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富士山

 8月20日朝2時、富士宮の宿を出発。車道は信号や街灯でけっこう明るく、ヘッドランプなしでも歩けるくらいです。弓沢川を渡り重林寺を経て緩やかな坂道を上へ。一時間ほどで粟倉観音堂着、般若心経をお唱えしてさらに上へ。


小雨が降ってきましたが、すぐに止みました。やがて街灯は絶え、林の中の真っ暗な車道をヘッドランプと鈴をつけて行道。大きな車道に出て村山方面に向かう途中、下から上がってくる道者道の苔むす石畳を少し下ってみました。


西見付を経て村山に入り、3時半すぎに村山浅間神社着。


浅間七社(浅間大菩薩・伊勢両宮・熊野三所権現・白山大権現・伊豆大権現・箱根大権現・三嶋大明神)ご宝号をお唱えし、大日堂にて本地・大日如来、高嶺総鎮守社にて大棟梁権現、即ち村山修験の開祖・末代上人にお参りしました。
 此処からは、聖護院が企画している「富士山峯入り修行」に参加させていただきました。東海道の吉原(田子の浦)から古の村山修験の古道を巡拝しつつ登るこの行は、今年で八回目になるそうです。行中のことについては、新客の分際の私が口にすることではありませんが、皆と助け合いながら全員が行を全うできることを第一とする山伏の行は、藪山雪山を独りで徘徊することの多いこの野人にとっては、先達の山伏さまが大日堂出発時に説いておられたごとく、ゆっくり歩く修行でもありました。
 私が毎月巡拝している、白山美濃馬場・白山中宮長瀧寺から尾根伝いの古の山伏の行場「白山鳩居峯」には、かつては修行中の規定を記した壁書が杉板に彫られてあり、それは寛永12年(1635)に「大峯葛城鳩居峯第七度行人権大僧都行典法印」が書き改めたものでした(「長瀧寺真鑑正編」)。その文章は、大永5年(1525)に彦山の先達・阿吸房が加賀の那谷寺に伝えた彦山修験の「三峯相承法則密記」にある、峯中で新客等が守るべき十八箇条の「峯中壁書」と全く同じものです。

「自身即仏の思いを忘れて他念を交うる事」
「先達度衆等に対して無礼を致す事」
「先達の厳命を相待たずに猥りに深法を望む事」
「慈悲忍辱の行儀を忘れ、動ずれば瞋恚を発す事」
「床中に於て雑談を楽しむ事」
「床中に於て珠数をも(手偏に妥)む事」
「無益の事に於て諍論を致す事」
「床中に於て睡眠高きょ(口偏に去)の事」
「草鞋乱着の事」

といった内容(原漢文)ですが、実際に入峯修行に参加させていただいてこそ、これらの定め・戒めの大切さが具体的に分かります。村山修験にも、このような壁書はあったのでしょうか。
 息と歩調を合わせて古道を経行しつつ登ってゆき、中宮八幡堂や、末代上人が三童子の夢告を受けた滝本、さらに岩屋不動、一ノ木戸などに参拝。「笹垢離」という行場の名は、笹の中を歩くことで身心を清める行によるらしい、とのお話を聞き、白山鳩居峯の厳しい笹藪も、身心を清めるための大切な行場であると気づかせていただきました。
 六合目で宿泊、富士宮市や富士市の夕景。


翌21日、ご来光を拝んで山頂へと行道。


「懺悔懺悔 六根清浄 懺悔懺悔 六根清浄」
先達さまに導かれて浅間大社奥宮に参拝し、このしろ(魚偏に祭)池の辺りの、明治の廃仏毀釈で首を切られた石仏さまたちの前で柱源護摩供養。


江戸時代後期の「富士山真景之図」を見ると、大日堂(現・浅間大社奥宮)から無明橋を渡って剣ヶ峰に向かう途中に、三体の大日如来坐像が描かれています。一つめは銅造で、寛永元年(1624)伊勢の人の建立。二つめは鉄造、延徳2年(1490)建立。そして三つめ、「けんのみねのさかみち」に鎮座していたのが、「天文十二(1543)癸卯年濃州の人建立」の大日如来さま。これらの仏像も、明治の神仏分離・廃仏毀釈の際にすべて破壊されてしまいました。が、この三つめの大日如来さまは、岐阜県可児市の郷土歴史館に現存しています(首はありません)。破壊されたお姿で賽の河原で発見され、御殿場の東岳院に安置された後、平成18年(2006)に可児市に寄贈されたのでした。銘文は、
左腕に「天文十二白癸卯」
右腕に「五月十六日」
左膝に「濃州可児郡下荏戸之郷」
右膝に「金屋村 願人九郎二郎 同 石蔵」。
智拳印を結んだ、金剛界大日如来さまの坐像です。金屋村は当時、鋳物師の集落として栄えていた処で、この大日如来さまも金屋村で造られたものでしょう。
(当ブログ「久々利白山神社~浅間山~柿下放浪」参照)

