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備中・玉島巡礼

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 1月22日朝、新倉敷から溜川沿いに歩いて玉島へ。かつて阿弥陀島という小島であった丘の上に建つ清瀧寺と、羽黒神社に参拝。
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慈覚大師(円仁上人)が唐に渡られる際、此処で阿弥陀如来の像を彫り、祀ったとのことです。里見川を渡って西の山上へと続く円通寺の参道へ。慈覚大師が十一面観音菩薩の像を造って祀ったという本覚寺にて、般若心経と宝篋印陀羅尼をお唱えしました。
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さらに山の上へと続く細道。円通寺の門前より見下ろした、玉島の町。
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円通寺に来りてより
幾度か冬春を経たる
門前千家の邑(むら)
更に一人をも知らず
衣垢つけば手自ら濯い
食尽くれば城闉(いん)に出づ
曽て高僧伝を読むに
僧は清貧に可なるべし
(良寛、原漢文)

江戸時代後期の僧・良寛和尚は、安永8年(1779)二十二歳のとき、円通寺第十世・大忍国仙和尚の弟子となって故郷の越後を離れ、寛政3年(1791)に国仙和尚が遷化されるまでの約十二年間、この円通寺で禅の修行をされたのでした。
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 私は昔、高校生のときに良寛和尚の詩歌やその生き方に魅せられ、K大学仏教学部に学びました。世間的にも出世間的にも何の地位も得ることなく、生涯何にもならなかった托鉢僧・良寛和尚は、まるでヘルマン・ヘッセの小説に描かれている放浪者と瓜二つに思われました。あれから約三十年たった今、良寛和尚は依然としてそのやさしい潤いを失っていないばかりか、その境地の至高さと己れの愚かさにますます愕然とさせられ続けています。
 円通寺の良寛堂。
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かつての衆寮で、良寛和尚も此処で寝起きされていたのでした。

憶う円通に在りし時
恒に吾が道の孤なるを歎ぜしを
柴を運んでは龐公(ほうこう)を懐い
碓を踏んでは老廬を思う
入室敢て後るるに非ず
朝参常に徒に先んず
一たび席を散じてより
悠悠たり三十年
山海 中州を隔て
消息 人の伝うる無し
旧を懐いて終に涙有り
之を寄す 水の潺湲(せんかん)たるに
(良寛、原漢文)

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良寛和尚は師・大忍国仙和尚が遷化される前年(寛政2年(1790))に印可を受けましたが、師が亡くなると諸国を行脚され、やがて寛政8年(1796)三十九歳のとき、故郷の越後に十七年ぶりに飄然と戻ってきたのでした。一介の托鉢僧(乞食僧)として・・・。

少年父を捨てて他国に走り
辛苦虎を画いて猫にも成らず
人有り若し箇中の意を問わば
箇は是れ従来の栄蔵生
(良寛、原漢文)

出雲崎の名主であった橘屋山本家の長男として生まれた栄蔵(後の良寛)は、十六歳で元服して文孝と名乗り、名主見習となりました。しかし十八歳のときに突然出家し、二十二歳のときから大忍国仙和尚に就いて円通寺で修行。その良寛和尚が、後に自ら「虎になろうとして猫にもならず、結局元の栄蔵君のまんまだわい」と詠っているのです。
 円通寺の裏山(白華山)の頂に鎮座する、愛宕殿。
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南には源平の水島合戦(寿永2年(1183))の舞台となった乙島と柏島、瀬戸内海の彼方は四国。
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円通寺を辞してから越後に帰るまでの間、良寛和尚は諸国を行脚していたようです。近藤万丈の「寝覚の友」(弘化2年(1845))には万丈が若い頃、土佐で雨宿りのためにとある庵に寄ったところ、「色青く面やせたる僧」が独りで炉を囲んでおり

「此僧、初めにものいひしより後は、ひとこともいはず。坐禅するにもあらず、眠るにもあらず、口のうちに念仏唱ふるにもあらず。何やら物語てもただ微笑するばかりにて有しにぞ、おのれおもふに、こは狂人ならめと。其夜は炉のふちに寝て暁にさめて見れば、僧も炉のふちに手枕して、うまく寝て居ぬ。」

とあります。この庵の中には木仏ひとつと、窓際の机の上の文二巻の他は何一つなく、その「文」は唐刻の「荘子」であったとのこと。「荘子」にこの僧が書いた詩がはさんであり、目を驚かすばかりの草書だったので万丈が扇と筆を取り出して賛を乞うと、僧は言下に書いたのでした。その賛の末には、
「かくいふものは誰ぞ、越州の産了寛書ス」
とあったそうです。
 良寛さんが「荘子」を読んでいたというのは、私には首肯けます。良寛さんは禅僧であり、生涯、道元禅師を讚仰していました。

