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太宰府放浪1

 12月17日朝、西鉄下大利駅で下車して南へ歩を進めると、北東から南西へと連なる長大な堤に出ました

「是歳、対馬嶋・壱岐嶋・筑紫国等に、防(さきもり)と烽(すすみ)とを置く。又筑紫に、大堤を築きて水を貯へしむ。名けて水城(みづき)と曰ふ。」(「日本書紀」天智天皇三年(664)の条)

北東には、大野城が築かれた四王寺山(大野山)。
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「達率(だちそち)憶礼福留・達率四比福夫を筑紫国に遣して、大野及椽(き)、二城を築かしむ。」(「日本書紀」天智天皇四年(665)の条)

斉明天皇六年(660)に唐と新羅に滅ぼされた百済復興のため、朝鮮半島に出兵していた日本・百済連合軍は、天智天皇二年(663)に白村江で大敗を喫し、国防を固めるため大宰府西方に水城、大宰府の北と南の山には百済からの亡命渡来人たちに大野城と椽城(基肄城(きいじょう))を築かせたのでした。水城は御笠川を挟んで西堤と東堤に分かれています。西堤の堤上。
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神亀5年(728)に大宰帥(だざいのそち、大宰府長官)として赴任した万葉の歌人・大伴旅人は、天平2年(730)12月、大納言に任ぜられて平城京へと帰る際、親しかった遊行女婦(うかれめ)・児島の別れの歌にこう和(こた)えています。

ますらをと思えるわれや
水茎の水城のうへに涙拭はむ
(「万葉集」九六八)

大納言・大伴旅人は、翌天平3年(731)に67歳で生涯を終えました。
 御笠川を渡り、四王寺山へ。
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筑前国分尼寺跡を経、筑前国分寺跡に参拝。講堂跡と若宮神社。
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七重塔跡。
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背後には四王寺山(大野山)。神亀5年(728)6月、大宰府赴任から間もなくして、大伴旅人の妻・郎女(いらつめ、家持の母)が亡くなってしまいます。

世の中はむなしきものと知る時し
いよよますます悲しかりけり
(「万葉集」七九三)

大切な人を失った深い悲しみが、伝わってきます。筑前守として旅人と交友のあった山上憶良は、旅人のために「日本挽歌」を歌います。

悔しかもかく知らませば
青丹(あおに)よし国内(くぬち)ことごと見せましものを
(「万葉集」七九七)

大野山霧立ち渡る
我が嘆く息嘯(おきそ)の風に霧立ち渡る
(「万葉集」七九九)

 国分寺跡から坂本公園へと歩を進め、東へ。坂本八幡宮の北に出、四王寺山へと北上。ほのかな芳香にふと見上げると、山茶花が咲いていました。
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天平2年(730)正月13日、大伴旅人は邸宅に大宰府管轄の西海道(九州)諸国の官人たちを招き、梅花の宴を開きました。旅人の邸宅は、坂本八幡宮の辺りにあったともいわれています。

春さればまづ咲くやどの梅の花
ひとり見つつや春日暮らさむ
  筑前守山上大夫(憶良、「万葉集」八一八)

わが園に梅の花散る
ひさかたの天より雪の流れ来るかも
  主人(旅人、「万葉集」八二二)

