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武漢加油・曹操忌日

 昨年(2019年)末から中国・武漢を中心に感染が広がっている新型肺炎の影響は、人間の身体面のみならず、様々な面にも目につくようになりました。中国人観光客が来れないことによる、閑散とした日本の観光地。ドラッグストアやコンビニは、どこもマスクが品切れ状態。武漢をはじめ、各地で移動を制限されて困苦の中にある方々の心情は、察するに余りあります。武漢市の漢口(かつての夏口)は三国時代、魏の曹操に追撃され窮地を脱した劉備が呉の孫権と手を結び、赤壁で曹操軍を破るまで拠点とした処。後の三国鼎立への起点となった地です。今回の肺炎で亡くなられた方々のご冥福をお祈りし、困難の中にある方々が希望を失わず、武漢が人類共通の脅威克服に向けての起点となることを、切に切に願います。
 後漢末の建安13年(208)、中国北部を平定した曹操は南征を開始。8月、劉備が身を寄せていた荊州の劉表が病死、息子の劉琮が後を継ぎ襄陽に、劉備は樊(はん)に駐屯しましたが、9月に曹操が新野まで南進すると劉琮は降伏。劉備は漢水を渡って陸路を南へ逃げ、関羽には船数百艘を率いさせ江陵で待ち合わせることにしたのでした。ところが曹操は精兵五千騎に昼夜兼行で追わせ、当陽の長阪で劉備に追いつきます。劉備は妻も前年に生まれたばかりの子も残して張飛・趙雲ら数十騎で命からがら逃げ、趙雲は戦場に戻って劉備の幼児・阿斗(後の劉禅)を抱いて守り、甘夫人をも救出。張飛が曹操軍の追撃を目を瞋らし矛を横たえ一喝して防ぎ、運よく漢津で関羽の船団に会って、無事に夏口(武漢)へと下ったのでした。
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(関聖帝君(関羽)と関平・周倉(長崎・興福寺、范道生作)。九州国立博物館「三国志展」関連展示、2019.12)
 当陽の長阪での渦中、劉備に会いに来た男がいます。呉の孫権から劉表の弔問に遣わされていた、魯粛です。荊州に向かう途中、夏口で情勢を聞いた魯粛は、長阪で劉備に孫権との同盟を勧めたのでした。夏口にひとまず落ちついた劉備は、諸葛亮(孔明)を柴桑にいた呉主・孫権の元に遣わして手を結び、孫権は周瑜・程普ら三万の水軍を夏口に派遣。冬、劉備・孫権連合軍は長江を遡って赤壁で曹操軍と対峙し、周瑜の部将・黄蓋が降伏を偽って薪草を積んだ船数十艘を漕ぎ寄せ、火を点けて曹操軍の船を焼き払います。曹操の軍は折しも、南方の慣れない環境での滞陣で疫病にも苦しんでおり、撤退を余儀なくされたのでした。
 協力して曹操の南進を阻んだ劉備と孫権でしたが、劉備が蜀を拠点とし、建安24年(219)に漢中を制圧して荊州の関羽に曹仁(曹操の従弟(いとこ))が守る樊城を攻めさせると、曹操は呉の孫権と手を結びます。12月、関羽は敗れ、孫権の命により臨沮で息子の関平ともども斬られたのでした。翌建安25年(220)正月、洛陽の曹操の元に孫権が関羽の首を送っています。曹操は昔、建安5年(200)に関羽を捕らえた際、厚く遇して漢寿亭侯に封じ、劉表の元に身を寄せた劉備の処へ関羽が去ろうとした際も、その義を尊んで後を追わせませんでした。関羽の首を前にした曹操の心には安堵と同時に、一抹の寂しさもあったことでしょう。その月の23日、魏王・曹操は洛陽で亡くなりました。享年六十六歳。今日(2020年2月16日)は旧暦1月23日、曹操の千八百年目の忌日です。その遺言は、

「天下尚未だ安定せず、未だ古に遵(なら)うを得ず。葬畢(お)わらば、皆服を除け(埋葬の後は、皆、喪に服すな)。其の将兵屯戌(屯守)の者は、皆屯を離るるを得ざれ。有司(官吏)各(おのおの)乃(なんじ)の職に率(したが)え。時服を以て斂(おさ)め、金玉珍宝を蔵(おさ)むるなかれ。」
(「三国志 魏書 武帝紀」)

曹操は武王と諡(おくりな)され、翌2月、高陵に葬られたのでした。
 曹操高陵は鄴(ぎょう)城(河南省)の西にあり、昨年(2019年)の「三国志展」でその出土品を目の当たりにしました。曹操高陵は規模も資材も「帝王級」の陵墓ですが、漆喰が塗られていなかったり薄く、慌ただしく造られたようです。ところで曹操がそれまでの厚葬久喪ではなく薄葬を遺言したことについて、曹操の死から約一世紀後に書かれた「抱朴子」には、

