FC2ブログ

記事一覧

武蔵嵐山・鵜沼~道灌公と万里集九

 2019年末の26日午後、武蔵嵐山(らんざん)の白山神社へ。
20200103134749e2b.jpg
山の麓から少し登ると、不動明王を祀るお堂。
202001031347536af.jpg
さらに石段を登ってゆくと、山上に鎮座する、白山神社。
20200103134754824.jpg
かつて、此の辺りは平澤寺(へいたくじ)という古刹の境内でした。長享2年(1488)8月17日、三日前に妻子と江戸城を発った詩僧・万里集九(ばんりしゅうく)が此処に布陣していた太田資康(すけやす、太田道灌の子)を訪れ、9月26日まで滞在しています。

「十七日。須賀谷之北平澤山ニ入リ、太田源六資康之軍営ヲ明王堂畔ニ問フ。」(「梅花無尽蔵」、原漢文)

京都・相国寺の禅僧であった万里集九は、応仁元年(1467)四十歳のとき、応仁の乱の兵火を避けて近江へ、さらに美濃へ移り、やがて還俗して鵜沼に梅花無尽蔵庵を建て、妻子と暮らしながら漢詩を作ったり講義をしていました。五十八歳の文明17年(1485)、江戸城の城代・太田道灌(どうかん)に招かれて9月7日に鵜沼を出発、尾張から東海道を下って10月2日に江戸城に着き、翌3日、城内の道灌の亭・静勝軒でこう詠んでいます。

一々細カニ佳境ヲ并(なら)ベテ看ルニ
隅田ノ河外、筑波ノ山
窓ニ入ルノ富士、道(い)フニ堪ヘズ 
潮気、舟ヲ吹イテ旅顔ヲ慰ム
(「梅花無尽蔵」、原漢文)

城内で万里集九は北宋の詩人・黄庭堅の詩の講義をしていましたが、翌18年(1486)7月26日、道灌は主君・扇谷(おうぎがやつ)上杉定正(相模国守護)に相模の糟谷で暗殺されてしまったのでした。
 文明8~9年(1476~77)に山内(やまのうち)上杉顕定(あきさだ、関東管領・上野国守護)の家臣・長尾景春が起こした反乱や、古河公方(こがくぼう)・足利成氏(しげうじ)と両上杉(山内上杉顕定と扇谷上杉定正)の和睦後も兵を引かなかった千葉孝胤(のりたね)の鎮圧に大功を立て、三十年近く関東を二分して続いた享徳の乱の終結(文明14年(1482))に貢献した「文武両道の鑑」、太田道灌公。道灌の死後、両上杉の戦乱が勃発、息子の太田資康は上杉顕定方に移ります。道灌の三回忌(長享2年(1488)7月)、万里集九は「太田二千石春苑道灌静勝公」のご霊前に詩を捧げています。

東遊、遠シト雖モ君ノ為ニ招カル
冤血、端無クモ九霄(しょう)ニ濺(そそ)グ
枕ヲ借ルコト三年ニシテ、裁(わづ)カニ夢ニ見ル
風ハ吹ケドモ、芭蕉ヲ破却セズ
(「梅花無尽蔵」、原漢文)

三回忌を終えた万里集九は、上杉定正の慰留を振り払って8月14日に江戸城を離れ、17日に資康の軍営を訪れてこう詠んだのでした。

明王堂畔ニ君ガ軍ヲ問ヘバ
雨後ノ深泥ハ雲ヲ度(わた)ルニ似タリ
馬足未ダ臨マザルニ草、血ヲ吹ク
細カニ看、戦塲ノ文ヲ作ルヲ要ス
(「梅花無尽蔵」、原漢文)

この二ヶ月前の6月18日、須賀谷(菅谷)で両上杉の戦闘があり、両軍七百余人が亡くなったとのこと。白山権現に参拝し、道灌公、資康公、および当時の戦乱で命を失った多くの人々を偲びました。
 万里集九が平澤を発つ前日の9月25日、太田資康は「平澤寺鎮守白山之廟」で詩歌の会を催しています。万里集九は、こう吟じます。

一戦 勝ニ乗ジテ、勢尚加ハル
白山古廟、澤ノ南涯ニアリ
皆知ル、次第ニ神助有ランコトヲ
九月春ノ如ク、月自(おのず)カラ花ノゴトシ
(「梅花無尽蔵」、原漢文)

