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パンデミック訳「老子」20 愚かさ

 老子爺さんこう述べた。

「昔の道を行じた者は、民衆を聡明にするのでなく、愚かであるようにした。
民衆を治めるのが難しいのは、小利口だからだ。
だから利口さを用いて国を治めるのは、国の損失。
利口さを用いずに国を治めるのは、国の利得。
この二つを忘れないのが、国を治めるお手本だ。
お手本を忘れずにいるのを、幽玄なる徳という。
幽玄なる徳は深く、はるかで、
すべてのものと共に愚かさに返り、
大いなる道に帰順する。」
(「老子」第六十五章)

知恵は、利口さは、世の中をうまく生き抜くためには必要だろう。だが、目先の便利さを追求し続けた結果、地球は温暖化し災害が多発し、新型ウイルスは瞬く間に世界中に広まった。遺伝子操作や人工知能がもたらすであろう危険に人類は感づきつつも、やめられない止まらない。足るを知り、愚かさに、素朴に復(かえ)ろうと書き残した老子爺さんの教えは、二十一世紀にも二十二世紀にも、人類の深くはるかなお手本であり続けるだろう。
 戦国時代、大永・享禄の頃(1521~1532)、白山美濃馬場・白山中宮長瀧寺の僧・敬愚比丘は、長良川対岸の山中の大岩壁の下で焼身供養を行じられた。
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(2020/1/6参拝時)
旧暦六月一日のことだったという。敬愚比丘は学識あり書をよくし、その制札の字は明治32年(1899)に長瀧寺の火災で焼失するまで保存されていた。敬愚比丘が何故に火定に入られたのかは分からないが、戦国の動乱のさ中を小利口に生き抜くのではなく、道を愚直に行じ続けた尊者であったろう。新型コロナウイルスの流行で、長瀧寺の古の山伏の行場「鳩居峯」のうちの五宿巡拝もご無沙汰中だが、敬愚比丘に参詣し、山を愚直に素朴に這い回れる日もそう遠くないだろう。

「重さは軽さの根本、静けさは躁(さわ)がしさの主君。
だから君子は一日中巡行しても、車に積んだ荷物を離れない。
楼閣にあっても、安閑とし超然としている。
大国の王たるもの、どうして天下に軽率なふるまいができよう?
軽々しければ根本を離れ、躁がしければ主君でなくなる。」
(「老子」第二十六章)

軽く躁がしいものとは、当てどもなくヒューヒュー飛び回って落ちるジェット風船のようなもの。重く静かなものとは、どっしりとした重心を思わせる。新型コロナウイルスの流行で、今までやっていた生活が中断されてしまった私たちは重心を失い、誰がどう言ったとかこうしたとか聞きかじってはそれらに振り回されている。こんな時こそヒューヒュー飛び回らないために、どっしりとした重心が必要だろう。私も山にも旅にも図書館にも行けぬ日が続き、だいぶ(さらに?)イカれてきたかもしれぬが、老子爺さんの「道徳経」五千言がなんとかつなぎ止めてくれている、道を見失わぬようにと。

「すぐれた徳は、徳をひけらかさない、だから徳がある。
劣った徳は徳にこだわる、だから徳がない。
すぐれた徳は何もしでかさず、打算もない。
劣った徳は何かしでかし、打算もある。
すぐれた仁は何ぞしでかすが、打算はない。
すぐれた義は何ぞしでかし、打算もある。
すぐれた礼はことさらにやり、
応じなければ袖をまくって引きずりこむ。
だから、道が失われた後に徳があり、
徳が失われた後に仁があり、
仁が失われた後に義があり、
義が失われた後に礼がある。
礼とは、まごころが薄く混乱の元だ。
予見とは、道の花飾りで愚計の元だ。
だから大丈夫たるものは重厚だ、軽薄でなく。質実だ、華美でなく。
故に礼や予見よりも道徳を取る。」
(「老子」第三十八章)

本来の意味が忘れ去られた形式的な儀礼は、混乱の元。根拠のない予見は、人に買い溜めなどさせる愚計の元。愚かさにも重厚・質実・素朴な愚かさと、軽薄・華美・驕慢な愚かさがあるようだ。前者はどっしりとして愚鈍であり、後者はヒューヒュー飛び回る。老子爺さんの道に通じるのは、前者だ。

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松樸裏

Author:松樸裏
自由と孤独を愛するアウトサイダーと、万物の母たる大自然との一対一の対話
2006~奥美濃の藪山を登り始める
2009~白山三禅定道を毎年登拝
2016~19白山美濃馬場の古の山伏の行場「白山鳩居峯」のうち五宿を毎月巡拝、以後随時巡拝