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英彦山~岳滅鬼山~宝珠山放浪1

 九州の霊峰・英彦山には昨年(2018年)10月に登る予定でしたが、台風のため断念、翌日に彦山六峰の一つ・松尾山に登りました。7月17日朝、念願の英彦山へ登拝すべく、小倉駅から日田彦山線に乗車。二年前(2017年7月)の九州北部豪雨以来、添田駅~日田駅間は未だ復旧しておらす、添田駅から代行バスに乗って9時15分に彦山駅着。
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リュックを背負って駅舎の写真を撮っていると、地元のおじいさんが話しかけてこられ、駅舎をバックに写真を撮ってくれたり、若い頃ここから英彦山まで登った時の話などしてくださいました。親切なご老人に感謝し、彦山川に沿って南東へ行道。
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雨の心配はなく、青空も見えます。10時に南坂本から山道に入り、車道より涼しい石畳の道を上へ。
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唐ヶ谷の八龍地蔵尊に参拝し、石段を登ってゆきました。
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新森稲荷大明神を経て10時半前に銅鳥居(かねのとりい)着。
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浄土宗第二祖・鎮西上人の像や天台宗・霊泉寺に参拝して、まっすぐに上へと続く参道を行道。
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左右には、延々と続く坊院の跡。建物が現存している坊もあり、規模の大きさに驚かされます。
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かつて、英彦山には十谷に三千八百坊があったといわれ、白山越前馬場・平泉寺の六千坊と同様の誇張であったにしても、幕末の時点で二百五十余坊が実在したそうです。これらの坊は修験・衆徒(しと、仏教派)・惣方(神道派)に分かれて彦山霊仙寺一山を構成し、頂点には座主がいました。白山美濃馬場・長瀧寺の坊院が衆徒(仏教派)・座中(修験派)・神主に分かれていたのと同様ですが、白山の坊跡はほぼ山林や田畑に埋もれた廃墟。英彦山の参道を歩いていて、かつての白山の坊院もこのようだったのかなぁ、と想わずにはおれませんでした。
 無数の坊院跡の案内板を見つつ石段を登ってゆくと、前方に塔上の宝珠が見えてきました。
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豪潮律師の宝篋印塔です。
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肥後・玉名出身の天台僧・豪潮律師は宝篋印塔八万四千造立の大願を立て、享和2年(1802)の肥前小松・大興善寺の塔を皮切りに九州各地に、文化14年(1817)に尾張に移ってからは東海各地に壮麗な宝篋印塔を起塔されました。英彦山の塔は文化14年(1817)の造立、「豪潮律師畧伝」に
「就中その顕著なるは豊前国彦山中腹の一基」
と、名古屋・萬松寺の塔等と共に挙げられています。かなり大きい塔とは聞いていましたが、たしかに白山美濃馬場・長瀧寺の塔より少し大きそうです。が、名古屋の萬松寺の塔(明治44年(1911)の総持寺の鶴見移転に合わせ、総持寺に献納)や常滑・天沢院の塔ほどの大きさではありません。
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(総持寺の豪潮律師宝篋印塔、2017/12/31)
英彦山の塔は明治の神仏分離の際に塔身上段の金剛界曼荼羅の四智如来の種字がくり抜かれ、塔身下段の「シッチリヤ」の梵字も削られています。宝篋印塔とは過去・現在・未来の三世のすべての仏さまのお骨であり分身である「宝篋印陀羅尼」を納めた宝塔で、豪潮律師の八万四千塔の特徴の一つである「シッチリヤ」の梵字は、漢訳すれば「南無三世一切如来」となる呪文(サンスクリット語)の「三」に、前後の音がくっついたもの。

若し有情有りて 能く此の塔に於いて
一香一華もて 礼拝供養せば
八十億劫の 生死重罪
一時に消滅し 生には災殃を免れ
死しては仏の家に生まれん。
若し応に阿鼻地獄に堕すべきこと有らんに
若し此の塔に於いて 或いは一たび礼拝し
或いは一たび右遶せば 地獄の門は塞がれ
菩提の路は開かれん。
(「宝篋印陀羅尼経」)

