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出雲巡礼/須我山~神名樋野~松江2

(承前)
 神名樋野の麓を北へ回り、西口登山道へ。急峻な坂を登って13時半に山頂に出ると、須我山(八雲山)に劣らぬ見事な展望が待ち受けていました!東側は中海と揖屋の黄泉平坂(よもつひらさか)の彼方に、伯耆の大山(だいせん)。
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伊邪那岐命は黄泉平坂で伊邪那美命と訣別した後、西側へ出て筑紫(九州)へと向かったのでした。また、須佐之男命の娘・須勢理毘賣(スセリビメ)と共に須佐之男命の生大刀・生弓矢・天の詔琴を奪って黄泉平坂から出ていった葦原色許男(アシハラノシコヲ)に、大神・須佐之男命は

「その汝が持てる生大刀・生弓矢をもちて、汝が庶兄弟をば、坂の御尾に追ひ伏せ、また河の瀬に追ひ払ひて、おれ大国主神となり、また宇都志国玉神となりて、その我が女(むすめ)須世理毘賣を嫡妻として、宇迦の山の山本に、底つ石根に宮柱ふとしり、高天の原に氷椽(ひぎ)たかしりて居れ。この奴(やっこ)!」

と、はなむけの言葉を送ったのでした。西には松江市街と、宍道湖の彼方に出雲の「御崎山」。
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大国主神は黄泉平坂での須佐之男命の言葉の通り、出雲を平定して葦原の中つ国の国作りを進め、「宇迦の山」(御崎山)の西麓に大社を造営することを条件に、天つ神に国譲りをされたのでした。南方には歩いてきた須我山(八雲山)方面、彼方には熊野大社の元宮・天狗山。
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東に大山知明大権現・本地地蔵菩薩、西に大国主大神、南に熊野大神(須佐之男命)、足元にアゲハチョウを拝み、山を下りました。
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 暑い昼下がり。舜叟寺を経て道なりに歩を進めてゆくと、浄音寺に出ました。
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伊邪那美命を祀る神魂神社(かもすじんじゃ)の、かつての神宮寺です。ご本尊の十一面観音さまに般若心経をお唱えしました。日本の母・伊邪那美命の本地を十一面観音さまとするのは、白山と共通しています。浄音寺から「かんべの里」へ登ってゆき、北に神名樋野を遥拝。
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大庭(おおば)の神魂神社周辺のこの一帯には、「出雲の神戸(かむべ)」がありました。「出雲国風土記」に

「出雲の神戸。郡家の南西二里二十歩。伊弉奈枳(イザナキ)の麻奈子に坐(ま)す熊野加武呂乃命と、五百(いほ)つ鉏(すき)々猶所取り取らして天の下所造らしし大穴持命と、二所の大神等に依せ奉る。故、神戸と云ふ。」

即ち、熊野大神(須佐之男命)と大国主大神(大穴持命、大己貴命)に奉仕していた神戸です。神魂神社に参詣し、大社造りの大宮に私たち日本人の母神・伊邪那美大神を拝みました。
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 神魂神社の北には柿色屋根の正林寺が建っており、出雲国造家の中世の墓所があります。
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出雲国造の祖は、天菩比命(アメノホヒノミコト)。須佐之男命が姉の天照大御神と高天の原で「誓(うけ)ひ」をした際、天照大御神が左の角髪(みづら)に巻いていた八尺の勾玉(やさかのまがたま)の連珠を須佐之男命が噛み砕き、吹いた気吹(いぶき)の中から天忍穂耳尊(アメノオシホミミノミコト)が生まれ、右の角髪に巻いていた連珠を噛み砕いて吹いた気吹から天菩比命が生まれたのでした。後に、須佐之男命の子孫で婿の大国主神が葦原の中つ国の国作りを進めていたとき、天照大御神は息子の天忍穂耳尊に葦原の中つ国を治めさせようとし、まず天菩比命を遣わしました。が、天菩比命は大国主神に順って出雲国造の大祖となったのでした。神魂神社を創建したのも、天菩比命と伝えられています。
 出雲国造館跡から、「はにわロード」を行道。お地蔵さまの彼方に神名樋野を遥拝。
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気持ちのよい森を抜け、15時半に八重垣神社着。
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須佐之男命が高天の原を追放されて出雲の斐伊川上流に降り立ち、高志の八俣の大蛇の生けにえにされる直前だった櫛名田比賣を救って大蛇を退治した際、櫛名田比賣を当地の佐久佐女の森に隠したそうです。同様の伝承は、四ヶ月前(2019年2月21日)訪れた出雲郡の神名火山(仏経山)麓の稲城の森にもありました。宝物館にて平安貴族風の須佐之男命と櫛名田比賣の壁画を拝み、佐久佐女の森へ。
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貴族風の須佐之男命も尊いですが、私はやはり、櫛名田比賣を櫛の姿に変えて角髪に刺し、大蛇を退治したり、頭に住みつく無数のムカデを葦原色許男(大国主神)に取らせるような、スケールのデカい須佐之男命の魅力に惹かれます。
 心配した雨はまったく降らず、須我神社から順調に七時間半で八重垣神社に着きました。日に焼かれつつ松江市街へと歩き続け、17時に白潟公園より宍道湖の彼方に出雲大社を遥拝。
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宍道湖大橋を渡って須衛都久神社に伊邪那美命と須佐之男命を拝みました。
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17時半、松江城着。
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ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の「神々の国の首都」に、

