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浜松・富士宮放浪~富士山へ

 8月19日午前、浜松・元魚町の松尾神社に参拝。


小路を西へ歩いて本称寺に参詣し、念仏をお称えしました。かつて、本称寺の隣には白山神社と別当寺の二諦坊(にたいぼう)があり、元禄13年(1700)と享保8年(1723)の二諦坊の失火により、白山神社や本称寺が類焼してしまったそうです(「浜松情報BOOK」)。「浜松風土記」(会田文彬著)によれば、本称寺裏手の丘陵地を「白山」、その下を「白山下」といい、「白山」に白山神社と京都醍醐寺末の二諦坊が鎮座し、華麗荘厳を極めていたとのこと。(浜松城内の展示によれば、「白山下」には武家屋敷があったそうです。)しかし、度重なる失火のためでしょうか、二諦坊は浜松城主から朱印没収の上、禁継処分に附され、白山神社も三組町の神明神社に合祀されてしまいました。
 遠州浜松の二諦坊は、白山美濃馬場・白山中宮長瀧寺(岐阜県郡上市)と、三河・遠江・駿河における白山牛王札配札の権益をめぐって争論したことで知られています。東海地方からの白山登拝口であった長瀧寺は、三河・遠江・駿河にも多くの檀那場を持っていました。


(長瀧寺、8月15日参拝時)
一方の二諦坊は、大永5年(1525)に今川氏親より浜松荘のうち川西の分の白山先達職を保証され、天正18年(1590)には豊臣秀吉より三河・遠江・駿河における白山先達職を命じられています(「浜松市史」)。江戸時代に入ると、長瀧寺と二諦坊は三・遠・駿の白山牛王札配札権をめぐって、寛永13年(1636)より承応年間(1652~55)まで約二十年にわたる裁判沙汰の末、二諦坊の全面勝訴となり、長瀧寺は三河・遠江・駿河の檀那場を失った上、訴訟費用や江戸への旅費等も馬鹿にならず、衆徒(僧侶)・座中(山伏)・執行(社家)からなる一山組織は衰退せざるを得ませんでした。
 古来、白山三馬場の一つとして栄えてきた長瀧寺から三・遠・駿の権益を勝ちとった二諦坊でしたが、前述の通り、その繁栄は長くは続かなかったようです。明治の神仏分離以降も長瀧寺はかろうじて存続していますが、二諦坊・白山神社は、跡形もありません。


(本称寺裏手より)
尚、長瀧寺の「荘厳講執事帳」によれば、享保15年(1730)に長瀧寺に聖護院の使僧が来、修験については醍醐寺三宝院を本寺とする当山派(真言宗系)ではなく、聖護院を本寺とする本山派(天台宗系)とするよう確認をしています。これに対し長瀧寺は、古くから延暦寺政所下の天台別院であり、一山内には山伏である鳩居峰行者もいるが、寛文5年(1665)からは東叡山(寛永寺)末となっている旨を伝え、一山内の修験を支配している阿名院一人を天台と本山修験兼帯とする形で、一件落着しています。浜松二諦坊は当山派でありましたが、長瀧寺と二諦坊の権益争いの背景には、本山修験と当山修験の争いもあったのかもしれません。
 本称寺から北へ歩を進めて鴨江小路に出、金山神社に参拝。


元亀元年(1570)に岡崎から当地(引馬)に移った徳川家康が、引馬城を改修して浜松城と名づけた際、美濃の南宮大社御分霊を勧請して城内に建立したとのこと。その後、元和元年(1615)に現在地に遷座されたそうです。「浜松市史」によれば、二諦坊は明治の神仏分離で廃寺となりましたが、二諦坊の流れを汲む甚教院は金山神社の側に移り、わずかに寺格を維持したとのこと。しかし、今はそれらしきお堂も見当たりません。
 金山神社から高台に登ってゆき、五社神社・諏訪神社へ。


境内の手水鉢は、浜松城五代城主・高力忠房が寛永15年(1638)に寄進したものです。


浜松生まれの忠房公は三代将軍・家光の信任厚く、元和5年(1619)に浜松藩主となり、寛永14~15年(1637~38)の島原・天草の乱の後、寛永16年(1639)に島原藩主となって島原の復興に尽力しました。


(島原城、2015.7)
忠房公の正室は、真田信之の娘です。忠房公が明暦元年12月(1656年1月)に亡くなると長男の隆長が島原藩主となりましたが、苛政により領民から訴えられ、寛文8年(1668)に改易となっています。高力家改易の後は、深溝松平家が島原藩主となりました。
 乱後の天草では鈴木重成が代官となり、兄で禅僧の鈴木正三和尚の協力も得て天草の復興に努め、重成の死後、養子の重辰(正三和尚の実子)が代官となって重成の悲願・石高半減を実現しました。