憶い得たり疇昔玉島に在りて
円通の先師
正法眼を提示せるを
当時已に景仰の意有り
為に拝閲を請い親しく履践す
始めて覚る 従前漫りに力を費せしを
是れ由り師を辞し遠く往返す
嗟嗟(ああ)永平 何の縁か有る
到る処逢著す正法眼
参じ去り参じ来る凡そ幾回ぞ
其の中往々呵嘖無し
(良寛「讀永平録」、原漢文)

しかし、越後に帰ってからの良寛さんは一宗一派に執われず、禅寺ではなく国上寺(真言宗)の五合庵や乙子神社の草庵に住み、

我ながらうれしくもある
弥陀仏のいます御国へ行くと思えば

とも歌っています。
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(五合庵、2017.10参拝時)

法の塵に汚れぬ人はありと聞けど
まさ目に一目見しことはあらじ(良寛)

良寛さんは、宗教の枠を超越した自由人であったようです。良寛和尚と親交のあった越後・牧ヶ鼻の庄屋・解良叔門の息子で、幼い頃から良寛さん(宝暦8年(1758)~天保2年(1831))を目の当たりにしてきた解良栄重(文化7年(1810)~安政6年(1859))は、「良寛禅師奇話」に良寛和尚の思い出を書き留めています。

「師常ニ黙々トシテ、動作閑雅ニシテ、餘有ルガ如シ。心廣ケレバ體ユタカ也トハ、コノ言ナラン。」

「師平生、喜怒ノ色ヲミズ、疾言スルヲキカズ。其飲食起居、舒(おもむ)ロニシテ愚ナルガ如ク。」

「師能(よく)人ノ為ニ病ヲ看、飲食起居心ヲ尽ス。又能按摩シ、又灸ヲスフ。人明日我為ニ灸セヨト云フ。師明日ノコトト云ヒテ敢テ諾セズ。」

「師余ガ家ニ信宿日ヲ重ヌ。上下自ラ和睦シ、和氣家ニ充チ、歸去ルト云ドモ、数日ノ内人自ラ和ス。師ト語ルコト一夕スレバ、胸襟清キコトヲ覚ユ。師更ニ内外ノ経文ヲ説キ、善ヲ勧ムルニモラズ。或ハ厨下ニツキテ火ヲ燒(た)キ、或ハ正堂ニ坐禅ス。其話、詩文ニワタラズ、道義ニ不及。優游トシテ名状スベキコトナシ。只道徳ノ人ヲ化スルノミ。」

「師神氣内ニ充テ秀發ス。其形容神仙ノ如シ。長大ニシテ清癯(く)、隆準ニシテ鳳眼、温良ニシテ厳正、一点香火ノ氣ナシ。」

朴訥として飄々たる、神仙の如き老人。この良寛さんの実像は、「荘子」に説かれている、醜男で自分の意見を唱えることもなく、常に人に和するのみなのに、多くの人から親しまれ愛された「哀駘它(あいたいだ)」などの「真人」にも通じるのではないでしょうか。良寛さんの魅力は、ピッカピカに輝くまばゆい光ではなく、内にこもった汲めども尽きない光、「葆光」(「荘子」斉物論篇)といえましょう。
 円通寺を下り、北側に歩を進めて再び山側へ。墓地の間を登ってゆくと、藪の下に「仙桂和尚 墓石 歌碑 跡」があり、さらに上にも「仙桂和尚墓石」。
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二つの小碑の間の藪中には土や落葉に半ば埋もれた案内板が倒れており、土を拭ってかすれた字を解読してみると、大忍国仙和尚が寛政2年(1790)冬に建てた水月庵の跡でした。
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寛政2年冬、良寛和尚は「水月庵老納大忍」即ち大忍国仙和尚から印可の偈を与えられています。国仙和尚は翌3年(1791)3月に遷化され、ご遺骨は水月庵に塔されたとのこと。そして良寛和尚の兄弟子・仙桂和尚が、文化元年(1804)10月に亡くなるまでこの水月庵で国仙和尚のお墓を守っていたそうです。

仙桂和尚は真の道者
貌は古にして言は朴なる客
三十年 国仙の会に在りて
参禅せず読経せず
宗文の一句をも道わず
園菜を作って大衆に供養す
当時我之を見れども見えず
之に遇い之に遇うも遇わず
吁嗟(ああ)今之に放(なら)はんとするも得べからず
仙桂和尚は真の道者
(良寛、原漢文)

