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日代上人・末代上人~白山と富士山

 「本朝世紀」に、久安5年(1149)、駿河の末代上人が富士山に埋納する為の写経の料紙を鳥羽法皇に献上し、法皇が京の人々の結縁の為、大般若経の如法写経会を行ったことが記されています。4月16日の条には、近日中に如法大般若経写経会がある旨と共に、末代上人の経歴が書かれています。(この記事を末代上人が富士山頂に大日寺を開いた時の記事と勘違いしている方がおられるようですが、「本朝世紀」のこの記事は、末代上人の請により鳥羽法皇が発願された如法写経会の記事で、上人の経歴はそれよりも昔のことでありましょう。)
 「本朝世紀」には、末代上人(富士上人)は久安5年(1149)までに富士山に登拝すること数百度、山頂に大日寺を建て、また、越前の白山の「龍池」の水を酌んだ方であると紹介されています。近年は、富士山に埋納する為の一切経を、比叡山の慈覚大師(円仁上人)が始められた「如法写経」に倣って書写することを関東の庶民に勧進し、残った六百余巻の料紙を携えて上洛し、鳥羽法皇に献じたのでした。


(比叡山横川・根本如法堂、2013.11参拝時)
そこで、法皇は京の人々の結縁の為、大般若経六百巻の如法写経会を行うことにされたのでした。4月26日、大般若経写経の為に白河泉殿の裏に仮屋が建てられ、懺法が修されています。


(白河泉殿(白河南殿)跡、2018.7)
同日、法皇自らも般若心経と仏頂尊勝陀羅尼を書写する為、二條の仏頂堂で懺法が修され、5月2日に書写されています。京の人々が写経した如法大般若経は、5月13日に東山七條末の藤原清隆の御堂で供養され、結縁の道俗は「雲の如く霞の如し」であったそうです。大般若経と、法皇宸筆の般若心経・尊勝陀羅尼を賜った末代上人は、埋納する為に富士山へと戻ったのでした(「本朝世紀」)。尚、鳥羽法皇は末代上人の請により白山・御前峰頂の大御前社に鰐口と錫杖、大汝峰と別山頂の社にも錫杖を奉納されています(「白山之記」)。


(白山・大汝峰より望む御前峰と別山、2018.6登拝時)
 ところで、「本朝世紀」には
「昔、天喜年中(1053~58)、日泰上人なる者有りて、白山に登りて龍池の水を酌む。末代上人は、若しは是れ日泰の後身か。」
と書かれています。白山で龍池の水を酌んだ末代上人は、一世紀前に白山・龍池の水を酌んだ日泰上人の生まれ変わりではないか、と云われていたようです。白山で「日台聖人」が御厨池(みくりやのいけ)の水を汲んだことは「古事談」に記されており、御厨池は深山中にあり、諸龍王が集まって供養をする池で、人が近寄れば雷電猛烈にして人を害う、とあります。日台聖人は、二十一日間の祈願の後に池畔で供養法を行じると、天晴れて水を汲むことができましたが、心神迷妄となり、なんとか無事に下山できたのでした。この水を病ある人が飲み塗れば、病は癒え、生々世々に仏法に値遇することができるとのこと。また、日台聖人より前には「浄蔵及び最澄聖人等」が 御厨池の水を汲んだとあります。浄蔵法師が御厨池の水を酌んだ話は「大法師浄蔵伝」にあり、御厨池は景雲年中(慶雲?704~707)に白山を開いた苦行人・神融が、法華経の功力で毒龍悪鬼を籠めた池である、との伝承も記されています。「神融」とは泰澄大師の別号ですから、「古事談」の「最澄聖人」は泰澄大師のことでありましょうか。


(白山・御厨池、後方に立山。2017.11登拝時)
白山・御厨池を介して、泰澄大師~浄蔵法師~日泰上人(日台聖人)~末代上人が繋がっていることになります。白山に御厨池が実在することは、当ブログで再三紹介しておりますので、ぜひご覧ください。
2017.11「白水滝~白山登拝」
2018.4「翠ヶ池・千蛇ヶ池・御厨池」
 白山の水を酌んだ日泰上人の生まれ変わりと云われた、末代上人。「浅間大菩薩縁起」には、伊豆の走湯山(現・伊豆山神社)で修行した末代上人(有鑑)について
「永く名利の学堂を捨てて、ひとえに無上の仏道に赴く。常に有験の霊地を尋ねて、鎮に菩提の妙果を求む。」
と書かれています。