(重成公が建てた天草四ヶ本寺の一つ・東向寺、2018.7)
一方の島原では高力忠房公の死後、隆長が禅林寺(現・本光寺)に桃水和尚を招きましたが、五年ほどして、冬安居の後に桃水和尚は突如出奔し、以降、寺に住むことなく、京都で乞食と同態となって病人の世話をしたり、大津で馬用の草鞋を作ったりされました(「前総持桃水和尚伝賛」)。禅林寺の冬安居には、熊本・流長院での桃水和尚の弟弟子であり、後に江戸で鈴木正三和尚に入門して正三師の最期をみとった雲歩和尚と恵中和尚の姿もありました。桃水和尚は、隆長の苛政を諌めることができないことを苦に出奔したのでしょうか。正三和尚も、桃水和尚も、雲歩和尚も恵中和尚も、一宗一派を離れた散聖でありました。

「某ハ釋迦宗ニテ候、別ニ派ト申ス事モナク候」(草庵恵中「庵主問答」)

 鴨江小路を西へ歩み、鴨江寺に参拝。「浜松市史」によれば、二諦坊は鴨江寺の鎮守・白山宮の別当寺であったようです。ということは、二諦坊は鴨江寺の坊院の一つだったのでしょうか。本堂にて般若心経を誦し、裏へ回ると、宝篋印塔の傍らに役行者がおられました。


宝篋印塔には、四国八十八ヶ所と西国・秩父・坂東の百観音霊場巡礼の「御砂分置納経塔」と記されています。宝篋印陀羅尼と役行者ご宝号をお唱えし、富士山を開かれた役行者に富士山登拝の無事を祈願しました。
 鴨江寺から北上し、三組町の神明宮に参拝。


二諦坊が別当を勤めていた白山神社は、此処に合祀されたのでした。天照皇太神と白山妙理大権現ご宝号をお唱えしました。隣には、大きな秋葉神社。


天正10年(1582)の武田家滅亡後、武田の旧臣が家康への忠誠を誓った起請文が此処に奉納され、武田旧臣の多くを与えられた井伊直政は、武田軍の「赤備え」を継承したそうです。境内には「奥平信昌邸跡」もありました。


奥平信昌は、元亀3年(1572)に武田信玄が西上を開始すると、家康から離反して武田方につきましたが、元亀4年(1573)、家康の懐柔と信玄の死(隠されていた)などにより家康方に戻り、天正3年(1575)、長篠城で武田勝頼の大軍相手に籠城、織田・徳川連合軍の長篠での大勝に貢献したのでした。
 三組から、浜松城へ。


元亀3年(1572)、三方ヶ原で武田信玄に大敗した家康は、浜松城に逃げ戻って城門を開け放し、かがり火を焚いたそうです。警戒した武田軍は城内に攻め入ることなく、家康は命拾いをしたのでした。天守閣に登ると、北方に三方ヶ原、北東には富士山が拝めました。


 午後、浜松駅から鈍行に乗って夕方、富士宮へ。富士山本宮浅間大社から、富士山を遥拝しました。


湧玉池の、冷たく清らかなお水。


浅間大社から福石神社(祭神は磐長姫)、萬松院と順拝して木乃花山神社と題目宝塔に参拝。


左手に富士山を望みつつ東へ歩を進め、源頼朝が馬に乗る際に踏み台にしたという二つ石を経て、阿幸地(あこうじ)の悪王子神社へ。


「浅間大菩薩縁起」によれば、富士山・村山修験の開祖・末代上人が天承2年(1132)4月19日に富士山に登頂し、七十五年前に日代上人が納経された巌窟に仏具や釼を奉納した後、翌長承2年(1133)4月、四度目の登拝の下山中、滝本(往生寺)で夢に三宮・悪王子・釼御子の三童子(浅間大菩薩の三王子)が現われ、「汝をば、末代上人と名づけん」とのご神託を受けています。 それまで有鑑という名であった上人は、以降、末代と名乗るようになったのでした。悪王子神社の背後に山頂・剣ヶ峰を拝みつつ、般若心経と浅間大菩薩王子眷属、および末代上人ご宝号をお唱えし、富士山有縁の一切衆生の七難即滅七福即生と、富士山仏法興隆をお祈りしました。


 阿幸地北の歩道橋より、霊峰・富士山を遥拝。


白山でも修行された日代上人と末代上人に想いを致し、翌未明の出発に備えて宿に入りました。
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松樸裏

Author:松樸裏
自由と孤独を愛するアウトサイダーと、万物の母たる大自然との一対一の対話
2006~奥美濃の藪山を登り始める
2009~白山三禅定道を毎年登拝
2016~19白山美濃馬場の古の山伏の行場「白山鳩居峯」のうち五宿を毎月巡拝、以後随時巡拝