「城は、いまでも城山の上に、何世紀も昔に建てられた当時と変わらずどっしりと、巨大な石垣の土台から空に向かい、鉄灰色一色の広大で不気味な形をそびえ立たせている。その全体の姿は、異様な厳めしさをたたえているが、その細部も、手の込んだ奇怪な作りを呈している。それはまるで、巨大な仏塔が、二層、三層、四層と、自らの重みでだんだんと押し潰されたかのような姿だ。」(池田雅之訳)

お城から北へ下り、武家屋敷の一角に建つ小泉八雲旧居へ。
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明治24年(1891)、八雲は「日本の庭にて」に

「この家中屋敷もこの庭も、いずれはすべてが永遠に姿を消してしまうことになるだろう。すでにわが家の庭より広くて立派な庭の多くが、田んぼや竹林に変わっている。そして、長年の懸案であった鉄道が十年を待たずに敷かれることにでもなれば、古風で趣のあったこの出雲の町も大きく拡張され、やがて平凡な一都市へと変貌を遂げることになるであろう。そうすれば、わが家のような土地も工場や製作所の用地として差し出すことになるにちがいない。」(池田雅之訳)

と書いています。幸いなことに、八雲の旧居は百三十年近く経った今も、かつてと変わらぬ姿で残されています。
 小泉八雲記念館を拝観し、松江城のお堀に西日を拝みつつ東へ。
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「小豆磨橋(あずきとぎばし)」を渡って普門院に参詣しました。
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小泉八雲の「神々の国の首都」に、此処に伝わる怪談が紹介されています。

「 松江の北東部にある、普門院の近くに、「小豆磨橋」と呼ばれる橋がある。その昔、夜ごとに女の幽霊が、その橋のたもとで小豆を洗っていたと言われたことから、その名がついていた。
 日本には、「杜若(かきつばた)」という、紫色の美しいアヤメ科の花があり、それにちなんだ「杜若の歌」という謡(うたい)がある。しかし、その小豆磨橋の近くでは、この謡をけっして歌ってはならないと言われていた。その理由は定かではないが、その橋に現れる幽霊が、その謡を聞くと怒り出し、歌った本人に恐ろしい災難が降りかかる、ということであった。
 あるとき、怖いもの知らずの侍がその橋を通りかかり、「杜若の歌」を大声で歌った。幽霊など現れなかったので、侍は笑い飛ばして家に帰った。
 すると自宅の門の前に、見知らぬすらりと背の高い美しい女が立っている。女は、お辞儀をすると、女性が手紙などをしまっておく、漆塗りの文箱を差し出した。侍も礼儀正しくお辞儀を返した。ところが、女は「私はただの使いでございます。奥方様よりこれを預かって参りました」と言い残し、そのまま姿を消した。
 侍がその箱を開けてみると、中には血だらけの幼い子供の生首が入っていた。あわてて家に入ってみると、座敷の床に、首をもぎ取られたわが子の死体が横たわっていた。」(池田雅之訳)

般若心経をお唱えし、見えるものも見えぬものも、生けるものも死せるものも、生死の海を超えて涅槃の岸に到らんことをお祈りしました。
 大橋川を渡り、水戸神(ミナトノカミ)であり海潮の神である速秋津比賣神を祀る、賣布神社に参拝。
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翌日もあの大神ゆかりの地を順拝すべく、宿に入って体を休めました。


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松樸裏

Author:松樸裏
自由と孤独を愛するアウトサイダーと、万物の母たる大自然との一対一の対話
2006~奥美濃の藪山を登り始める
2009~白山三禅定道を毎年登拝
2016~19白山美濃馬場の古の山伏の行場「白山鳩居峯」のうち五宿を毎月巡拝、以後随時巡拝