(伊豆山神社、2013.7参拝時)
そして天承2年(1132)4月19日、富士山に登頂し、天喜5年(1057)6月18日に富士山に登ったという日代上人奉納の金泥小字法華経と仏具を拝見しているのです。「浅間大菩薩縁起」によれば、富士山を開いた役行者(讒言により伊豆大島に流された役行者は、夜になると海上を走って富士山に登り、夜明けには島に戻っていたという(「元亨釈書」))以降、金時上人・覧薩上人・日代上人が富士山に登ったとのこと。日代上人は日泰上人(日台聖人)のことでありましょうから、日代上人と末代上人は、白山御厨池を通じて泰澄大師・浄蔵法師と繋がっているだけでなく、富士山を通して役行者とも繋がって いることになり、白山と富士山を繋いだ行者であったといえます。
 末代上人(有鑑)は、初登頂の後、翌長承2年(1133)4月までに四度富士山に登り、山中の滝本で富士浅間大菩薩の三王子(三宮・悪王子・釼御子)より夢告を受けて「末代」と名乗っています。そして、日代上人納経の巌窟に釼や仏具を奉納し、如法経を埋納しています(「浅間大菩薩縁起」)。山麓・村山に興法寺、山腹に滝本往生寺、山頂に大日寺を建て、大日如来を本地とする富士山・村山修験の開祖となった末代上人は、初登頂から十七年後の久安5年(1149)には、すでに富士山に数百度登っていたのでした(「本朝世紀」)。興法寺には本地大日堂・浅間七社(浅間・伊勢両宮・熊野三所・白山大権現・伊豆大権現・箱根大権現・三嶋大明神)・大棟梁権現社が建ち並んでいましたが、十一面観音菩薩を本地とする大棟梁権現は、末代上人が入定後、守護神として祀られた処だそうです。


(大日堂と浅間宮、2016.2参拝時)


(高嶺総鎮守社(かつての大棟梁権現社)、同)
白山妙理大権現(本地・十一面観音菩薩)は仏法大棟梁とも号し、「大永神書」には

「我か名をは佛法大棟梁白山妙理権現と號するなり。しかるに佛法とは法華上乗の要法、真言不思議の教法なり。この実教を擁護せるゆへに大棟梁といふ。白山は、白は清浄無染の義、山は不動堅固の義。妙理は中道実相の妙理也。権現とは普ねく法界に形を変して衆生をはこくむ姿なり。たとへは天の月の萬水に影を浮るかことし。」

とあります。日代上人と同じく白山でも修行された末代上人は、仏法の大棟梁の自覚を持って、白山から富士山へ、さらに日本中へ、仏法を弘められたのでありましょう。


(立山から拝む富士山、2016.7登拝時)
 東京湾奥の、見渡す限り山のない平地で育った私にとって、富士山とは、都心のスモッグ越しに空気の澄んだ日に見える、ほぼ唯一の山でした。小学校の校章は富士山であり、初詣に行く隣の町(青べかの町)の神社には、富士塚がありました。後年、富士山の左右均整な「山」の姿とは異なる、両翼をいっぱいに広げて非対称でありつつバランスのとれた雪嶺・白山の美しさに取りつかれ、登拝・遥拝を繰り返す中で、白山修験というものも、立山・富士山・大峰山・彦山など他の山と無縁ではなく、山伏たちを介して相互に影響を与え合ってきたことが分かってきました。
 嶺上の清らかな世界と、この汚くむさい糞袋の身。浄らかな世界へのあこがれ、亡き人への想いが、私を山へと誘います。しかし、登りっ放しではなく、再び苦しみ尽きせぬ下界に戻ってきます。業尽きて、仏の家に生まるまで。
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松樸裏

Author:松樸裏
自由と孤独を愛するアウトサイダーと、万物の母たる大自然との一対一の対話
2006~奥美濃の藪山を登り始める
2009~白山三禅定道を毎年登拝
2016~19白山美濃馬場の古の山伏の行場「白山鳩居峯」のうち五宿を毎月巡拝、以後随時巡拝