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朝倉放浪~中村医師と斉明天皇

 12月18日早朝に太宰府を発ち、朝倉街道駅で下車して路線バスで朝倉へ。通学の時間帯で、バスには次々と高校生たちが乗ってきます。一時間ほどで三連水車の里に着きました。東から西に流れる筑後川の北側を潤す、堀川用水。寛文2~3年(1662~63)の大干魃による飢饉を契機に寛文3年に開鑿された農業用水路です。寛政元年(1789)、用水路の山側(北側)にも水を引くために設置された、菱野の三連水車。
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用水路下流に歩を進めると、三島の二連水車。
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久重の二連水車。
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いずれも6月から10月まで稼動している現役の水車で、今月(12月)4日にアフガニスタンで亡くなった中村哲医師が2003年から建設を始めたマルワリード用水路にも、これらの水車をモデルに木製を鉄製に変え、2013年に設置して住民に譲渡しています。
 久重の水車の側の、「歎きの森」。
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斉明天皇7年(661)5月、前年に唐と新羅に滅ぼされた百済を復興支援すべく、斉明天皇は軍備を整えて筑紫の朝倉橘広庭宮に遷ります。しかし、7月に崩御されたのでした。皇太子の中大兄皇子(天智天皇)は母・斉明天皇の死を此処で深く歎かれたそうです。10月、母の遺体と共に飛鳥へ戻る途上での歌。

君が目の 恋しきからに 泊てて居て かくや恋ひむも 君が目を欲り(「日本書紀」)

歎きの森の祠と石仏の御前で念仏をお称えし、斉明天皇と、中村哲医師を偲びました。
 歎きの森で引き返し、堀川用水を上流へ。
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処々に柳の木があります。中村哲医師がアフガニスタンで亡くなった、まさにその日に発行されたペシャワール会報No.142に、中村医師はこう書いていました。

「我々が用水路建設で行う柳枝工は、すっかり定番となって、柳のない水路は物足りなく思えるほどになった。今年四月、二○○三年にはじまる「緑の大地計画」でPMSが行った植樹が一○○万本を記録、そのうち六○万本が柳だ。」
「至る所で、美しい緑が道行く人たちの心を和ます。着工以来六○万本、柳の精たちが多数現れることを待ち望んでいる。」
(「水のよもやま話(5)」)

 歎きの森から用水路を三十分ほど遡り、筑後川からの取水堰「山田堰」へ。
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寛政2年(1790)、当地の庄屋・古賀百工が藩命を受け、農民たちと共に築いた「石張り斜め堰」。中村哲医師が2003年から建設を始めたマルワリード用水路の取水堰の、モデルとなった堰です。今年(2019年)4月のペシャワール会報に、中村医師はこう記しています。

「用水路は取り込んだ水を運ぶので、自在に作り、維持できます。しかし、自然の猛威と直接対峙する設備はそうはいきません。特に温暖化の影響はクナール河でも激烈で、渇水と大洪水が極端な形で同居していました。」
「取水堰は二○○八年以降、次々と建設されましたが、実際には改修を繰り返し、泥沼の様相を呈していました。朝倉市の山田堰をモデルとすることが、初めからの目標でした。電力が利用できず、土木資機材の搬入が困難で、単純機械による建設、地元住民自身による維持を考えたとき、これに優るものはないと思われたのです。」
「二○一二年、PMSは斜め堰方式を採用して一時的に成功を収めました。三年のうちに全流域が復活し、住民の殆どが戻っています。しかし、堰の不備を補うべく、地元への譲渡まで五年以上の観察期間を置き、改善を重ねていきました。作っては壊れ、壊れては直し、賽の河原のような努力が続きました。」
「二○一九年二月、二つの堰は最終工事を終了、美しい姿を現しました。(中略)カマ堰着工の二○一○年から、事実上の竣工まで九年の歳月が流れていました。事は技術だけではありません。普通、このような試行錯誤はよほどのことがないと許されません。この忍耐を支えたのは、住民たちの協力と日本からの支援でした。山田堰を造った先人たちの悲願がここに漂っている気がしてなりませんでした。」(ペシャワール会報No.139)