藪中で念仏をお称えし、国仙和尚・仙桂和尚・良寛和尚を偲びました。
 水月庵跡を下って里見川を渡り、さらに溜川を渡って南へ。
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山手の方に登ってゆき、円乗院(天台宗)に参拝。
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さらに登ると、山の頂に鎮座する箸蔵神社。
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東方に高梁川。
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円乗院から北へ下り、地元の方に「真如院」の場所を尋ねたものの、円乗院は知っているが真如院は分からないとのこと。歩き回っているうちに「西爽亭(さいそうてい)」という屋敷に出、その脇に真如院への登り口が見つかりました。小道を登ってゆき、真如院(旧名真如庵)参拝。
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大忍国仙和尚が安永7年(1778)に再興し、弟子の義提尼を住庵させた処だそうです。国仙和尚遷化後、義提尼は托鉢で得た浄財で文政5年(1822)に国仙和尚のために宝篋印塔を建立、天保8年(1837)に示寂して真如庵に葬られたのでした。
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その宝篋印塔は塔身下段に「シッチリヤ」の梵字(「宝篋印塔陀羅尼」冒頭、漢訳すれば「南無三世一切如来」の「三」に、前後の音がくっついた字)と、「宝篋印陀羅尼経」の経文。

もし有情(衆生)あって
よくこの塔において
一香・一華をたむけて
礼拝供養すれば
八十億劫にわたる
生死の重罪は
一時に消滅し
生あるうちは災殃を免れ
死ののちは仏の家に生まれるであろう。

もし阿鼻地獄に
堕ちるようなことがあっても
もしこの塔において
あるいは一たび礼拝し
あるいは一たび右遶すれば
地獄の門は塞がれ
菩提の路が開かれるであろう。

(「宝篋印陀羅尼経」、拙訳)

笠の隅飾突起も広がっており、同時代に豪潮律師が九州や東海各地に造立された「八万四千」宝篋印塔と似ています。「豪潮式」とも呼ばれるこのような宝篋印塔は、前日(1月21日)に真備町の吉備寺でも拝みました。
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豪潮律師が最初の八万四千塔を肥前・基山の大興善寺に起てたとき(享和2年(1802))よりも早い寛政2年(1790)の塔。「豪潮式」の宝篋印塔は豪潮律師以前からあり、当時の流行のデザインであったようです。国仙和尚宝篋印塔の御前で宝篋印陀羅尼と念仏をお唱えし、国仙和尚・仙桂和尚・義提尼・良寛和尚を供養しました。
 西爽亭に寄ってみると、其処は備中松山藩主の御座所となっていた柚木家の邸宅でした。慶応4年(1868)の鳥羽・伏見の戦いで備中松山藩主・板倉勝静(幕府方)の親衛隊長として大阪で活躍した熊田恰(あたか)は、藩主の命により玉島港に上陸したものの、明治維新政府の鎮撫使の征討を受けた松山藩が恰の帰藩を認めなかったため、部下の助命を嘆願して此処・西爽亭の「次の間」にて自刃、玉島を戦火から救ったのでした。
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熊田恰が自刃した日は、1月22日。奇しくも、熊田恰のご命日に此処を訪れたのでした。天井には血痕を拭いた跡。熊田恰を偲びつつ、良寛和尚の「月のうさぎ」の長歌を想いました。

・・・
うさぎは野辺に 走れども
なにも物せず ありしかば
汝(いまし)は心 もとなしと
戒めければ はかなしや
うさぎやからに 語らくは
猿(まし)はしばを 刈りてたべ
きつねはそれを 焚きてよと
任(ま)けのまにまに なしつれば
炎に投げて あたら身を
旅人の添えと なしにけり
旅人はそれを 見るからに
天(あめ)に仰ぎて 打ち嘆き
土に倒れて ややありて
胸打ちたたき 申すらく
汝(いまし)三人(みたり)の 友たちに
勝り劣りは 言わねども
うさぎを我は 優しとて
殻を抱いて はろばろと
天津雲居を かき分けて
月の宮にぞ 納めける
しかしてしより つがのきの
いや継ぎ継ぎに 言い継ぎて
月のうさぎと いうことは
これが元にて ありけりと
聞く我さえも 墨染めの
衣のそでは とおりてぬれぬ
(良寛「月のうさぎを読める」)

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松樸裏

Author:松樸裏
自由と孤独を愛するアウトサイダーと、万物の母たる大自然との一対一の対話
2006~奥美濃の藪山を登り始める
2009~白山三禅定道を毎年登拝
2016~19白山美濃馬場の古の山伏の行場「白山鳩居峯」のうち五宿を毎月巡拝、以後随時巡拝