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太宰府放浪2

(承前)
 観世音寺から西へ歩を進め、戒壇院にて梵網菩薩戒経偈をお唱えして大宰府政庁跡へ。真北に四王寺山(大野城)。
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そして真南に基山(基肄城(きいじょう))。
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展示館に入ると、巨大なカメムシが目につきました。
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展示物ではありません。キマダラカメムシです。東南アジア・台湾・中国から江戸時代に長崎に渡来し、二十世紀後半に九州北部に分布を広げ、二十一世紀に入ると本州に進出、私も今年、岐阜県で初めて出会いました。
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(岐阜市、2019.10)
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(山県市、2019.11)
地球温暖化の指標ともいえるこのカメムシは、安永4~5年(1775~76)にオランダ・東インド会社の外科医として長崎の出島に滞在したスウェーデンの医学者・博物学者、カール・ツンベルク(Carl Thunberg)に採集され、帰国後の1783年に新種として記載されています。ツンベルクの旅行記には、日本で採集した昆虫の中にキマダラカメムシの学名(fullo)が見られます(山田珠樹譯注「ツンベルグ日本紀行」)。ツンベルクは出島だけでなく、許可を得て長崎近郊で植物採集もし、オランダ商館長の江戸参府にも随行して日本人と交流しています。
 ツンベルクは、日本人が子供を育てる方法についてこう記しています。

「決して子供を撲つことはない。文化を誇る歐羅巴の國民が、哲学者たちの賢明なる注意を他にして、その子供たちに盛に加える、この非人道的にして且つ恥ずべき刑罰法を、私は日本滞在中見たことがなかった。」(「ツンベルグ日本紀行」)

ツンベルクから約一世紀後、明治23年(1890)に来日して後に日本に帰化したラフカディオ・ハーン(小泉八雲)も、

「教師は、自分の考えを生徒に押しつけようとしたりはしない。教師は、決して頭から叱りつけるようなことはせず、生徒を非難することもめったになく、懲罰を与えるようなことは決してない。日本の教師で生徒を殴る者はいない。もしそのような行為をしたら、その教師はすぐに職を追われるだろう。平静さを失って怒ることもない。そんなことをすれば、教え子たちや、同僚たちの眼の前で、自分を貶めることになるからである。」(「英語教師の日記から」池田雅之訳)

と記しています。江戸時代・明治時代に日本人が子供に体罰を加えなかったというこの記録は、昭和・平成・令和の世には意外に感じられます。一体、日本人はいつから子供に体罰を加えるようになったのでしょう?
 筑前守・山上憶良は、こう歌いました。

銀(しろがね)も金(くがね)も玉も何せむに
まされる宝 子にしかめやも
(「万葉集」八○三)

延暦23年(804)の遣唐使船での入唐前、宝満山の竈門山寺に薬師如来を祀った伝教大師(最澄上人)は、弘仁13年(822)臨終の際、

「我れ生まれて自り此の來(かた)、口に麁言(そごん)無く 手に笞罰(ちばつ)せず。今我が同法、童子を打たずんば 我が為に大恩なり。努力(つと)めよ 努力めよ。」

と遺言されています。今月(12月)4日にアフガニスタンで亡くなった中村哲医師は、生前最後となったペシャワール会報の「水のよもやま話」に、西條八十の童謡「歌を忘れたカナリア」の

「歌を忘れたカナリアは―柳のムチでぶちましょか、いえいえそれはかわいそう―象牙の船に銀の櫂、月夜の海に浮かべれば、忘れた歌をおもいだす」

を引いて

「叩いたり責めたりしても、人は良くならない。心和む情景の中に置けばよい。その通りだ。第一美しい柳を鞭に使うなど、よろしくない。」

と記しています(ペシャワール会報No.142)。中村医師は、沙漠の中に水を引き、農村を復興して「心和む情景」を築かれた方でした。その業績は、アフガニスタンのみならず、二十一世紀の日本人にとっての、アジア人にとっての、人類にとっての、古くて新しいモデルです。
 同号で、中村医師は唐の詩人・王維の詩を引いてこう書いています。