山田堰をモデルにしたPMS方式の取水設備と護岸方法は、アフガニスタンのガニ大統領も高く評価しており、この方式を普及してアフガニスタンの国土を復興し、人々が安定して暮らせるようになることこそが、中村哲医師の事業を継続することに他なりません。
 山田堰の岸には水神社があり、道路を挟んだ山中には恵蘇八幡宮。
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裏山の御陵山の紅葉。
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昨日も今日も、季節はずれの温かさです。御陵山の墳墓は、斉明天皇7年(661)7月に朝倉宮で崩御された斉明天皇を、皇太子の中大兄皇子(天智天皇)が10月に撤収するまで一時的に葬った処と伝わります。前年滅亡した百済を復興支援するため、朝倉宮に来てから二ヶ月後のことでした。斉明天皇は先代の孝徳天皇(斉明天皇の弟)の前にも皇極天皇として即位しており、大化の改新から白村江の戦いに至る激動の時代を生死された女帝ですが、慈しみ深い方でもあったようです。
 斉明天皇4年(658)5月、唖者であった八歳の孫・建王(たけるのみこ)が亡くなったとき、天皇は深く悲しみ、

「万歳千秋あらむ後に、要(かなら)ず朕が陵に合せ葬れ」

とおっしゃっています(「日本書紀」)。建王は中大兄皇子(天智天皇)と遠智娘(をちのいらつめ)の子。遠智娘の父は蘇我倉山田麻呂。斉明天皇が皇極天皇として在位中の2年(643)、蘇我入鹿は聖徳太子の御子・山背大兄王を亡ぼし、翌3年(644)、入鹿の専横を憤る中臣鎌子(鎌足)の進言により、蘇我倉山田麻呂の助力を得るために中大兄皇子は遠智娘を娶ったのでした。皇極天皇4年(645)6月12日、飛鳥板蓋宮にて皇極天皇の御前に蘇我入鹿が座す中、蘇我倉山田麻呂が進み出て三韓の表文を読み始めました。中大兄皇子と中臣鎌子の仕向けた刺客はこの間に来るはずでしたが、なかなか来ないので山田麻呂は声も手も震え、入鹿に
「何故か掃(ふる)ひ戦(わなな)く」
と怪しまれます。山田麻呂は
「天皇に近つける恐(かしこ)みに、不覚にも汗流づる」
と答え、中大兄皇子が刺客を励まし
「咄嗟(やあ)!」
と叫ぶと、躍り出た刺客に入鹿は斬られたのでした。驚いた皇極天皇に中大兄皇子が
「鞍作(入鹿)、天宗(きみたち)を尽し滅して、日位(ひつぎのくらい)を傾けむとす。豈天孫(あめみま)を以て鞍作に代へむや」
と申し上げると、天皇は殿中に入り入鹿は殺されたのでした。二日後の6月14日、皇極天皇は弟の孝徳天皇に譲位され、皇祖母尊(すめみおやのみこと)となりました。孝徳天皇は中大兄皇子を皇太子に、阿倍内麻呂を左大臣、蘇我倉山田麻呂を右大臣、中臣鎌子を内大臣に任じ、元号を大化と改めました。天皇の譲位も、大臣を左右に分けたのも、日本初のことでした。
 大化5年(649)、右大臣・蘇我倉山田麻呂の弟・蘇我日向(ひむか)が中大兄皇子に讒言をし、孝徳天皇は山田麻呂討伐を命じます。山田麻呂は自らが建立した飛鳥の山田寺に籠り、皆にこう語ります。

「夫れ人の臣たる者、安ぞ君に逆ふることを構へむ。何ぞ父に孝ふことを失はむ。凡そ、此の伽藍は、元より自身の故に造れるに非ず。天皇の奉為に誓ひて作れるなり。今我、身刺(むざし、日向)に譖(しこ)ぢられて、横(よこしま)に誅(ころ)されむことを恐る。聊か望(ねが)はくは、黄泉にも尚忠(いさを)しきことを懐(いだ)きて退(まか)らむ。寺に来つる所以は、終の時を易からしめむとなり」