万里集九はその後、上州白井、沼田を経て越後に入り、六日町、柏崎、府中では越後国守護・上杉房定(常泰、関東管領上杉顕定の実父)を訪問、能生(のう)の太平寺で11月18日から翌年4月29日まで冬越しし、越中・飛騨を通って延徳元年(1489)5月12日に美濃の鵜沼に帰ったのでした。
blog_import_5c77ec3ca7c59.jpeg
(能生・白山神社(かつての太平寺)、2018.11)
能生滞在中、万里集九は関東での戦況を聞き、資康の身を案じつついくつかの詩を作っています。

三戦、今聞ク、三捷(しょう)ノ功
官軍ノ路、武陵ヨリ通ズ
逆兵已ニ敗レ、楚気暗シ
山色春ヲ吹ク、帷幕ノ中
(「梅花無尽蔵」、原漢文)

理由なく道灌を殺した定正の軍を「逆兵」、資康の属している顕定の軍を「官軍」と呼んでおり、万里集九がいかに太田道灌を敬慕していたかが伝わってきます。道灌公は万里集九より四歳下。道灌が殺されたとき、息子の資康は若干十一歳。万里集九が平澤の陣中に資康を訪れ、能生でこの詩を詠んだとき、十三歳です。万里集九は平澤滞在中に三浦義同(よしあつ、道寸)とも会っており、道寸は道灌の遺児・資康を助けていたのでしょう。
 平澤から丘陵地帯を南下し、槻川(つきかわ)へと行道。川沿いのフェンスには、水の流れた跡が付いています。
2020010313475432d.jpg
処々、道路にも泥が・・・。2019年10月の台風19号の爪痕です。槻川と都幾川(ときがわ)の合流地点・二瀬(ふたせ)。
20200103134757e22.jpg
菅谷城下を流れる都幾川に降りると、頭上、高さ三~四mくらいの枝にもゴミが付いていました。
2020010313475891c.jpg
菅谷城。
20200103134759807.jpg
「六月十八日。須賀谷ニ両上杉戦有リ。死者七百餘員。馬亦数百疋。」(「梅花無尽蔵」、原漢文)

道灌亡き後、両上杉の戦いはドロ沼化、その間に駿河・今川氏の家臣であった伊勢宗瑞(北条早雲)が伊豆・相模に進出、道灌を殺した上杉定正は明応3年(1494)、伊勢宗瑞と共に上杉顕定を攻める途中、落馬して亡くなったのでした。太田資康は定正の死後、扇谷上杉方に戻り、永正10年(1513)、伊勢宗瑞と相模の三浦で戦っていた義父・三浦義同(道寸)の救援に向かって戦死、義同も三崎城に三年籠城の末、滅びたのでした。
 2020年元日の夕、美濃・鵜沼へ。万里集九の梅花無尽蔵庵は、現在の鵜沼駅辺りにあったようです。鵜沼駅の南を流れる、木曽川。
202001031353332b6.jpg
対岸には犬山城。中山道鵜沼宿から、大安寺川を上流へと歩いてゆきました。
20200103135335b48.jpg
小山の上に鎮座する白山神社に初詣。
2020010313533612f.jpg
山の北麓に佇む池。
20200103135337e11.jpg
その池の西側の丘に、大安寺があります。
20200103135338b9f.jpg
文明13年(1481)、万里集九の長男・千里が九歳で病死。

「石塔婆ヲ大安ノ西洞ニ安ンズ。」(「梅花無尽蔵」、原漢文)

次男の百里は、万里集九が江戸に移った翌文明18年(1486)に母と共に江戸に迎えられ、越後経由の帰路にも同行、後に画僧となったようです。大安寺にて般若心経をお唱えし、万里集九一家を偲びました。万里集九は道号が万里、諱(いみな)が集九で、9月9日生まれなので「集九」としたそうです。

