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パンデミック訳「老子」15 石ころ

 老子爺さんこう述べた。

「古来、天地自然の道と一つになったものは、
天は道と一つであればこそ清らかに、
地は道と一つであればこそ安定し、
神は道と一つであればこそ霊験あり、
谷は道と一つであればこそ満ち、
すべてのものは道と一つであればこそ生成し、
王侯は道と一つであればこそ天下の首長となる。
これを敷衍していえば、
大気がいつもキレイであろうとするなら、
温室効果ガスも雲もなくなり、放射冷却で火星のようになってしまうだろう。
大地がいつも安定しようとするなら、
地殻にひずみがたまって大地震が発生するだろう。
神さまがいつもピカピカしていたら、
当たり前になって霊験も感じられなくなるだろう。
谷がいつも満ちていようとするなら、
すぐに溢れて大洪水となるだろう。
王侯がいつもお高くとまって独善的なら、
いずれ誰かに倒されるだろう。
貴(とうと)さは賤(いや)しさをこそ根本とし、
高さは下にこそ基礎がある。
王侯が自ら孤児・寡(やもめ)・不善などと称するのも、
賤しさを根本としているからといえないだろうか?
栄誉も極まれば恥辱となる。
だから、キラキラした宝玉のようではなく、
ゴロゴロした石ころのようでありたいものだ。」
(「老子」第三十九章)

私たち人類にとっては、やっかい極まる新型コロナウイルス。だが、天地自然にとっては必ずしも悪いことばかりではないのかもしれない。一時的にせよ、現代人の活動に伴う大量の排出物が軽減された恩恵は、多くの生きものたちが、そして数年の後には人類自身も享受するだろう。ダイヤモンドの指輪を質に入れ、「ローリング・ストーンのように」落ちぶれたミス・ロンリーを、天地自然の道はけっして見捨てたりはしない。

「天の道は、弓を張るのに似ている。
高いものは抑え、低いものは挙げる。
余ったものを減らし、足りないものを補う。
だから天の道は、余った分で不足を補う。
人の道はそうじゃない、
足りないものから搾(しぼ)り取り、余ったものに貢ぐ。
余ったものを天下に捧げることができるのは、誰か?
それは道を得た者だけだ。
だから聖人は何をやっても自分のものとせず、
成功してもそこに居座らず、
才能をひけらかしたりなどしないのだ。」
(「老子」第七十七章)

ガソリンが余ればその値段は下がり、マスクが不足すればその値段は上がる。生きものの個体群の密度が増えすぎれば、縄張りも餌も不足し、個体群の密度が減れば、縄張りにも餌にもゆとりができる。だが、人間の大規模な開発によって山が削られ谷が埋められ森が分かたれ川が遡れなくなれば、多くの生きものたちの個体群はその生息地を分断され、やがて絶滅してしまう。天地自然から搾取し続けるような文明は、そう長くは続くまい。足るを知り、余ったものは天地自然に返そう。老子爺さんが理想とする「小国寡民」こそ、人と自然の共生の道だ。

「アレもコレも両手にいっぱい持ち続けるのは、やめた方がいい。
鍛えて鋭利にした刃物は、長持ちしない。
財宝が部屋にギッシリ詰まっていれば、守ることなどできはしない。
富貴にして驕(おご)り高ぶれば、自ら災いを招く。
成功しても居座らずに退(の)く、それが天の道というものだ。」
(「老子」第九章)

天地自然の道は、自分の手柄(てがら)などには無頓着。人はそれを自分の手柄だと思い込んだり、神さま仏さま、妖怪や霊鬼のおかげだと信じ込む。だが、神仏に霊験があるのは、天地自然の道のおかげ。人が自尊心を持てるのも、天地自然の道のおかげ。天地自然の道と一つになって、光を和らげ塵に同じ、ゴロゴロした石ころのように生き、そして死にたいものだ。

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松樸裏

Author:松樸裏
自由と孤独を愛するアウトサイダーと、万物の母たる大自然との一対一の対話
2006~奥美濃の藪山を登り始める
2009~白山三禅定道を毎年登拝
2016~19白山美濃馬場の古の山伏の行場「白山鳩居峯」のうち五宿を毎月巡拝、以後随時巡拝