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出雲巡礼/須我山~神名樋野~松江1

 先週(2019年6月21日)、白山美濃馬場・長瀧寺から長良川沿いに美濃市の立花神社まで歩いて順拝した際の記事に、「白山権現王子眷属のみならず、熊野・出雲・祇園ゆかりのあの大神のご加護とお導きを、強く感じさせられた」と記しました。この大神の名は白山三所権現六所王子の中にはありませんが、白山三所権現の垂迹神と深い関わりのあるお方です。白山頂・御前峰に祀られる白山妙理大権現(本地・十一面観音菩薩)の垂迹神は日本の父母・伊弉諾尊(イザナギノミコト)と伊弉冊尊(イザナミノミコト)。この大神は、伊弉諾尊が黄泉平坂(よもつひらさか)で伊弉冊尊と訣別した後、筑紫(九州)で禊(みそぎ)をして一番最後に鼻を洗ったとき、生まれたお方です。父から海原を治めるよう命じられたものの、「妣(はは)の国根の堅州国」、即ち伊弉冊尊のおられる黄泉の国に行きたい!とアゴヒゲが胸に垂れるまで泣き続け、父から勘当されてしまったのでした。大汝峰に祀られる越南知権現(本地・阿弥陀如来)の垂迹神・大己貴命(オホナムチノミコト、大国主神)は、この大神の子孫であり婿でもあります。別山に祀られる別山大行事(本地・聖観音菩薩) の垂迹神・天忍穂耳尊(アメノオシホミミノミコト)は、天照大御神の御子。大己貴命による葦原の中つ国の国譲りを受け、息子の瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)を天孫として降臨させたお方ですが、天忍穂耳尊は、この大神が姉・天照大御神の左の角髪(みづら)の八尺の勾玉(やさかのまがたま)の連珠を噛み砕き、吹き出した気吹(いぶき)の中から生まれたのでした。
 6月28日朝、この大神、即ち須佐之男命(スサノヲノミコト)を拝みに出雲入り。松江から路線バスに乗り、朝8時に須我神社に参拝しました。
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「古事記」によれば、姉・天照大御神が治める高天の原で大暴れをし、ヒゲを切られ手足の爪を抜かれて天界から追放された須佐之男命は、出雲の斐伊川上流に降り立ち、高志の八俣の大蛇の生けにえにされる直前だった櫛名田比賣(クシナダヒメ)を救って大蛇を退治したのでした。そして、櫛名田比賣とすごすに相応しい場所を探して当地に来たとき

「吾此地(ここ)に来て、我が御心すがすがし」

とおっしゃり、須賀の宮を建てたのでした。お宮を建てるときに立ち昇った雲を見て、須佐之男命が詠まれた歌。

八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を

激情的だった須佐之男命が心の安定を見出した地・須賀の宮に参拝し、神宮寺であった普賢院にて般若心経読誦。裏山に登って櫛名田比賣の両親・足名椎(アシナヅチ)と手名椎(テナヅチ) を祀る御祖神社へ。
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社の奥には、「南朝忠臣菅孫三郎義綱公御社」。
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「太平記」で、隠岐に流されていた後醍醐天皇を警護中に官女を通して帝に諸国の情勢を伝え、隠岐脱出を決意させた忠臣・佐々木富士名判官義縄(義綱)を祀った社でしょう。
 裏山から北麓へ山道を下り、田の中に柿色屋根の家屋が点在する風景の中を、緩やかに上へ。
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やがて須我山(八雲山)の山道に入り、奥宮の磐座(夫婦岩)に参拝。
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さらに登って9時に山頂に出ると、素晴らしい展望が待ち受けていました。北東麓にこれから歩いてゆく意宇川(おうがわ)と熊野、彼方に中海。
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星上山の肩の向こう辺りが、揖屋の黄泉平坂でしょう。南西には、須賀の集落。
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南西からの涼しい風。清楚な白百合。
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朝露に湿った山道を北に下ると峠に出、東側へ降下。
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やがて棚田から岩室の集落に出、八雲山を振り返りました。
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意宇川沿いの県道を北へ。
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10時、出雲国一之宮・熊野大社に着きました。
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 明治23年(1890)9月、西洋人として初めて杵築大社(出雲大社)に昇殿を許されたラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は、杵築大社のご神火をおこす火燧(ひきり)臼火燧杵についてこう記しています。

「大社には、毎年新しい火燧臼火燧杵が届けられる。これは杵築ではなく、出雲の熊野で作られているのだが、そこでは、その作り方が神代からの伝統として、厳然と守られてきている。もともとは、出雲の初代国造が宮司になったとき、天照大御神の弟で、熊野大社に祀られている神様、須佐之男命からじきじきに授かったのが、事の始まりだという。それ以来、杵築の大社の火燧臼火燧杵は、出雲の熊野で作られるようになった。」(「杵築―日本最古の神社」、池田雅之訳)