 江戸時代末期に岡谷繁実が著した「名将言行録」によれば、太田資長(すけなが、道灌)は十五歳のとき、父・資清(道真(どうしん))から

「人は正直にあらざればならず、譬ば障子(しょうじ)の如し、直なれば立ち、曲れる時は立たざるものなり」

と教えられると、屏風を持ってきて

「是等は直ければ立たず、曲れば立ち候、是は如何に候や」

と問い返したそうです。父・道真も文武に優れた武将で、万里集九も江戸滞在中の文明18年(1486)6月10日、道灌と共に越生(おごせ)にいた道真を訪れ、詩歌の会に参加しています。道灌はその翌月に主君・上杉定正に殺され、父・道真は二年後の長享2年(1488)に亡くなりました。万里集九が平澤の陣中に太田資康を訪ねる前日、越生を訪れたときは、道真が亡くなってまだ半月も経っていなかったようです。「名将言行録」には道灌が寛正6年(1465)に京に上り、後土御門天皇に武蔵野の風景を尋ねられて

我庵は松原続き海近く
富士の高嶺を軒端にぞ見る

と歌ったとあります。この歌は、道真の歌とも云われているようです。
 扇谷上杉定正に仕える太田道真・道灌父子は長禄元年(1457)、江戸城、河越城、岩槻城を築城。
20200103135644689.jpg
(江戸城、2019/12/28)
関東では享徳3年(1454)、鎌倉公方・足利成氏(しげうじ)が関東管領・山内上杉憲忠を自邸に招いて殺し、将軍・足利義政が足利成氏討伐を命じて室町幕府・両上杉方と下総北部の古河に移った足利成氏(古河公方)方の戦(享徳の乱)が関東を二分し、三十年近くも続くことになりました。応仁元年(1467)には京の都で応仁の乱も勃発します。そもそも、足利成氏の父、鎌倉公方・足利持氏は永享10年(1438)、関東管領・山内上杉憲実を征伐しようとして室町幕府・上杉連合軍に敗れ翌年自刃、嘉吉元年(1441)には持氏の遺児・春王丸(十三歳)と安王丸(十一歳)も捕らえられ、京へ護送中に美濃・垂井の金蓮寺で処刑されたのでした。
20200103135647b69.jpg
(春王丸・安王丸の墓、2019/12/31)
二人の辞世の歌。

夏草や青野が原に咲く花の
身の行衛こそ聞かまほしけれ(春王丸)

身の行衛定めなければ旅の空
命も今日に限ると思へば(安王丸)

この二人の弟の万寿王丸こそ、後の足利成氏なのでした。
 太田道灌は文明8~9年(1476~77)に山内上杉顕定の家臣・長尾景春が起こした反乱に際し、景春方に付いた豊島氏の石神井城等を攻め落とし、豊島氏を滅ぼしました。「名将言行録」には道灌が小作城(小机城)を攻めたとき

「敵衆(おほ)く味方寡し、家臣小を以て大に勝つことは如何あるべしと言ければ、資長(道灌)、善く兵を用ふる者は兵多少に寄らず、勢に乗ずるものなり、我歌を唱ふるの声に応じ何れも和唱し進み戦ふべし」

と命じ、

小作はまづ手習の始にて
いろはにほへとちりぢりになる

と歌いつつ城を落としたとあります。小机城(新横浜駅の西方)も豊島氏が籠っていたと伝わり、このときのことでありましょう。
 道灌の活躍に幕府・両上杉軍は救われましたが、長尾景春は古河公方・足利成氏と手を結んで成氏が上州に出陣、12月には両軍が広馬場に対陣したものの、大雪となり、翌文明10年(1478)正月、幕府・両上杉軍と古河公方成氏は和睦したのでした。しかし、下総では古河公方方の千葉孝胤(のりたね)が和睦に従わず、道灌は文明10年12月に下総・境根原で孝胤を敗走させ、翌11年(1479)には孝胤が籠った臼井城を攻め落としています。「名将言行録」に

「文明中下総臼井城に一揆起り定正に反く。資長三千餘騎を引具し、折寄せけれども、城堅くして容易く落難く見えしかば、鴻の臺(市川の国府台)に付城を構へ、間を縦ち城中に返り忠の者ありと言はせければ、城兵疑惑を生じ心々に成り、抜々に落失たるを見済し、一挙して其城を抜けり。」