宝塔を見上げつつ宝篋印陀羅尼を誦し、彦山有縁の生きとし生けるものの現当二世安楽をお祈りしました。
 宝篋印塔からさらに石畳を登り招魂社に参拝、社の後方の「花月座石」へ。
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謡曲「花月」で、七歳の少年・花月が天狗にさらわれた処です。花月の父はその後出家して諸国を行脚し、京の清水寺の門前で曲舞などをしていた息子と再会したのでした。彦山権現を拝み、11時に奉幣殿(英彦山神宮)へ。かつての霊仙寺大講堂です。
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彦山三所権現の本地垂迹は、北岳が阿弥陀如来・天忍穂耳尊(アメノオシホミミノミコト)、中岳が千手観音菩薩・伊弉冊尊(イザナミノミコト)、南岳が釈迦如来・伊弉諾尊(イザナギノミコト)。「鎮西彦山縁起」によれば、北嶽にはもともと宇佐嶋から移った宗像三女神と大己貴命(オホナムチノミコト)がおられ、天忍穂耳尊の霊が鷹の姿で飛来したので、大己貴命は天忍穂耳尊に北嶽を献じて許斐山(このみやま)に移り、三女神も宗像へ移ったとのこと。彦山三所権現の祭神は、配置は異なるものの、白山三所権現と全く同じです(白山妙理大権現=伊弉諾尊・伊弉冊尊、別山大行事=天忍穂耳尊、越南知権現=大己貴命)。白山では日本の父母を天照大御神の御子・天忍穂耳尊と須佐之男命の子孫で婿の大己貴命が補佐し、彦山では大己貴命や妻の田心姫命(多紀理毘賣命)が出雲の国譲り神話と同様、天忍穂耳尊に場所を譲っています。白山にも彦山にも、日本の父母に始まる陰陽・幽顕の神々の対立と融和のストーリーと共に、対立を超えた仏菩薩を山上に拝むことができます。
 奉幣殿にお参りして、山上へ。山道は大きな石段が続き、キツい登り。
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湿気多く汗ダクです。大己貴命を祀る下津宮(北山殿)は工事中。宗像三女神を祀る中津宮にて勤行を修し、狩籠護法を経て山上へ。
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南岳の彼方に、岳滅鬼山(がくめきさん)。
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行者堂にて役行者を拝み、山頂まで続く石段へ。
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山の霊気、天女の如く舞うアサギマダラ。12時15分、上宮(中岳)登頂。
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伊弉冊尊・本地千手観音さまに大悲心陀羅尼を誦しました。千手観音さまとは、過去無量劫に正法明如来であったお方です。北岳へと快適に縦走
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のつもりでしたが、中岳からの下りは急峻な岩場。鞍部に下り、中岳と南岳に日本の父母を遥拝。
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石の前にうずくまって何かつぶやいているおばさんがおられ、ご挨拶。お祈りをされているようでした。12時半すぎに北岳登頂。本地・阿弥陀さまに念仏をお称えし、一年前に亡くなった妻の菩提を弔いました。
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 静かな山上で一休み。英彦山を中心に、東は松尾山や檜原山、北は福智山、西は宝満山まで連なる峯々。
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広大な山域には彦山四十九窟があり、順峰春峰四十八宿、逆峰秋峰四十八宿の入峰修行が行われていました。彦山修験の儀軌は戦国時代に阿吸房即傳によって全国に伝わり、大永5年(1525)には白山麓・加賀の那谷寺で「三峯相承法則密記」が伝授されています。阿吸房の容貌は「宛かも乞人の如し」であったとのこと。また、白山美濃馬場・長瀧寺の古の山伏の行場「鳩居峯」には、寛永12年(1635)に記された「白山鳩居峯中壁書之事」と題された十八ヶ条の壁書がありました(「長瀧寺真鑑正編」)。この壁書の内容は阿吸房即傳の「三峯相承法則密記」第五十九、峯中で新客等が守るべき「峯中壁書事」と全く同じもので、白山美濃馬場にも彦山修験の儀軌は伝わっていました。長瀧寺のこの壁書を書いたのは「大峯葛城鳩居峯第七度行人権大僧都行典法印」で、慶長14年(1614)に長瀧寺の弁財天社を再建した長瀧寺「中之坊行典」と同一人物と思われます。
 山上を舞う、二羽のアサギマダラ。
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降り始めた慈雨の中、先ほどの方が錫杖に合わせて唱える般若心経。彦山には、山伏の伝統がこれ見よがしにではなく、自然に息づいているのが感じられました。
(続く)
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松樸裏

Author:松樸裏
自由と孤独を愛するアウトサイダーと、万物の母たる大自然との一対一の対話
2006~奥美濃の藪山を登り始める
2009~白山三禅定道を毎年登拝
2016~19白山美濃馬場の古の山伏の行場「白山鳩居峯」のうち五宿を毎月巡拝、以後随時巡拝