この「梅花三十二首」の序文が、「令和」の出典です。

「初春の令月にして気淑(よ)く風和(やはら)ぎ、梅は鏡前の粉を披(ひら)き、蘭は珮後の香を薫らす。」 

 山上の大野城を目指して、寂かな山道を行道。
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谷筋を登ってゆくと、三十分ほどで「大石垣」に出ました。
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さらに上へと足を進め、鏡池に参拝。
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山上は霧が立ち込め、時折小雨も降ってきます。百済の亡命渡来人が築いた大野城は山全体が城塞で、この辺りは増長天地区と呼ばれ大きな倉庫の跡が残っています。
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石仏(観音さま)に掌を合わせ、北東へと縦走。尾根には延々と土塁が続き、南東に九州国立博物館の巨大な屋根が見下ろせます。
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石仏を拝みつつ足を進めると、やがて玄清法印のお墓が現われました。
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玄清法印は玄清法流派の琵琶法師の祖で、「仏説盲僧元祖」によれば、筑前国御笠郡四王寺、つまり当地にいた盲僧・玄清法印は、夢に老翁から「琵琶ヲタンシ地神陀羅尼経ヲ読誦スベシ」とのお告げを得、比叡山に登って地神陀羅尼経を誦し毒蛇の障りを除いたので、伝教大師(最澄上人)が一乗止観院(延暦寺)を建てることができたとのこと。延暦9年(790)には疫病が流行し、伝教大師の命で玄清法印が盲僧たちを集めて地神陀羅尼経を誦すと、疫病が収まったそうです(高見寛孝「荒神信仰と地神盲僧」)。墓前にて念仏をお称えし、遠見所まで行って、来た道を戻りました。
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 鏡池から南へ下り、正午に岩屋城址着。
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戦国時代の城跡で、とても眺めのよい処です。南に大宰府政庁跡と観世音寺、彼方には天拝山、そして基山(基肄城)。
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東には九州国立博物館と太宰府天満宮、そして宝満山。
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北は下ってきた四王寺山。
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西には御笠川を挟んで続く水城と、博多湾。
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岩屋城主・高橋紹運のお墓に掌を合わせ、金光寺跡へと下りました。
 金光寺跡からさらに南下し、観世音寺へ。玄昉(げんぼう)僧正のお墓がありました。
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養老元年(717)の遣唐使船で入唐し天平7年(735)に帰国した玄昉僧正は、朝廷で重んじられましたが、天平17年(745)に観世音寺別当に左遷され翌年亡くなったのでした。「泰澄和尚伝記」によれば、白山を開かれた泰澄和尚は天平8年(736)に玄昉僧正を尋ねて十一面経を授かり、翌年の疱瘡流行の際に十一面(観音)法を修しています。
 観世音寺は、享和2年(1802)の基山・大興善寺を皮切りに九州・東海各地に「八万四千」宝篋印塔を造立された豪潮律師が、少年時代に法友・珍牛禅師と出会った処でもあります(「瑞岡珍牛禅師小傳」)。観世音寺講堂にて般若心経、金堂にて念仏をお称えしました。
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観世音寺は、天智天皇が母・斉明天皇の菩提を弔うために建てた寺院です。斉明天皇は7年(661)5月、前年に唐と新羅に滅ぼされた百済の復興支援のため筑紫の朝倉宮に遷りましたが、7月に崩御されたのでした。斉明天皇4年(658)に孫で唖者であった健王(たけるのみこ)が八歳で亡くなった際、天皇はとても悲しんで「要(かなら)ず朕が陵に合せ葬れ」とおっしゃっています。

山越えて 海渡るとも おもしろき 今城の中は 忘らゆましじ

水門(みなと)の 潮(うしほ)のくだり 海(うな)くだり 後(うしろ)も暗(くれ)に 置きてか行かむ

愛(うつく)しき 吾が若き子を 置きてか行かむ 
(斉明天皇御製、「日本書紀」)

宝蔵には平安時代の巨大な仏菩薩の像が祀られ、かつて金堂のご本尊であったという阿弥陀さまの御前で念仏をお称えし、大化の改新から白村江の戦いに至る激動の時代を生死された斉明天皇を偲びました。

(続く)

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松樸裏

Author:松樸裏
自由と孤独を愛するアウトサイダーと、万物の母たる大自然との一対一の対話
2006~奥美濃の藪山を登り始める
2009~白山三禅定道を毎年登拝
2016~19白山美濃馬場の古の山伏の行場「白山鳩居峯」のうち五宿を毎月巡拝、以後随時巡拝