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パンデミック訳「老子」19 鬼神と聖人

 老子爺さんこう述べた。

「大国を治めるのは、小魚を崩さず煮るのに似ている。
道をもって天下に臨めば、鬼神は霊験を現わさない。
鬼神が霊験を現わさないのみならず、霊験が人を傷つけない。
霊験が人を傷つけないのみならず、聖人もまた人を傷つけない。
鬼神も聖人も共に傷つけないから、その徳はすべて人々のものとなるのだ。」
(「老子」第六十章)

古来、人類は疫病退散を様々なモノに祈ってきた。二月初め、ちょうどクルーズ船が横浜港に停泊し、まだ日本では中国人観光客が来れないことによる閑散とした観光地や、マスクが品切れになってきたことに異変を感じていた程度の頃、私は各務原にある内藤記念くすり博物館を訪れた。展示室の入口で、顔に目が三つ、体の側面にも目が三つある神獣が私を待ち受けていた。頭には二本の角、体からも四本の角が生えている。白沢(はくたく)という古代中国の病魔除けの神獣で、体の反対側の側面にも目が三つある。初対面のこの神獣は、私に向かって何か言いたげな様子に見えたが、それが何を意味するのかまでは気づけなかった。白沢の絵は江戸時代の旅人には欠かせないお守りだったそうで、江戸時代後期から明治時代のコレラ流行時にも流行していたらしい。白沢が描かれた大正時代のマッチ箱も展示されていた。
 二年前(2018)の十一月、京都・龍谷ミュージアムでの「水木しげる 魂の漫画展」で、緻密な原画や戦争体験などの草稿を見、その前向きな生き方にとても勇気づけられた。もちろんいろいろな妖怪も見ることができたが、そこにアマビエという妖怪があったかどうかは覚えていない。新型コロナウイルスが日本で流行してから、江戸時代に肥後の海辺に現われたというこの妖怪も流行し始めた。水木しげるさんはアマビエも描いており、その画像を調布市が提供している。
 疫病の神といえば、京都・祇園社(現・八坂神社)の祭神、牛頭天王(ごずてんのう)だ。古代から中世の天然痘の大流行の恐怖を感じさせる、恐ろしい神。「祇園牛頭天王御縁起」によれば、牛頭天王は須弥山(しゅみせん)の中腹にある国の王で、その姿は牛の頭に赤い角。龍王の娘・婆利釆女(はりさいじょ)を娶るために龍宮へと向かう途次、古単将来という長者に宿を借りようとして断られ、貧しい蘇民将来の家に泊まった。龍宮で婆利釆女と結婚し七男一女に恵まれた牛頭天王は、帰国の際も蘇民将来の家に泊まり、古単将来の一族郎党を皆殺しにすることを伝える。蘇民将来が、古単将来の妻は自分の娘なので助けてほしいと願うと、天王は、茅(ちがや)の輪を作り赤絹の糸に包んで「蘇民将来子孫也」という札をつければ、災難を免れると教えた。古単将来は千人の僧侶を呼び、大般若経六百巻の読経をさせて助かろうとしたが、一人の僧が酔ってウトウトしていたため、牛頭天王の軍勢はそこから乱入して蘇民将来の娘以外を全員蹴り殺した・・・。現在の八坂神社の祭神は、牛頭天王と習合していたスサノヲノミコトだが、牛頭天王および祇園信仰の名残りは日本各地にある。長良川中流・美濃の天王山も、白山を開山された泰澄和尚が牛頭天王を祀り、天王山禅定寺(現・大矢田神社)を開かれた処だ。
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(天王山と板取川、2020/3/3)
 牛頭天王のような凄まじい霊験は、ある人々を救うと同時に、ある人々を傷つけずにはおかない。老子爺さんが「道をもって天下に臨めば、鬼神は霊験を現わさない。・・・のみならず、霊験が人を傷つけない。」と述べたのは、強い作用をもつ信仰やイデオロギーは、えてして副作用も強いからだろう。鬼神がピカピカした霊験を、聖人がキラキラした知恵をひけらかさなくて済む世の中こそ、人々が安心無事に生きられる世の中なのだ。

「道とは、すべてのものの主であり、善い人の宝物であり、善からぬ人の依り所だ。
よい言葉は人々にゆき届き、尊い行いは人々にゆき渡る。
人が善からぬことをしたとて、なんで見捨てる必要があろう?
だから、天子が即位して三人の大臣が任命されると、
大きな玉璧が、次いで四頭立ての馬車が献上されるが、
坐してこの道を進上するに越したことはない。
古来、この道が貴ばれてきたのはなぜか?
求めれば得られ、罪があっても免れるというであろう?
だから道は天下に貴ばれるのだ。」
(「老子」第六十二章)

天地自然の道にかなった生活に復(かえ)れば、善い人は求めていたものが得られ、善からぬ人も罪を免れる。鬼神の霊験や聖人の知恵にすがる必要もない。

「天下を治めようとしてことさらに何かやるなら、
私の見立てではうまくいきはしない。
天下は神聖な器だ、へたに手出しするものではない。
何かしでかそうとする者は敗れ、
強くこだわる者はそれを失う。
物事は、前を行くつもりで後に随い、軽く吹いたつもりで強く吹き、
強がっていたのに虚弱になり、増やしたつもりで減らすもの。
だから聖人は、極端なことはせず、分に過ぎたことはやらず、奢(おご)り高ぶらない。」
(「老子」第二十九章)

聖人も鬼神も、光を和らげ塵に同じてこそ、道にかなうのだ。そして私たちも。

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松樸裏

Author:松樸裏
自由と孤独を愛するアウトサイダーと、万物の母たる大自然との一対一の対話
2006~奥美濃の藪山を登り始める
2009~白山三禅定道を毎年登拝
2016~19白山美濃馬場の古の山伏の行場「白山鳩居峯」のうち五宿を毎月巡拝、以後随時巡拝