とあるのは、境根原(柏市)でのことでしょう。
 「名将言行録」に

「僧集九が詩に曰く、山ハ士峰ヲ仰ギ、人ハ道灌」

とあります。これは、万里集九六十七歳の明応3年(1494)正月3日、「富士ヲ話ス」という詩です。

東遊僂指(ろうし)ス、十年来
吟禿数莖(けい)、髭モ亦纔(わず)カナリ
山ハ士峰ヲ仰ギ、人ハ道灌
欧公ニ効(なら)ヒ高キヲ賦セント欲センカナ
(「梅花無尽蔵」、原漢文)

「欧公」は北宋の文人・欧陽脩のこと。山は富士山、人は道灌。道灌公は、

「諸葛武侯(諸葛亮(孔明))の再生なり」(「名将言行録」)

とも云われていたのでした。
 文明18年(1486)7月26日、太田道灌は主君・扇谷上杉定正に糟谷(伊勢原市)の館に招かれ、暗殺されました。「名将言行録」では、関東管領・山内上杉顕定が広めさせた讒言を定正が信じ、殺したとされています。

「死に臨み和歌を詠ず、其歌に曰く、
昨日までまくめうしわを入れ置きし
へむなし袋今破りけむ」
(「名将言行録」)

「まくめうしわ」とは「莫妄想」、くだらんことを考えるな!という禅語。「へむなし」とは、道灌や万里集九とほぼ同時代の「閑吟集」に

待つと吹けども
恨みつつ吹けども
篇ないものは、尺八ぢや

とあるように、「何の役にも立たない」という意味です。

昨日まで「莫妄想」を入れておいた役立たずの袋を、今や、破ってしまったようだ・・・

「篇なし袋」を道灌の身体(臭皮袋)と見ることもできましょうが、主君・扇谷上杉定正と見ることもできましょう。

「莫妄想」たるこの道灌を入れていた「篇なし袋」の殿さまは、今や自滅してしまったわい・・・

 享年五十五歳。道灌公がもう少し生きていれば、戦国大名として関東に覇を唱えていたかもしれません。「名将言行録」には水戸藩の儒学者・青山延于の語も記されています。延于は「孟子」の

「人必ズ自ラ侮(あなど)リテ而ル後ニ人之ヲ侮ル。」
「国必ズ自ラ伐チテ而ル後ニ人之ヲ伐ツ。」

を引き、道灌の先例として春秋時代の楚の子玉(成得臣)、呉の伍子胥、南朝宋の檀道済、斉の斛律光(こくりつこう)、隋の高頴(こうえい)、南宋の岳飛を挙げて

「上杉定正資長を任用シ、国富ミ兵強ク、威関東ニ震フ。一旦讒ヲ聞キ之ヲ殺スニ及ビ、人心瓦解シ強土日ニ蹶(くつがへ)リ、卒ニ北條氏ノ并(あわ)セル所ト為ル。此レ理之必然。何ゾ怪ムニ足ランヤ。」(原漢文)

と結んでいます。
 道灌公が江戸城を築いた長禄元年(1457)から約一世紀後、天文15年(1546)に北条氏康は両上杉・古河公方を破り扇谷上杉家は滅亡。永禄4年(1561)に山内上杉家の家督は越後の長尾景虎(上杉謙信)に譲られます。天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原征伐で北条氏政・氏直は降伏、国替えで関東に移らされた徳川家康は江戸城を居城とし、道灌公築城から約百五十年、慶長8年(1603)に江戸幕府が開かれると、江戸城は幕府の政庁となったのでした。さらに、築城から約四百年、慶応4年(明治元年、1868)には明治天皇が東幸され、江戸城は皇居となったのでした。道灌公は道半ばで倒れましたが、道灌公の築いた江戸城は日本の都となったのでした。

「山ハ士峰ヲ仰ギ、人ハ道灌」

五百年以上前の明応3年(1494)正月3日の万里集九のこの句は、令和の世にも色あせることはありません。
20200103135646158.jpg

関連記事

コメント

コメントの投稿

非公開コメント

白山順禮写真館

Haxanjunrei

松樸裏

Author:松樸裏
自由と孤独を愛するアウトサイダーと、万物の母たる大自然との一対一の対話
2006~奥美濃の藪山を登り始める
2009~白山三禅定道を毎年登拝
2016~19白山美濃馬場の古の山伏の行場「白山鳩居峯」のうち五宿を毎月巡拝、以後随時巡拝