


(願興寺2017.11参拝時)
 午前10時頃、久しぶりに拝観しようと館内へ向かいましたが、今日から7月20日まで臨時休館とのこと・・・。郷土歴史館のすぐ北にある、室町~戦国時代の久々利氏(守護大名土岐氏の一族)の居城・久々利城へと登ってゆきました。本丸と北の丸の間から、南の眼下に白山神社の小山、彼方には山頂に浅間神社が鎮座する浅間山。


城を下って圓明寺に参拝し、久々利川を渡って小山の上の白山神社に参拝。


蒸し暑く、坂を登るだけでも汗が吹き出ます。ご宝前で般若心経と白山権現ご宝号をお唱えし、南に下って県道から小渕ダム左岸の遊歩道を歩いてゆきました。


 高速道路をくぐって沢沿いの道を遡ってゆき、11時半頃、ゲートのある林道に入りました。しばらく登ってゆくと、右手に滝のような流れが見え、近づくと、滝の脇に大きな窟がありました。


窟の奥には、名号碑。古の浅間山の行者が籠っていたのでしょうか。念仏をお称えし、滝の水で身心を清めました。


両脇にシダが茂るジュラシックな林道を登ってゆくと、やがて山道となり、正午に浅間山登頂。南側(多治見)の展望が開け、眼下に美濃焼卸センター(毎年10月のたじみ陶器まつりの会場)やアマゾンの巨大倉庫、彼方には多治見市街が見渡せました。


372mの山頂も、暑いです。山頂にて宝篋印陀羅尼を誦し、北へ歩を進めて浅間神社に参拝。


般若心経をお唱えし、富士浅間大菩薩と富士山開山・役行者、村山修験の開祖・末代上人を供養。豪雨被災地の復興を祈願しました。
 浅間宮から、参道ではなく北側への踏み跡を下ってゆくと、やがて道沿いに江戸時代の観音さまが現われました。


麓から三十三観音が祀られていたようで、かつては北側からの登拝路があったのでしょう。この辺りにサクライソウの自生地があるらしいのですが、周辺を徘徊したものの、猛暑の中、咲いている花は一輪も見当たりませんでした。三十三観音の古道をさらに下ってみると、ゴルフ場にぶつかりました。かつての道は、遮られていました。中腹の林道を南西側に下ってゆき、途中から西への小道に足を進めると、「一の注連(しめ)」と書かれた案内板が現われました。


かつては、女人は此処までしか登ってはならなかったとのこと。この辺りは、西側からの登拝路であったようです。やがて13時半に鳥居をくぐり、県道に出ました。


西側からの参道入口です。祀ってある観音さまたちは、ゴルフ場開発で下ろされた観音さまでしょうか?


 猛暑の中、県道を北へ。手ブラなので、喉がカラカラです。柿下防災溜池の水を眺めつつ、せめて心を潤し、ようやく現われた自販機で水分補給。潮音寺の向かいに熊野神社の鳥居があり、奥に見える山の上に鎮座する熊野神社の、遥拝所であるようです。


熊野権現を拝み、山の方へと歩を進めました。山を抜けるトンネルをくぐれば郷土歴史館に戻れそうなので、山裾へ行ってみましたが、道がよくわからず山沿いに北へ。ふと、山裾に防空壕らしき穴がポッカリ開いているのに気がつきました。


可児でも空襲があったはずなので、此処に逃げていたのだろう、と思いましたが・・・歩を進めてゆくと、一つ二つばかりでなく、防空壕が’ほぼ等間隔に次々と現われてきます。


中にはいると、涼しいです。防空壕は、気候変動の現代においては、猛暑や竜巻からの避難にも活用できるのではないでしょうか。尚、帰宅後に調べてみると、柿下には先の大戦末期に地下軍需工場が作られていたそうで、南北七百メートルにわたる山の下に、網の目のように防空壕が掘られていたのでした。当時の米軍の調査報告書に、詳細な図面が残っています。
 久々利川沿いに出て東へ歩を進め、景行天皇が行幸されたと伝わる泳宮(くくりのみや)に参拝。


境内の大日如来像に参拝し、14時半に郷土歴史館前に戻りました。帰路の途中、戦国時代に富士山に大日如来像を奉納した鋳物師の村・金屋へ。木曽川の対岸に駐車し、橋の向こうに富士浅間宮を遥拝。


木曽川の水は、先日の豪雨でまだ濁っているようです。


橋を渡って富士浅間宮に参拝。


東に歩を進めて龍洞寺にお参りしました。境内に、天正年間の「龍の枕石」が祀られていました。


「金屋村由来」(「金屋遺跡」発掘調査報告書(1989.3))に所収)によれば、河内の鋳物師・長谷川家次が道ノ奥(陸奥)へ下る途中、この地で青天俄に震動し、池より青竜が天に上った為、当地に居住することにし、河内国より親族家来を呼び寄せて鋳物師場をしつらえたのが、金屋村の始まりだそうです。また、龍洞寺に青龍池と河内守(家次)腰かけ石があるとも記されています。「龍の枕石」が、「河内守腰かけ石」でしょうか?金屋遺跡の跡地は、開発されて金屋村を思わせるものはありませんでした。木曽川に戻り、かつての渡し場辺りから下流を望みました。


 三河の鈴木正三和尚が聞き集めた話を弟子の雲歩和尚が刊行した「因果物語」に、三河の鋳物師・市兵衛が石巻山(豊橋市)の鐘を盗み、寛永の始め頃(1624~)に白山に登った際、回りより焔が焼け揚がり、生きながら地獄に落ちたことが記されていますが、可児・金屋村の鋳物師が富士山に奉納した仏像を破壊した人や、戦時中に武器にする為に鐘を鋳つぶすことを命じた人も、同様でありましょう。この焼けるような暑さや天候不順も、人間の活動の因果でないとは言いきれません。自分のやったことの報いは、何らかの形で必ず返ってくるように、人間のやったことの報いは、何らかの形で人間に返ってくるものでしょう。誰のせいにもできません。己れを清め、助け合ってゆくしかありません。
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松樸裏

Author:松樸裏
自由と孤独を愛するアウトサイダーと、万物の母たる大自然との一対一の対話
2006~奥美濃の藪山を登り始める
2009~白山三禅定道を毎年登拝
2016~19白山美濃馬場の古の山伏の行場「白山鳩居峯」のうち五宿を毎月巡拝、以後随時巡拝