「建安之後より、魏之武(曹操)、文(曹丕)、送終之制、務めて倹薄に在り。此則ち墨子の道、有いは行うべし。」
(外篇・省煩)

とあります。曹操(武帝)や息子の曹丕(そうひ、文帝)の「薄葬」は、墨子の説く「節葬」に倣ったものかもしれません。
 曹操は英傑であるのみならず、詩人でもありました。息子の曹丕・曹植も詩文に優れていました。曹操の「度関山」という詩には、儒家のみならず墨家の理想が詠われています。

・・・
世歎伯夷
欲以厲俗
侈悪之大
倹為共徳
許由推譲
豈有訟曲
兼愛尚同
疎者為戚

王位を拒んで国を去った伯夷、帝位を拒んで川で耳を洗った許由を讃え、「墨子」の「節用」(倹約)や「兼愛交利」(博愛・相利)、「尚同」(上に(天に)見習う)を詠った曹操。曹操はまた、神仙の世界へのあこがれも多く詠っています。

駕虹蜺(にじ)
乗赤雲
登彼九疑歴玉門
済天漢(天の川)
至崑崙
見西王母謁東君
交赤松
及羨門
受要秘道愛精神
食芝英
飲醴泉
柱杖桂枝
佩秋蘭
絶人事
遊渾元
若疾風遊欻飄翩
景未移
行数千
寿如南山不忘愆
(曹操「陌上桑」)

西王母は崑崙山におられる神仙、東王父は蓬莱山におられる神仙。赤松子は神農(中国古代の三皇の一人)の時代の仙人で、よく崑崙山上に赴いては西王母の石室に宿り、風雨に随って上下したそうです(「列仙伝」)。羨門は渤海の竭石で秦の始皇帝が探させた仙人。出雲の神原神社古墳で出土した景初三年銘の銅鏡には、東王父・西王母・黄帝・伯牙と鐘子期の姿が描かれています。
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(神原神社古墳の銅鏡を模したレリーフ。神仙像はこの写真の左を上に、上下左右に描かれている。島根県雲南市加茂町、2019.11)
景初3年(239)は魏の元号で、曹丕の子・曹叡(明帝、曹操の孫)が正月に亡くなった年です。前年(景初2年(238))8月、魏の司馬懿(仲達)が遼東の公孫氏を滅ぼしており、その二ヶ月前(6月)、倭の女王・卑弥呼は魏に使者を遣わしました。12月の皇帝(曹叡)の勅書には

「特に汝(卑弥呼)に紺地句文錦三匹、細班華罽五張、白絹五十匹、金八両、五尺刀二口、銅鏡百枚、真珠鉛丹各五十斤を賜う」
(「三国志 魏書 烏丸鮮卑東夷伝」)

とあります。

願登泰華山
神人共遠遊
願登泰華山
神人共遠遊
経歴崑崙山
到蓬莱
飄颻八極
与神人倶
思得神薬
万歳為期
歌以言志
願登泰華山

天地何長久
人道居之短
天地何長久
人道居之短
世言伯陽
殊不知老
赤松王喬
亦云得道
得之未聞
庶以寿考 (寿考(長寿)を庶(こいねが)う)
歌以言志
天地何長久
・・・

(曹操「秋胡行 其二」)

東に泰山、その彼方に蓬莱山。西に華山、その彼方に崑崙山。「伯陽」とは老子の字(あざな)、王子喬は周の霊王の太子・晋のことで、嵩山に籠って仙人となり、後に白鶴に乗って飛び去ったと伝わります(「列仙伝」)。
 曹操は神仙の世界にあこがれつつも、盲信して現実の世界を疎かにするようなことはありませんでした。「抱朴子」に、

「陳思王(曹植、曹操の子)、釈疑論を著して云ふ、初め、道術は、直(ただ)、愚民を呼び、詐偽空言すること定かなりと謂(おも)へり。武皇帝(曹操)の左慈等を閉ざし、穀を断ぜしむることを試みしを見るに及びて、一月に近うして顔色減ぜず、氣力自若たり、常に云ふ、五十年食はずして正(た)る可しと。爾(しか)らば復何をか疑はんや。」
(内篇・仙論) 

とあり、曹操が方士(道士)を集めてその術を試したところ、左慈は穀断ちして一月近くたっても気力自若としていたとのこと。「抱朴子」の著者・葛洪の「神仙伝」には、

「魏の曹公(曹操)、聞きて之(左慈)を召し、一石室中に閉ぢ、人をして守視せしむ。穀を断つこと期年、乃ち之を出すに顔色故(もと)の如し。曹公自ら謂(おも)へらく、生民は食せざるの道なし。而も慈は乃ち是の如し。必ずや左道(邪道)ならん、と。之を殺さんと欲す。」