渭城の朝雨 軽塵を浥(うるお)す
客舎青々柳色新たなり
君に勧む更に尽せ一杯の酒
西の方(かた)陽関を出ずれば故人なからん
「元二の安西に使いするを送る」

「細かい砂漠の塵で覆われる内陸の乾燥地帯は、時折朝方に霧雨が下る。雨が去ると空気が澄み渡り、木の葉の緑が鮮やかに表れる。特にこの季節の柳の色は目が覚めるように美しい。故郷を偲ばせる情景の中で、遠くへ旅立つ親友を送るのである。」

陽関のさらに彼方で活動し、亡くなられた中村哲医師は、わが国の先人たちが大陸から吸収して精神的な血肉とした「歴史的な奥行き」(伝統・文化)に学び、その精神を現在に応用実践された方でした。目に見える事業の継続だけではなく、目に見えない「歴史的な奥行き」に気づき、現代にそして次代に継承してゆくことも、中村哲医師が私たち日本人に託した課題といえましょう。
 大宰府政庁跡から九州国立博物館へと歩を進め、「三国志展」を拝観。中国で出土した「三国志」の時代の文物に、圧倒されました。関羽と息子の関平が呉の孫権の軍に敗れて殺されたのは、建安24年(219)10月。魏の曹操が亡くなったのは、建安25年(220)正月下旬。ちょうど千八百年前に亡くなった、二人の英雄。河南省安陽市で発掘された曹操高陵は、遺体を飾らず宝飾品も入れてはならぬ、との曹操の遺言どおり、玉衣は断片すらなく副葬品も質素でした。「三国志演義」の曹操は残酷な面もありますが、すぐれた人物は敵味方なく評価し、投降した関羽を厚遇しました。さらに、劉備の所在を知るやただちに去っていった関羽の義も称賛しています。
 関羽は死後、関聖帝君(関帝)として祀られるようになりました。「三国志展」に関連して「長崎の関帝信仰」の展示もあり、長崎・興福寺の関帝像を拝むことができました。
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(興福寺、2017.5参拝時)
福建省泉州府安平出身の仏師・范道生の作です。范道生は万治3年(1660)に長崎に渡来、福済寺と興福寺の神仏の像を作りました。福済寺は原爆で全焼してしまいましたが、かつては青蓮堂に観世音菩薩、天后聖母(媽祖)、関帝等が祀られていました。
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(福済寺、2017.5参拝時)
寛文元年(1661)に福建省出身の隠元禅師が京都・宇治に黄蘗山萬福寺を開くと、范道生は寛文3~4年(1663~4)に萬福寺で仏像や隠元禅師像など二十躰を作っています。
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(萬福寺、2016.10参拝時)
寛文4年(1664)、范道生は安南(ベトナム)にいた父の古希を祝うため日本を離れ、寛文10年(1670)に長崎に戻ってきました。が、上陸を許されないまま船中で病死してしまったのでした。享年36歳。范道生は長崎・崇福寺の裏山に葬られました。
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(崇福寺、2017.5参拝時)
范道生作の関帝・関平・周倉の像を拝みつつ、関羽の忠義と范道生の孝行を思うと、千八百年たっても変わらぬ心・海を越えても変わらぬ心に、胸が熱くなりました。
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 太宰府天満宮にて菅原道真公を拝み、降ってきた小雨の中、山腹の宿へと向かいました。


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松樸裏

Author:松樸裏
自由と孤独を愛するアウトサイダーと、万物の母たる大自然との一対一の対話
2006~奥美濃の藪山を登り始める
2009~白山三禅定道を毎年登拝
2016~19白山美濃馬場の古の山伏の行場「白山鳩居峯」のうち五宿を毎月巡拝、以後随時巡拝