そして、

「願はくは我、生生世世に、君王(きみ)を怨みじ」

と言って、首をくくって自害したのでした。
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(飛鳥の山田寺跡、2014.7参拝時)
山田麻呂の一族は殺され、あるいは流されましたが、山田麻呂の資財を没収すると、その書物には「皇太子の書」、重宝には「皇太子の物」と記されており、中大兄皇子は山田麻呂の潔白を知ったのでした。蘇我日向は筑紫大宰帥(だざいのそち、大宰府長官)となり、世人は「是隠流(しのびながし)か」と噂したそうです。
 山田麻呂の死の二年後に生まれた建王(たけるのみこ)は口がきけませんでしたが、斉明天皇は特に愛おしんでいたようです。

「天皇、本より皇孫の有順なるを以て、器(ことに)重(あが)めたまふ。」(「日本書紀」斉明天皇四年条)

建王が亡くなって五ヶ月たった4年(658)10月、紀伊の牟婁温泉に行幸された斉明天皇は建王を思い出し、こう歌いました。

水門(みなと)の 潮(うしほ)のくだり 後(うしろ)も暗(くれ)に 置きてか行かむ

愛(うつく)しき 吾が若き子を 置きてか行かむ

斉明天皇の御陵に掌を合わせて斉明天皇・天智天皇・建王を偲び、山田堰を見下ろしました。
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 「日本書紀」によれば、斉明天皇が皇極天皇として即位中の4年(645)4月、高句麗に遣わされていた学問僧がこう述べています。

「同学鞍作得志(くらつくりのとくし)、虎を以て友として、其の術を学び取れり。或いは枯山をして変へて青山にす。或いは黄なる地をして変へて白き水にす。種種の奇しき術、殫(つく)して究むべからず。又、虎、其の針を授けて曰はく、「慎矣慎矣(ゆめゆめ)、人をして知らしむること勿れ。此を以て治めば、病愈えずといふこと無し」といふ。果たして言ふ所の如くに、治めて差(い)えずといふこと無し。得志、恒に其の針を以て柱の中に隠し置けり。後に、虎、其の柱を折りて、 針を取りて走去げぬ。高麗国、得志が帰らむと欲ふ意を知りて、毒を与へて殺す」

高句麗に留学していた鞍作得志が「虎」に学んだのは、道術でしょうか。得志は枯山を青山に変え、黄色い地を白い水に変え、鍼で人々の病を治したといいます。まるで、中村哲医師のよう。彼が学んだ「虎」は、仙人でしょうか。中国・三国時代の呉の国の仙人・董奉は、無料で人々の病を治療し、治った者には杏の木を植えさせたと伝わります。やがて杏は十万本を越え、杏の林を虎たちが守っていたそうです(葛洪「神仙伝」)。
 白雉4年(653)に遣唐使船で入唐し、斉明天皇6年(660)に帰国した道昭和尚は、「元亨釈書」によれば、在唐中に五百の虎に新羅の山中に招かれ、法華経を講じました。その中に日本語を話せる者があり、
「我は日本国の役小角也」
と言ったそうです。役行者は当時二十代であったはずですが、「日本書紀」斉明天皇元年(655)の条に、

「空中にして竜に乗れる者有り。貌、唐人に似たり。青き油の笠を着て、葛城嶺より、馳せて胆駒山に隠れぬ。午の時に及至りて、住吉の松嶺の上より、西に向ひて馳せ去ぬ。」

とあり、新羅で役行者が虎に化けていたとしても不思議ではありません。斉明天皇は皇極天皇として即位した元年(642)に飛鳥の南淵で四方拝をして雨乞いをし、雨を降らせたり、斉明天皇元年(655)には田身嶺(多武峰)に道観「両槻宮(ふたつきのみや)」を建てるなど、唐の国教であった道教にも影響を受けていたようです。鞍作得志が帰国して、その「術」を日本に普及するのを待っていたことでしょう。しかし、得志は高句麗の人々のために尽くしながら、殺されてしまいました。彼の姿が、私には中村医師と重なって見えてなりません。
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松尾如秋

Author:松尾如秋
自由と孤独を愛するアウトサイダーと、森羅万象を統べているものとの一対一の対話
白山と、白山に育まれているすべてのものへの讃歌
2006~奥美濃の藪山を登り始める
2009~白山三禅定道を毎年登拝
2016~19白山美濃馬場の古の山伏の行場「白山鳩居峯」のうち五宿を毎月巡拝、以後随時巡拝