「出雲国風土記」に記されている社の中で、「大社」と呼ばれているのは意宇郡の熊野大社と、出雲郡の杵築大社だけです。熊野大社の祭神は

伊邪那伎日真名子 加夫呂伎 熊野大神 櫛御気野命(イザナギノヒマナコ カブロギ クマノノオオカミ クシミケヌノミコト)

素戔嗚尊(スサノヲノミコト)のことです。「古事記」によれば、伊邪那岐命が出雲の黄泉平坂で伊邪那美命と訣別した後、筑紫(九州)で禊をして最後に左目を洗ったときに天照大御神、右目を洗ったときに月読命、鼻を洗ったときに建速須佐之男命が生まれたのでした。須佐之男命は、国土と神々を生んだ日本の父母・伊邪那岐命と伊邪那美命の、末っ子なのでした。紀伊の熊野本宮の祭神・家津美御子大神(本地・阿弥陀如来)も素戔嗚尊であり、出雲と紀伊の熊野信仰のどちらが古いにせよ、元は須佐之男命に他なりません。大社造りの大きな社殿に熊野大神・須佐之男命を拝み、社殿の左右の社に妻・櫛名田比賣命と、母・伊邪那美命を拝みました。
 熊野大社から意宇川左岸を少し下ると常榮寺があり、十一面観音さまに参拝。
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柿色屋根の本堂裏手には、尼子経久公の嫡男・尼子政久公のお墓の宝篋印塔がありました。
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出雲国守護代から月山富田城を拠点に山陰山陽十一ヶ国にまたがる戦国大名となった尼子経久は、永正15年(1518)に政久を大将として八雲山南西の阿用城を攻めましたが、夜、笛の名手であった政久公が笛を吹いていたところを敵に狙われ、流れ矢に当たって26歳で亡くなってしまったのでした。経久公の後は政久公の子・晴久、その子・義久と続くことになります。墓前にて宝篋印陀羅尼を誦して政久公および尼子一族を供養し、熊野大社の南西に八雲山を遥拝しました。
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 長閑な意宇川左岸をそのまま下流へ行道。
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オニヤンマ。
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平原川との合流点で右岸へ渡ると、前方にアンテナの立つ山が見えました。
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川沿いに下ってこの山の手前を左に曲がると、正午に神納山(かんなやま)の岩坂陵墓参考地着。
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「古事記」に、日本の母・伊邪那美命は

「出雲国と伯伎国との堺の比婆の山に葬りき。」

とあり、三ヶ月ほど前(2019年4月4日)訪れた安来の比婆山がその伝承地ですが、此処も伝承地の一つのようです。黄泉平坂で夫・伊邪那岐命と訣別して黄泉津大神となられた日本の母を拝み、神納峠を越えると、六世紀後半の前方後円墳・御崎山古墳。
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北には、同時代の岩屋後古墳(いわやあとこふん)の背後に茶臼山(意宇郡の「神名樋野」)。
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「出雲国風土記」に記される四ヶ所の「カンナビ」の一つです。出雲郡の神名火山(仏経山)は四ヶ月前(2019年2月21日)に登りましたが、ジュラシックな藪中でポケットに入っていたシダの歯は、まだ青々としています。
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12時半、神名樋野の麓の真名井神社に参詣し、日本の父・伊邪那岐命を拝みました。
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 真名井神社から山麓を西へ歩いてゆくと、山代郷南新造院跡がありました。
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「出雲国風土記」に

「新造の院一所。山代郷の中に有り。郡家の西北二里。教堂を建立つ。住む僧一躯。飯石の郡の少領出雲臣弟山の造る所也。」

とあります。古寺の跡にて般若心経をお唱えし、さらに西へ進むと、山代郷正倉跡。
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「出雲国風土記」に

「山代の郷。郡家の西北三里一百二十歩。天の下所造(つく)らしし大神、大穴持命の御子、山代日子命(ヤマシロヒコノミコト)坐(いま)す。故、山代と云ふ。即ち正倉有り。」

神名樋野の麓を北へ回り、西口登山道へ。急峻な坂を登って13時半に山頂に出ると、須我山(八雲山)に劣らぬ見事な展望が待ち受けていました!
(続く)



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松樸裏

Author:松樸裏
自由と孤独を愛するアウトサイダーと、万物の母たる大自然との一対一の対話
2006~奥美濃の藪山を登り始める
2009~白山三禅定道を毎年登拝
2016~19白山美濃馬場の古の山伏の行場「白山鳩居峯」のうち五宿を毎月巡拝、以後随時巡拝