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パンデミック訳「老子」23 根源に帰る

 老子爺さんこう述べた。

「それは見たって何にも見えぬ、名づけて微という。
それは聞いても何にも聞こえぬ、名づけて希という。
それはさすっても何にも得られぬ、名づけて夷という。
この三つは分析できない、だから渾然として一体だ。
上に明るさはなく、下に暗さもない。
なんと涯(はて)しのないことか!
名づけようもなく、万物の根源たる「無物」に復帰する。
これを形状なき形状、現象なき現象という、これを「惚恍」という。
出迎えてもその顔は見えず、見送っても後ろ姿は見えぬ。
古の道を保ちつつ、現在の有事を乗りこなす、
すると始源が分かってくるのだ、これを「道紀」という。」
(「老子」第十四章)

新型コロナウイルスは、「見えない敵」とよく言われる。だが、COVID-19は電子顕微鏡を使えば見えるし、特定の名もつけられるし、分析もできよう。ウイルスだって盛んになれば衰え、流行すれば終息する。老子爺さんはそのようなモノよりも、それらを含めたすべてのモノの根源を指し示している。流行しても終息しても変わらぬものを、赤字になっても黒字になっても変わらぬものを指し示している。

「心を虚しくすること極まり、身を静かに守ること厚ければ、
生起するすべての物事が、復(かえ)ってゆくのを私は観るのだ。
紛々たる物事が、おのおの根源に復帰してゆく。
根源に帰るのを「静」といい、「静」を「復命」という。
復命すればとこしえだ、とこしえなものを知るのが明智(めいち)だ。
とこしえなものを知らぬと、軽はずみになる。
軽はずみにしでかせば、災いとなる。
とこしえなものを知れば、寛容だ。
寛容ならば、公平だ。公平であれば全(まっと)うできる。
全うすること天のよう、天はすなわち道のよう。
道のようなら永久だ、身を終えるまで危険はない。」
(「老子」第十六章)

この章は、私に老子爺さんの瞑想の実際を教えてくれる。
 流行しても終息しても、赤字になっても黒字になっても変わらぬ「とこしえなもの」、それは、天地万物の根源であり母なる、大自然の道に他ならない。自分たちのルーツを忘れ、目先の便利さを軽はずみに追求し続けるならば、新たな災いはこれからも続々と襲いかかってくるだろう。

「大きな徳のあり様は、ただ道のみに従っている。
道というものは、恍惚としてとらえ難い。
惚とし恍として、その内に形状がある。
恍とし惚として、その内に物がある。
窈とし冥として、その内に情(こころ)がある。
情が純粋だと、その内に誠実がある。
今も昔も、その名は変わることなく、
すべてのものの始源に順(したが)っている。
私になぜすべてのものの始源のことが分かるのか?
それは、これによるのだ。」
(「老子」第二十一章)

天地自然の道というものは、パンデミック以前も以後も変わらないし、戦前も戦後も変わらないし、産業革命前も後も、四大文明以前も以後も、恐竜絶滅以前も以後も、天地ができる以前も以後も変わらない。老子爺さんは、その変わらぬもの、誰もの根源でありすべてのもののルーツであるものを指し示し、それにかなった生き方を書き残して去った。老子爺さんの言葉は、私たちを本当のルーツへと立ち返らせてくれる。COVID-19以前も以降も、天地自然の道は変わらないし、老子爺さんの教えも変わらない。変わったのは人間とウイルスの活動であり、変わってゆくのも人間とウイルスの活動だろう。人間もウイルスも、「おのおの根源に復帰してゆく」ことができるだろうか。私も残された人生で、本当のルーツに復帰してゆくことができるだろうか。

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(写真は2013/8、白山)
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松樸裏

Author:松樸裏
自由と孤独を愛するアウトサイダーと、万物の母たる大自然との一対一の対話
2006~奥美濃の藪山を登り始める
2009~白山三禅定道を毎年登拝
2016~19白山美濃馬場の古の山伏の行場「白山鳩居峯」のうち五宿を毎月巡拝、以後随時巡拝