今から四百七十五年前に美濃から富士山頂部に奉納された大日如来さまを想いつつ、剣ヶ峰登頂。


霧で視界はなく、雪深い白山と奥美濃の藪山に鍛えられた野人にはあっけない登頂に思われましたが、これも浅間大菩薩のお導きでありましょう。
 いかにも富士山らしい、不毛の火山地帯を下山。東に山中湖が見え、南東の眼下に宝永山、彼方には雲を被った箱根山。



やがて、路傍に大智禅師の偈が記された碑が現われました。

巍然として独露す白雲の間
雪気誰人か寒を覚えざらん
八面都て向背の處無し
空従り突出し人に与えて看せしむ

中国・元で十一年間修行された大智禅師は、加賀・宮腰に帰国して翌・正中2年(1325)白山麓・吉野の山中に祇陀寺を開山、元徳2年(1330)に郷里・肥後の菊池氏に請われて帰郷し、晩年は肥前・島原半島南部の加津佐ですごされました。


(大智禅師が祇陀寺を去る際、杖を逆さに挿したものと伝わる御仏供杉(おぼけすぎ)、2017.9参拝時)

思いがけず出会った禅師の偈。「八面都(すべ)て向背の處(ところ)無し」の句に、ふと、鈴木正三和尚の次の語が思い出されました。

「肥前の国温泉(雲仙)の本尊は、四面菩薩也と云。是四方八方に機の入渡りたる位也。十一面観音と云も其心也。扨亦(さてまた)如来の湛然として在(ましま)すも、機の十方に円満せる處也。」(「驢鞍橋」)

 宝永山の火口に下り、見上げた火口壁。


宝永4年(1707)の噴火により、東口(須走口・須山口)と表口(大宮口・村山口)の登山道はしばらく停滞、その間、戦国時代に肥前国大村出身の書行(角行、かくぎょう)が始めた富士講の六世・食行身禄(じきぎょうみろく)が、享保18年(1733)に北口(吉田口)七合五勺目の烏帽子岩で入定したこともあり、以降、吉田口から登る富士講が繁栄することになったのでした。


(宝永山)
 「浅間大菩薩」を「仙元大菩薩」と書くなど、それまでの富士山修験とは異なる新興の富士講を開いた角行は、肥前国の出身でした。ふと、平安時代後期、白山加賀馬場・笥笠中宮(けがさのちゅうぐう)の神宮寺に金色の阿弥陀如来像を祀り、昼夜不断の念仏三昧を行じた、肥前国松浦郡出身の西因上人(白山上人)のことが思い出されました。
「是レ即チ妙理権現ノ初メテ弥陀身ヲ現ハス所以ナリ。」(藤原敦光「白山上人縁記」)
肥前出身の行者が、時代に応じて白山と富士山に流入した新たな信仰。地元の人たちから見れば彼らは余所者かもしれませんが、近くにいすぎると、かえって見えないこともあるものです。
 皆無事に行を終えることができ、聖護院の山伏さんたち、古道を復興された畠堀さんはじめ、皆さまに感謝。中腹から見上げた富士山は、笠雲を被っていました。


初めて登った富士山には、奇特なことはありませんでした(頭の皮膚が焼けて、ヒリヒリ痛いですが)。あまりにも大きなものは、空間的にも時間的にも少し離れてからでないと、その影響が認識されないのかもしれません。

夢の世を夢ぞといふも夢なれや、何をうつつとさだむべき、ただ何事もなきものを、夢とは何をいふべきぞ。夢といふべき事もなし。なしなしなし
(鈴木正三「二人比丘尼」)
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松樸裏

Author:松樸裏
自由と孤独を愛するアウトサイダーと、万物の母たる大自然との一対一の対話
2006~奥美濃の藪山を登り始める
2009~白山三禅定道を毎年登拝
2016~19白山美濃馬場の古の山伏の行場「白山鳩居峯」のうち五宿を毎月巡拝、以後随時巡拝