とあり、左慈の道術に感心するどころか、曹操はそのような術が一歩間違えれば人々を盲信・狂信させ、黄巾の乱のような大規模な反乱につながりかねないことを危惧していたようです。「神仙伝」によれば、左慈は後に曹操に捕らえられ獄に入れられましたが、戸中にも戸外にも左慈がいて、どれが本物だかわからなくなってしまいます。曹操が市門を閉じ、市中に「片目で青い頭巾と単衣を着た者がいたら捕らえよ」と命ずると、市中の人が皆そのかっこうになってしまったそうです。
 「神仙伝」には、曹操が招いた方士がもう一人記されています。王真は七十歳を過ぎてから仙道を学びはじめ、やがて「胎息・胎食・煉形之方」を修めて不老長生を得たとされ、魏武帝(曹操)が相見したところ三十代にしか見えなかったそうです。曹操が不審に思って王真の郷里を調査したところ、皆異口同音に自分の小さい頃から王真を見ていると答え、曹操もその道を信じて敬重したとのこと。王真を殺そうとしなかったのは、その術に社会への危険性が感じられなかったからでしょうか。曹操の詩「気出唱」などは、王真らから仙道を学んで作られたのでしょう。曹操には情け容赦のない一面もありますが、情に厚く器のデカい一面もあります。私はそこに人間としての魅力を観じます。
 
・・・
月明らかに星稀にして
烏鵲(うじゃく(かささぎ))南に飛ぶ
樹を繞(めぐ)ること三匝
何れの枝にか依るべき
山は高きを厭わず
海は深きを厭わず
周公哺を吐きて
天下心を帰す
(曹操「短歌行」)

斉の桓公の宰相・管仲(紀元前七世紀)の作と伝わる「管子」形勢解に

「海は水を辞せず、故に能く其の大を成す。山は土石を辞せず、故に能く其の高を成す。明主は人を厭わず、故に能く其の衆を成す。士は学を厭わず、故に能く其の聖を成す。」

周の文王の子で武王の弟であった周公旦(紀元前十一世紀)は、優れた人材を集める為には食事中に口に入れた食物を三度出しても、面会に応じたそうです。曹操は身分や品行にとらわれず、才能ある者は自分にかつて背いた者でもうまく用いました。関羽を厚遇し、劉備の元に去っても追撃させなかったところにも、彼の山や海の如きスケールの大きさが感じられます。
 曹操没して、今日で千八百年。千八百年前といえば、日本は弥生時代。白山麓・石徹白にある大杉が発芽した頃です。
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(2019.10白山登拝時)
当時、日本にはまだ仏教は伝わっていなかったようですが、中国にはすでに寺院がありました。昨年(2019年)の「三国志展」では、鄂州(がくしゅう、湖北省)の墳墓から出土した三世紀の仏坐像と、銅鏡に霊獣と共に描かれた光背仏を拝ませていただきました。白山は古来、「蓬莱神仙白山峰」(「白山大鏡」)とも称される霊峰。仏教伝来以前から、中国の神仙たちは日本の峰々に往来していたことでしょう。
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・・・ 
奉持して東へ行き蓬莱山に到り、上は天の門に至る。
玉闕の下、引見して入るを得。
赤松相対し、四面を顧望して正しく焜煌を視る。
玉心開いて正しく興り、其の気は百道に至る。
伝え告げて窮まること無く其の口を閉ざし、
但(ただ)当に気を愛して萬年を寿(ことほ)ぐべし。
東は海に到りて天と連なる。
神仙の道は出窈入冥、常に当に之を専(もっぱ)らにすべし。
心は恬澹(てんたん)、愒欲する所無し。
門を閉ざし自守して坐し、天と与(とも)に気を期す。
願わくば神の人を得て雲車に乗駕し、
白鹿に驂駕し上は天の門に至り、来たりて神の薬を賜らん。
跪(ひざまづ)きて之を受け、神を斉(ひと)しく敬う。
当に此の如くにして、道は自ずから来たるべし。
(曹操「気出唱 其一」)

「心恬澹、無所愒欲」。心は静かであっさりしており、何もむさぼることがない。「老子」三十一章に

「兵(武器)は不祥の器にして、君子の器に非ず。已むを得ずして之を用いば、恬澹(てんたん)なるを上と為す。勝つも美とせず(賛美しない)。而(も)し之を美とせば、是れ人を殺すを楽しむなり。夫れ人を殺すを楽しむ者は、則ち以て志を天下に得可(べ)からず。」

乱世の中にあっても、混乱の中にあっても、むしろそのような時こそ、恬澹無欲でありたいものです。

「恬澹虚無なれば、真気之に従い、精神内に守る。病、安(いづ)くより従い来たらん。」(「黄帝内経 素問」上古天真論)
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松樸裏

Author:松樸裏
自由と孤独を愛するアウトサイダーと、万物の母たる大自然との一対一の対話
2006~奥美濃の藪山を登り始める
2009~白山三禅定道を毎年登拝
2016~19白山美濃馬場の古の山伏の行場「白山鳩居峯」のうち五宿を毎月巡拝、以後随時巡拝